第9話【選択】

「僕はあなたを改めて見直しました。相当に不快なことを言っているというのに実に冷静です」

「そうかい」今度は声に出した。

「そうです。本来なら恋愛は自由ですから、他人である僕があちらを選ぶべきで、こちらを選ぶべきではない、とか言うだけで相当な噴飯もののはずです。しかしこの件についてだけはそういう原則は通じません。涼宮さんがいつまで寛容でいてくれるか、まったく保証の限りではありませんから。涼宮さんは今のところですが苛立ってはいません。あなたが必要以上に佐々木さんとバイパスしない限り、かの少女はあくまで過去の知人というだけのことですからね」

「警告のつもりか?」

 だが古泉はこの問いに直接答えず、

「我々は涼宮さんと比較したら一般人に過ぎません」と口にした。

「『我々』の中に長門や朝比奈さんも入っているのか?」

「そうですよ。僕らには複数の選択肢を同時に選んで歩むなんて事は不可能です。我々はαルートとβルートを同時には選択できないんです。常に選べるのはひとつだけです。だから間違ったルートを選ばないように進路を取らないといけないんです」

 それからほどなく、黒塗りのタクシーは俺の自宅前に到着した。


「ではまた明日」古泉はそう言い、新川さんは無言ではあったが微笑み顔で会釈をし、タクシーは視界から消えてしまった。ずいぶんと密度の濃い時間を過ごすことを強いられたような気がしたがスマホで時刻を確認すればまだ七時半よりも前だった。


 夕食を済ませ洗面台の前に立つ。鏡に映る俺の顔。

 俺が冷静? 冷静だって? 冗談じゃないぜ。本当なら古泉をどやしつけてやりたかったところだ。

 それがなぜ出来なかった? ホワイ? 理由は簡単だ。古泉はいちいち根拠を示して詰問してきたからだ。中河のラブレターの代筆。『ミヨキチの保護者をした或る一日』を題材とした俺の小説。それが載った同じ機関誌にハルヒが寄稿した論文モドキ。ハルヒがどうやらSOS団を高校で終わりにしようとしていないらしいこと。

 古泉の話はいつも本当かどうか確かめようのない一方的な話ばかりで真実であると信じるに足る説得力に今ひとつ欠けていたが、今日の話についてはまったくこれまでが当てはまらない。いちいち根拠を示してきやがった。まして俺が古泉にここまで詰問されたことは無かった。あっても一言、二言くらいだったろう。


 考えてみりゃ俺は事につけ古泉に問い質してきたような気がする。SOS団と『機関』のどちらを選ぶのか、と。その結果かなにか解らんが俺は古泉から言質をとっている。

 『今後、長門さんが窮地に追い込まれるようなことがあったとして、そしてそれが『機関』にとって好都合なことなのだとしても、僕は一度だけ『機関』を裏切ってあなたに味方します』

 『僕個人的にも長門さんは重要な仲間です。その時、一度限りは長門さん側に回りたいと思います。僕は『機関』の一員ですが、それ以上にSOS団の副団長でもあるのですから』と。


 進路、選択。

 古泉、お前の進路や選択はSOS団だってのか。

 そして俺に限り『進路、選択』には二重の意味ができてしまったようだ。

 純粋に次のステージがどこかという進学的意味合いと、ハルヒと佐々木、どちらを選ぶかという痴情じみた選択。

 冗談じゃないぜ。もしハルヒが聞いたら『あんた何様?』とか言って笑いながら首を絞めてくるだろうし、佐々木が聞いたなら『くっくく傑作だね親友』などと笑われること請け合いだ。ふたりとも俺を笑うだろうがその威力はきっと佐々木の方が強力だろう。精神がぼろぼろになっちまう。

 なら選ぶ方はもう決まってるだろ。自然にそうなるしかない。古泉が気を揉む必要など無いのだ。SOS団を選ぶということは自動的にハルヒを選択する、そういう進路を選んだって事だ。

 しかしSOS団が高校卒業後も存続するというなら事情が違ってくる。俺の進学先とハルヒの進学先が違ってしまったら俺はSOS団を選択しなかったことになるのだろうか? そうならないために古泉の『機関』が俺に提供を申し出ている不正に乗らされるハメになるのか?

