第7話【恋心】

 あの、長門が……

「で、どう教えてもらったんだ?」

「『一般的に恋愛感情と呼ばれる[人間という有機生命体の意識状態]については理解の範疇外。だから古泉一樹、あなたにこの件の対処を求める』、とまあこんな感じです」

「恋愛だって⁉ 長門が言ったのか?」

「ええ、そうです。そして僕も同意見です」

「誰の恋愛だ?」

「誰って、決まってますよ。我々は涼宮さんを観察しているのですから涼宮さんの恋愛です」

「ハルヒが誰に恋愛してるんだ?」

「誰って、あなたですよ。だから佐々木さんとのことを訊いているんです」


 なるほど、これか。古泉が俺を怒らせるかもしれない、などと言った理由は。

 でもな、

 『男なんてどうでもいいわ。恋愛感情なんてのはね、一時の気の迷いよ、精神病の一種なのよ』てなことを言っていたのはハルヒ自身だ。あれ、でも待てよ……

 『特に恋愛感情なんてのは精神的な病の一種だよ』って、佐々木も似たようなことを言ってたような?


「んなわけあるか。ハルヒは恋愛なんて気の迷い、精神病の一種だと俺に断言したんだぞ」

「ではバレンタインのことを思い出して下さい。我々は溶かしたチョコレートでコーティングされたケーキをもらったはずです。そこに書かれていた文字を覚えていますか?」

「確か、ハルヒのが円形で「チョコレート」。朝比奈さんがハート形で「義理」、長門が星形で「寄贈」だったかな。あれは見事な明朝体だったよ」

「形まで記憶されているとはさすがです。そして問題は朝比奈さんからの分ですが、わざわざ『義理』と書かれているのはなぜなんでしょう? あなたには心当たりはありませんか?」

「あるさ。ケースの底からキッチンペーパーの切れ端に『涼宮さんにこう書くように言われました』と急いで書いたようなメモが出てきたっけ」

「そうですか。あなたのにはついていましたか」

「俺だけなのか?」

「まあそこはノーコメントで。つまり朝比奈さん的には気が咎めたんでしょう。それ故のキッチンペーパーのメモ書きだと考えられます。よりにもよってハート型のチョコレートにわざわざ『義理』と手書きで書かせるなんて、涼宮さんの闇を見た思いです」

「あいつは映画を撮るときも朝比奈さんにセクハラと言ってもいいようなことをしてたんだからな」

「しかし、僕はそれを咎めようとも思いませんよ」

「なんでだ?」

「それはどう考えても〝嫉妬〟だからです。これほど自然な感情もありません」

「まさか俺を他の誰かにとられそうになって嫉妬したとか言い出さないよな」

「言い出しますよ」

「却下する」

「できません。あと二つばかり実例を示せますよ僕は。言ってあげましょうか?」

 言われたくないと思ったが、取り乱して黙らせるのもシャクだ。

「あなたの中学時代の同級生に中河氏という方がいましたね?」

「ああ」

「確か長門さんへのラヴレターの代筆をあなたは頼まれた」

「そうだが」

「その後なにが起こりました?」

 思い出したくもない。


 俺『いや、だからこれはだな。俺の中学に中河という野郎がいて……』

 ハルヒ『何よ、他人のせいにすんの? あんたが書いたんでしょ、これ』

 思い出してしまった……


「あなたはずいぶんと力強くシャツを絞り上げられていたようですね」

「違うぞ。あれは長門をからかおうとしている男が許せないとかなんとか」

「それは涼宮さんの後付の言い訳ですよ。あの時廊下にまで涼宮さんの声が響いていました。『こんな間抜けな手紙を書くようなバカが団員から出ちゃうなんて』とね。長門さんをからかう手紙だと最初から思っていたなら『こんな間抜けな手紙』ではなく、『こんな悪質な手紙』とか『こんな非道い手紙』だとか言っていたはずです。あれは明らかにあなたから長門さんへのラヴレターだと理解されてしまったんです」


 反論の言葉が出てこないぞ、俺。


「もうひとつ。さっきも少しその話をしましたが文芸部の機関誌です。あなたは確か『恋愛小説』の担当でしたね? そのあなたの書いた恋愛小説を涼宮さんが読んだとき、まったく同じことが起こりました。『ミヨキチって誰? あんたとどういう関係?』と涼宮さんに問い詰められ床に押し倒されたそうですね。確か吉村美代子さんといいましたか」

「待て、お前はその場にいなかったはずだろ!」

「それも長門さんに教えてもらいました」


 そのついでなのだろうか、妙なこと思いだしちまった。

〝ウサギのお姉ちゃん〟の話だ。

 『あたしん家の近所にね、とっても賢くて素直な子がいるのよね。ハカセくんみたいな眼鏡かけてて、いかにも頭良さそうな顔してるんだけど。たまーに、その子の勉強見てあげてんの。んで昨日もそうだったわけよ。でね、こんなことを言うわけよ。ウサギのお姉ちゃんが男の人と一緒にいたってねーぇ』

