第2話【坂道】

「おはようございます」

 佐々木の名前のことばかりを考えて歩いている俺に背後から声を掛けたのはいつものハンサムスマイルで常に如才なく振る舞うSOS団副団長古泉だった。

「あれ、登校時に会ったことがあったか?」

「ええ、言うと思ってました。実はこれは偶然ではありません」

「それなら連絡くらい寄こしたらどうだ? 男に待ち伏せされるなんて勘弁願いたいね。こんな時こそ使えばいいじゃねえか。ハルヒ肝いりの無料通話アプリを」

「しかし我がSOS団においては誰も使う習慣がありませんよ」


 そう、例によってハルヒが言いだした。『我がSOS団が無料通話アプリを導入しなくてどうするの⁉』と。

 ただ単に隣のコンピ研の連中が全員スマホ装備になったからだろう。さすがにノーパソのように強奪するわけにはいかないからな。というわけでハルヒ団長の直命でSOS団員全員がスマートフォンへと機種変更することになった。まあいつかはやりたいと思っていたからそれは渡りに船ではあったが。

 しかし問題はその無料通話アプリであった。


 ハルヒの腰巾着を喜々としてやっているようなところがある古泉が微笑を湛えたままこんなことを言った。

「僕はよく人から話が長いと言われましてね。自分ではその自覚は無いのですが。この単文投稿アプリは、さて、僕にはどうでしょうね。仮にこれを使った後補足のために音声通話を掛けたとすると、いささかしつこいと思われたりしないでしょうか。それならば最初から音声通話で掛けた方がいいことになります」と。

 まったく至極もっともなことだ。


 長門もまた長門で問題だった。元々口数は極めて少ないから文字列の方は、

『そう』

『違う』程度。

 おまけに、『……』、という、確かこんなのもあった。

 長門の方はこれで済んでしまうのだが、訊く方がそれこそ古泉ばりに言葉を洪水の如く流し込んで根掘り葉掘り訊くほかなく、何回にも分けて長文を入力するくらいなら普通に電話として使う。

 まして長門とのコミュニケーションは、本を開いているか閉じているか、立っているか座っているか、首の角度はどうか、一ミリほど肯いたかどうか、等々五感を研ぎ澄まさないと成り立たないところがある。

 無料通話アプリを介した長門との会話は、長門風に言うなら『情報の伝達に齟齬をきたす』ってことになる。


 最も無料通話アプリに積極的に取り組んでいたのは朝比奈さんで、練習相手に俺がちょうど良かったのか俺はスマホで朝比奈さんの書き記した文字列群を見ることになった。たぶん顔色を失っていただろう。

『ふええぇ、キョンくんあたし』

『「禁則事項」したりしてるんです』

『一週間くらい「禁則事項」がないなあ』

『びっくりして慌てて「禁則事項」してみた』

 正直俺は想像力が貧困で、液晶ディスプレイ上の文字列で朝比奈さんの声を脳内妄想できないんだ。これじゃあ別の意味で危ない女の人である。真夜中にこんなものを見ていたら俺じゃなくてもそっとスマホの電源を落としたくなるだろう。

「朝比奈さん、俺は朝比奈さんの声で聞きたいんですよ」と言うほかなかった。


『キョン、遅刻したら罰金!』

 無料通話アプリの単文さに一番適合していると思われたのは言い出しっぺでもあるハルヒであったが、

「急いでいるときにチマチマ文字なんて打ってらんないわよ」の一言でバッサリ。さらに返す刀で、

「時は金なりなのよ。なに、無料? 時がかかってるじゃない」などと平然と自己否定してみせた。

 しかしながらスマホに無料通話アプリも入っていないのはSOS団の沽券に関わるらしくこのアプリはSOS団各員のスマホの中で長い眠りにつきそうである。


「まあそうだな」と、俺は〝無料通話アプリを使う習慣が無い〟という古泉の指摘に同意をしておいた。宇宙人と未来人と超能力者が揃いも揃っているのに無料通話アプリも使わないとは実にアナクロニズムだね、やれやれ。文明にも相性ってもんがあるんだろうな。