 だいいちハルヒ=SOS団なんだろうか。


 ふいに妙なことを思い出しちまった。

 『SOS団は次世代の育成も怠ってはいけないの』

 『たとえこの学校が取り壊されてもSOS団だけは残るくらいの気概を見せないと』

『あたしたちはその礎となるのよ。いいえ、ならなきゃダメ』


 ハルヒがそんな思わせぶりなこと言ってたっけな。ハルヒにとってSOS団を選ぶってのは俺を選ぶなんて意味になってるのかどうか。

 他の連中にとってはどうなんだ? 長門や古泉や朝比奈さん以外の人物が加わったり、ましてや減ったりしているところなど思い描きようがない。俺がSOS団を選ぶとみんな続けるのか? みんなどこまで突っ走るつもりだ。


 万物は流転する、とか言ったのは誰だったけな。なんとなく今は異議を唱えたい気分だ。決して変化しないものだってこの世にはあるもんさ。例えば過去の記憶がそうだ。あの時俺がいてハルヒたちがいたという思い出は、アルバムに保存した写真を見なくたっていつまでも残存しているのだ。三年生が卒業するまであと一年ないからな。しかし今のこの時間も、未来永劫消えることのない時間的一ページとして俺や朝比奈さんたちの中に残り続けるだろう。

 だけどいったいSOS団はいつ頃過去の記憶になるんだろう、いつ頃思い出になるんだろう、いつ頃時間的一ページになるんだろう。

 SOS団が決して変化しないもののひとつになるって? バカな。

 だが佐々木に関するごく微少の情報消去という事件について、SOS団の今後(それは即ちイコール涼宮ハルヒの今後ということだ)に影響を及ぼしかねないと判断した長門と古泉は俺の意志がどこにあるのか問い質してきた。


 団あっての人員じゃねえんだ。人員あっての団なんだよ。誰一人欠かすべからざる、不動のメンツでどこまでも突き進むんだ。それは最初、ハルヒだけの望みだっただろう。だが俺や朝比奈さんや長門や古泉と共有する同一の願いになるまで、そう時間はかからなかったと俺は思っている。小型ブラックホール並の潮汐力を持つ団長の周囲で回る膠着円盤のようなものさ。俺たちは吸い込まれることも離脱することもできず、ただそこに居続けるのだ。俺たちをつかんで離さない、なぞの引力が途切れるまで——な。


 俺は確か、そう思っていたはずだよな? 俺はそれを『実行してください』と古泉に求められただけなのだ。

 俺の向かう先はどこにある? ハルヒとともにどこまでも歩むか、それともどこかで宗旨替えすることになるのか。

 確率統計の壁をやすやすと突破して無意識のうちに正解に辿り着く涼宮ハルヒという存在、こいつが俺をパシリか何かと考えてSOS団に参入させたのならまだマシだ。ああ、そうだとも。俺自身にバカくさい謎な裏設定があることになっている、と考えるよりも全然いい。それで、あるのか? 俺になんかの知らん素っ頓狂な変な能力かあるいは素性が。

 だから俺を選んだのか? 俺の知らない俺の秘密なんてのが、実はあったりするんじゃないだろうな。

 今一番欲しいのは勉強ができる能力だ。だがそんなものは無い。ハルヒは望めばなんでもその願いが叶うらしいが俺はそうではない。

 俺が恐れるのは次の一点だ。

 俺は何者なんだ。


 サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいいような話だが、それでも俺がいつまでサンタなどという想像上の赤服じーさんを信じていたかと言うとこれは確信を持って言えるが最初から信じてなどいなかった——


 たった一年二ヶ月くらい前か、そんなくだらんことを考えていたっけな。一年四ヶ月前は俺も中学校に登校していた正真正銘の中房だった。

 鏡の中の俺の顔はまだそうそう変わっているようには見えない。だがあの時の中三の春休みから高一の初期までの間の気楽さは確実にどこかに蒸発した。あの時の心がどこかに消えた。

 SOS団を選ぶということは現状維持のモラトリアムなどではなく実は選択であり進路であることが明瞭になってきた。

 終わりが本当に来るのか、今の俺は相当疑わしく思っている。疑い深くもなる。もうちょっと単純な性格をしていたかったよ。朝比奈さんがいるからそれでもういいやとか思えるような、そういう割り切り型の簡単な……いやもう言うまい。過ぎたるは及ばざるがごとし(わざと誤用するのがコツだ)——


 ほんの少しだけ……俺が取り戻せたろうか。

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