 『んで?』

 『昨日、あんたとみくるちゃんが、どこで何をしていたのか言ってみなさい。ええ、きっと怒らないから』

 それを言ったのはもちろんハルヒ。


 車の窓の外の景色はいつの間にか高速道路——

「これでもあなたは涼宮さんに嫉妬されていないと言うのですか?」

「俺はハルヒの言葉で『あたしだけを見ていろ』とか聞いてねえ。ただ暴力を受けただけじゃねえか」

 古泉がこらえるように笑い出した。

「なにが面白いんだ?」

「いえ、おかしかったからではありません。羨ましくなったものですから」

「俺のどこに羨望を感じたと言うんだ?」

「あなたと涼宮さんの間にある、見えざる信頼関係に対してですよ」

「何のことやら、さっぱりだね」

「しらばっくれるつもりですか。いえ、あなたにも解っていないかもしれませんね。涼宮さんはあなたを信頼し、あなたもまた彼女を信頼しているということですよ。決して言葉に出したりはしませんが、あなたがた二人は理想形と言ってもいいくらいの信頼感で結びついているんです。あなたは暴力を振るわれたと言いますが腹立ち紛れに日常的にそういう行為に及ばれているわけではありません。然るべきシチュエーションが揃った時に発動されているんです。嫉妬というのは恋愛感情抜きに成り立ちませんよ」

「なにが恋愛だ」

「あなたは涼宮さんが男女間の恋愛について全てを語るようなことのできる心理学に秀でた方に見えるのですか?」

「ぜんぜん」

「僕もです。涼宮さんは解っているようで解っていない。彼女の精神は同年代の女子生徒に比べて特別に老成してはいません。そこだけ見ればごく普通の一少女ですよ。ただ、ひねくれたポーズをつけたがっているだけなのです」

「そのひねくれたポーズってのが無意識の結果としての記憶操作だってのか」

「そうです」

 俺から佐々木の名前を忘れさせたのがハルヒだって? いったいどんな歪んだラブストーリーだ。

「なるほど、それで〝俺を怒らせるとか〟そういう思わせぶりなことを言ってたってわけか?」

「そうなんです。事態が発生したのは昨日の夜半のようですね。真夜中に長門さんから電話が掛かってきてびっくりしましたよ」

 それは……びっくりし過ぎるよな。

「しかしまったく初めてというわけでもありませんでしたから」

 忘れもしないさ、去年の夏休みのことはな。

「で、朝比奈さんは?」

「もちろん知らせてません」

「もちろん、なのか?」

「知らせるか知らせないかは長門さんに丸投げされ——いや、一任されましたから。だいたいあなたの恋愛問題を朝比奈さんが知ることになるのはあなたにとっても不本意なことではなかろうかと、僕が独断で判断しました。あなたの許可が出るなら今からでも知らせようかと思いますが」

「知らせなくていい」

「そう言うと思ってました」


 しかし、気が重い。コイツはどうやら事情を知っているらしい。『佐々木の名前』についてあれやこれや首を突っ込まれたくない。というか古泉に丸投げするあたり長門には既に人間の、いや男子高校生の心の機微というものが解っているのではないか。もはや宇宙人製の対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースの限界などとっくに突破しているんじゃないか?


「僕はこれでも気を使っているんです。とどのつまりあなたが涼宮さんを選択し、微塵の揺るぎもなければ瑣末な問題で済んでしまいます」

「俺はそれほどの男じゃない」

「覚えていませんか? 僕の言ったことを。〝朝比奈さんの過去に親しくしている男性がいて、その彼が彼女に馴れ馴れしい態度をとっていたとしたら?〟と僕は訊いたはずです。で、改めて問いましょう、どうですか?」

「もちろん腹立たしいとも。だがな——」

「だがもなにもありません。あなたの親友を自称する佐々木さんなる方が、おそらく十人中八人が一見して目を惹かれる、実に魅力的な女性だったからですよ。今回のちょっとした事件が起こった原因はね」

「……」

「まあ、涼宮さんの中学時代はほとんど孤立か、孤独状態でしたから、あなたの言うところの〝親友〟ということばの響きに心打たれるものがあったのかもしれません」

「フォローのつもりか?」

「ええ、これでも気を使っているんです。繰り返しになりますが」

「佐々木とは何もない」

「ではβルート、つまり渡橋ヤスミさんが存在しない方のルートですが、あなたが何をしていたのか教えてくれますね?」

「事件解決の相談だ」

「SOS団員でもないのに? なぜ団員ではない人物に相談を?」

「あの時は長門が寝込んでいてハルヒや朝比奈さんが付きっきりだったろ」

「僕は空いていましたが。なぜあの時僕に相談をしてくれなかったのです?」

「キャッチボールしながら相談してたろ」

「しかし佐々木さんとのことは僕は知りませんでした」

「あれは俺が佐々木に持ちかけたんじゃない。佐々木が俺の家に来たんだ」

「ほう」と言って古泉は目を細めた。

「やましいところは無い。咎められるような話はしていないぜ」

「しかしそれが〝やましい〟か〝やましくない〟かは涼宮さんが決めることです。いいですか? 涼宮さんは我々の危機を救うため無意識にせよ我々のために並行世界を創ってくれたのです。その一方の並行世界であなたが佐々木さんとよろしくやっていたとなれば涼宮さんがどう思うでしょう? 現状の微少な情報操作は涼宮さんがまだよく押さえてくれているものだと感謝したいくらいです」


 なぜ俺が古泉に押されている?

「ではその話、してくれますか?」古泉にダメを押された。

「だから事件解決の——」

「佐々木さんがわざわざあなたに『解決してくれ』と要請するんでしょうか?」

 言いたくはない。だが『佐々木が言ってもいないこと』を言ったということにされたくもない。そりゃ佐々木に対してあまりに不誠実だ。

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