第5話【進路】
放課後、俺はいつものように文芸部室SOS団本部へと足を向ける。中間テスト十日前ということでハルヒ先生のシゴキに耐えねばならない。いや、もちろんこれは俺のためでもある。本日は数学。数学は俺の数多く存在する不得意科目の一つだった。
さて、前に授業の内容を確実に脳細胞に留めるコツというものを伝授された。実は特別な集中力なんかいらないのである。ぼんやりとでもいいから教師の話が耳に入るようにして、後は黒板なり教科書なりをひたすら眺めるだけでいい。ノートをとっておいたほうがいいのは当たり前のことだが、そんなもんを毎時間几帳面にやる気にもならないからコツも必要になるわけだ。
解りやすく言うと、「特別授業に集中する必要はない。しかし授業以外のことも何一つ考えないようにする」これだけでいい。なんせ他になんにも考えていなければ、やることを失って退屈した脳ミソは目や耳から流れ込んでくる情報を頼んでもないのに勝手に覚え込んでくれるっていう寸法だ。
ただし俺にこのコツとやらを教えてくれたのはあくまでハルヒであり、これが涼宮ハルヒ流学習術であることは忘れないでいただきたい。ようは勉強しなくてもいいが勉強以外に頭を使うこともなーんもするなってわけだ。
だが、実際にハルヒが何も考えていないことなんかあり得ないように思うので、ますます眉唾あって、つまり全然アテにならないってもんだが、まあ、俺は既に試してみた。言ってるハルヒが好成績を維持してのけている現実があるからな。
しかし別の現実ができちまっただけだった。コツを忠実に実行しているつもりの俺の成績がアレな現実がな。
要は他人の勉強法ほどアテにならないものはないってことさ。
とは言え、まったくハルヒ流勉強法が役に立たなかったわけじゃない。
「ストーリーで覚えるの。誰が何故、こんなことを考え出したのか、そこにさえ頭が回ったら、あとは芋づる式にすべてが繋がっていくのが解るから。次にすることは出題者の心理を洞察することなの。昔の人の考えなんてさっぱー解らないけど、同じ時代に生きている人間の考えることなんて推測するに造作もないわ」、これはヒントになった。
要するに連鎖式記憶術とでも言えばいいのか。特に「出題者の心理を洞察すること」というのは『試験問題には期待する回答がある』ということでテレビで見た有名予備校講師も言っていたという記憶が頭の中に残っている。少なくとも俺はこれで少しは進歩できたと自画自賛する。
だがハルヒはそういう他人の期待に真っ正直に応えるような真似を是とするはずもなく、例えば現国の問題では、「この文章を書いたときの作者は何を思っていたのでしょうか、とかそういうやつでしょ」と言って問題にケチをつけ、
「くだらない問題だわ。小説でも評論でもそうだけど、文章なんてなにが書いてあるかが問題なんであって、筆者がなにを思って書いたのかなんて出題者が本人じゃない限り解るわけないじゃない。正解があるんだとしても、そんなの答案に○×をつける人間の気まぐれか思いこみでしかないもの。その手の問題はこう攻めるべきね。この文章を読んだときの私はなにを思ったのでしょうか、それならまだ問題として納得がいくってものよ」などとストレスを俺に叩き付けてきた。
しかし二年最初のテスト、本当にどうなっちまうんだろうね。俺個人的なことを言えば、本当にそろそろ成績のほうをなんとかしないとけっこうヤバイな。
なにしろ二年だ。一年の時より授業の難易度は上がっている。そしてこれからも時間の経過と共に上がり続けていくのだろう。
なにしろ俺は一年前、高校入学僅か二ヶ月程度で受けた中間テストも散々だった。もうその時点で黄信号だったのだ。一年三学期期末でいくぶん持ち直したとは言え、基本二年になっても状況は変わらず、このまま行くと中間もまともな結末を迎えるとは言い難い。その原因は俺がSOS団の活動にかまけすぎて学業に専念できないからに違いない、とされかねない。
妙な事件にはかまけたくもないのだが、俺はこの日常にはかまけたい。そう、ハルヒが何か言い出すたびに意味もなくアチラコチラをうろちょろしなければならなくなってしまうという法則が一年前からの俺の日常となりつつあって、そんな日々にとっくに染まっている自分のことを比較的肯定できる。
だが一方、学業をどこかに放り投げている自分については「ちょっとイヤだ」程度に思えなくなってきた。「かなりイヤだ」。
ハルヒ先生の特別授業はテストのヤマ的には有益だが、受験生をやる以上は競争相手は校内に限定されない。本格的に進路を考えるなら卒業さえ出来ればいいというものではない。
不幸なことにこのSOS団内には俺の感覚を共有できる者がいなさそうであり、どういう理屈かハルヒは理不尽なまでに学業優秀、古泉だってこれまでの定期試験の結果だけ見りゃ秀才の範疇に入り、考古学的趣味からかもしれないが朝比奈さんは割と努力して授業を聞いているようだし、長門の成績なんてあえて語るまでもないだろう。
「ハイハーイ、みんな注目ね」ハルヒが燦然と輝く太陽のような顔で団員全員の注目を要求した。
「いい? いよいよ我がSOS団も進路ってもんを決める時が来たのよ」
解釈の仕方によってはずいぶんと爆弾発言である。この部室に集う宇宙人、未来人、超能力者全てに緊張が走り部室内の空気が一変したように感じたのは俺の気のせいじゃないだろう。
で、俺は、といえばハルヒのダウナー現象がもう終息したのか、と少し意外な感じがした。
「進路というのはSOS団の今後の活動方針についてでしょうか?」能面のようなスマイルのまま、まず古泉が反応した。
珍しいことだ。ハルヒへのツッコミ役は俺だろうに。
「SOS団の活動が変わるわけないじゃない。団員よ団員の進路よ。そこのキョンっ、解ってる?」
〝そこの〟は余計だとは思ったが敢えて言うまい。言うこととは、こうだ。
「それはつまり『進路希望調査票』の中身のことか?」
「当ったり前よ。団長は団員の進路指導しなきゃいけないのよ!」
俺は無意識に古泉の方を見ると微苦笑を俺に向けてきた。さっきの殺気立ったような空気などあっという間に消えちまった。
古泉からしてみたら「涼宮さんをあまりヒマにさせておいてはダメのようですね。今後の課題として、検討の余地があります」ってことなんだろうが、個人情報の塊である『進路希望調査票』をなぜハルヒに見せねばならん。
「おいハルヒ」
「なによ」
「例外はあるのか? 無いのか?」
「無いに決まってるでしょ」
「じゃあお前も見せるんだな?」
「当然よ」
もはや返すことばがない。よもや『宇宙大統領』とかは書くまい。
「しかしあれは中間テストの後だろ? まだ終わってないじゃないか」
「あんたなに言ってんの? それは二年生の話でしょ? この中にひとりだけ三年生がいるじゃない?」
「ふええーっ」と愛くるしい声がした。声の主はもちろんSOS団専属メイドの朝比奈さんその人だ。
「ちょっと、みくるちゃん。あなた三年なのよ。お茶ばかり淹れてて忘れてない?」
お茶を淹れさせてるのはお前だろうが。
「いえそのいえ……」とこの可愛らしい上級生はしどろもどろになる。
「なに言ってんの! 進路は理系? 文系? そう言えば家政学部って文系なのかしら?志望大学名は? もう決まってなきゃおかしいわよね? それともメイド修行で海外に留学?」
そんな〝留学〟があるか——と、ここまで思ったところでハルヒの言った、事の重要性に気がついた。
朝比奈さんはハルヒが北高に必ず入学してくるということが解っていたから、予め北高生をやっていた。ということは、だ。朝比奈さんの入学する大学についてもまた同じことが言えるのではないか?
朝比奈さんの入学する大学=ハルヒの入学する大学、となるではないか。
「あの、じつはそのまだなんにも決めてなくて……でもあたし大丈夫だからその、ほんとうに心配ないですから……」
言えば却って逆効果にしかならない言い訳を言いながら少しずつ少しずつ後ずさりしながらドアの方に————
ドンっ! とハルヒはドアに片手をついて出入り口を無情に封鎖。
「ひゃっ」
「なに? みくるちゃん。それでも三年なの? いいわ、あたしが相談に乗ってあげる。そこのキョンとかに聞かれるのは嫌でしょうからわたしが一対一でね」
止めようか、止めまいか迷う。
「なにしろSOS団は生徒のための万相談所ってことにもなっているんだからね」と顔には得意満面の笑み。
「そういうことでしたら我々がこの場から退去しましょうか?」古泉がいつも通りな如才ないスマイルを浮かべ立ち上がる。
「いいわ。古泉くん。今日はこれにて解散。あたしはみくるちゃんの進路相談に乗るから」
下級生に進路相談される上級生の身にもなってみろ。というのは俺の心の中の声で口に出して言ったわけじゃない。ハルヒは有無を言わさずに未来人の上級生を連行して行ってしまった。いったいどこへ連れ込むつもりだ。だいいち——俺の数学はどうなった?
「さて、解散ということらしいので僕も行きますか」
「待て、古泉。なにか話があったんじゃないのか?」
「僕は後でけっこうです。既にあなたの了解を得ていると思っていますから」そう言って部室から出て行ってしまった。
なにかこう、思わせぶりというか。まるで長門となにかを話せるよう状況を造ってくれたみたいじゃないか。
まあいい。長門とふたりきりというのはありそうで意外にない。この状況を造るのはハルヒのいるところじゃ不可能だからな。
なによりも俺には気になることがあった。俺は今朝から佐々木の名前を失念し、中学の卒アルも原因不明の消失をしていた。国木田所有の卒アルについては谷口の邪魔が入ったためどうなっているか解らないが、少なくとも国木田も佐々木の名前が記憶から飛んでいた。
さて、俺はここでなんらかの世界改変が再び行われたのではないかと身構えて登校してきたのだが、とんだ拍子抜けでいつものSOS団にいつもの団員達である。だから一番的確な答えを返してくれそうな者に訊いてみたいと思っていた。
「長門、訊きたいことがある」
長門は読書中の本から顔を上げ相変わらずの無表情で俺を見つめた。間違いなくいつもの長門だ。
「どうも、昨日と今日を比べてだ、なんというか世界が若干違っているんじゃないかという気がするが、これは俺の気のせいなのか?」
長門は俺の目をじっと見たまま、
「それは気のせいではない」
なに⁉
「つまり、あの世界改変みたいなことがまた起こったってのか?」
どうも長門に面と向かって『十二月十八日の』とは言いにくい。
「世界は改変されていない。この世界の情報にジャンク情報が混在している」
「ジャンク情報? 原因はどこだ?」
「涼宮ハルヒが発信元」
またあいつか。
「で、大丈夫なのか?」
「無視できるレベル」
ある意味長門は俺の期待する答えを発してはくれなかった。俺が〝大丈夫なのか?〟と問うたのは、あの『十二月十八日』の再現。誰かがどこかへ飛ばされていつもの場所から消えてるとか、そういう事だったのだ。有り体に言って心配したのは佐々木の身だ。
「人間がひとり消えたとかそういうのは無いわけだな」
「そう」
つまり佐々木の身になにかが起こったってことは無さそうだって事か。長門が言うんだから間違いないだろう。あれ、でも……
「無視できるレベルのジャンク情報ってのはなんなんだ?」
「ごく限られた選択範囲の人間達からのごく微少の記憶の消去」
長門にしては的確だ。俺には思いっきり心当たりがある。
「情報操作」、と念を押すようにまだ付け加えてくれた。
「それをハルヒがやったのか?」
「そう」
「どうすりゃいい?」
「考えて」
長門は本を閉じる。
「は?」
「考えて」
それだけ言うと長門は立ち上がり文芸部室から出て行こうとした。
「待ってくれ」
長門は無言で振り向いた。
「お前の進路は、調査票には何を書くつもりだ?」
思わずそう尋ねていた。
「わたしの役割は涼宮ハルヒの観察だから」
それだけ言うと長門は今度こそ文芸部室から出て行ってしまった。
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