 さて俺は朝から佐々木の名前を忘れているというのになぜ『無料通話アプリ』に話を逸らしたんだろうな。もうなんとなく自覚はあるんだ。こいつはハルヒ第一で佐々木の存在を懸念しているんだ。今までの言葉の端々からそれは解る。だからこその『無料通話アプリ』なんだろう。


「ところで本業の方はいかがでしょう?」

「ほんぎょう?」

「またまた。中間テストまで十日ほどですよ」古泉はいつもの微笑を湛えて言った。

「ずいぶんと余裕がありそうじゃないか」

「僕が余裕があるかどうかはさておき、気になるのはあなたのことです。確か三学期の期末ではなかなかのセンまで行ったという話しじゃないですか。僕としましてはその調子が今回も維持できているのかが気になるわけでして」


 そりゃハルヒにずいぶんとしごかれたからな。ただあれはハルヒ教官の単純至極な試験対策が当たったってだけだ。それはテストに出そうなところだけを重点的に覚え込ませるという山勘に頼ったもので、ハルヒの勘の良さをつくづく知っている俺はほいほいとばかりに言いなりとなった。ともかく俺は超自然的手段も学園内陰謀もナシにして、素直に勉学に励んだ。なにより、嬉しそうに差し棒を振りながら、わざわざダテ眼鏡まで用意してきたハルヒの家庭教師顔を眺めていると他の手段を採る気にもならず、自分のためにもならないのは歴然としていたからな。その辺の俺の心情をざっと古泉に言ってやった。


「けっこうなことです」

「とどのつまり要件というのはそれか?」

「別に中間テストが直接気になるわけではありません。言わばその結果を元にするであろうその先の進路です。確かあなたはいずれか国公立大学を志望しているとか」


 国公立……確かにオフクロはしきりと予備校や学習塾のパンフレットを取り寄せては、俺の目のつくところに置いていたりするので胃が痛い。どうやら国公立ならどこでもいいから入ってくれという意向のようだが、実は俺の書類上の進路志望でもそうなっている。まあ、望みは高くというやつだ。

 だが大それた事を人に聞かれるような場所で言ってくれるな。例えばたった今この時谷口あたりが後ろにいてこの会話を拾ったらどうする? だいいち——

「俺はお前に進路希望など話したことがあったか?」

「ええ、『機関』はいろいろな情報源を持っていますからね。僕の知り得ることもおのずと多様性を持つのです。すべてとは言いませんが」

「本気なのか? 冗談のつもりなのか?」

「むろん冗談ですよ」

「他人の点数を気にしてわざわざ朝っぱらからそんなつまらん冗談を言いに来たのか?」

「実は将来のことについて近々あなたと腹を割って話しておかないと、と思っているのです」

「俺には特にないが。校舎にたどり着くまでかなり間はある。今したらどうだ?」

「残念ながらその程度では、ね。時間があるとは言えません。長くなりそうなのですよ」

「そんなこと言っても、どうせハルヒのいるところではできない話なんだろう?」

「その通りです。相変わらず鋭いですね」

「どこがだ」

「車を用意します。その中でじっくりと、ね」

「新川さんもご苦労なこったな」

「それも仕事、任務のうちです」

「そうかい」

「実はあらかじめ断っておきたいのですが」

「なにをだ?」

「ひょっとすると、いやかなり確実にあなたを怒らせる話になってしまいそうなのですよ。それで〝あなたと僕の仲〟を確認したい、いや、信じたいのです。あなたは僕を信じてくれますか?」

 ええーい、気色悪い。しかし古泉は真顔だった。

「お前がSOS団を選択している限りそうした心配は杞憂でしかないぜ」

「それを聞いて安心しました。涼宮さんにこの場を見られでもしたらやっかいですからね。ではこの場はこれで失礼します」古泉はそう言うとわざわざ小走りで坂を上っていった。

 朝から坂道ランニングとはご苦労なこった。


 だが、何かがおかしい。佐々木の名前が記憶から消失したこの朝、朝っぱらから古泉が思わせぶりなことを言ってくれる。

 十二月十八日……確かあの日は朝からどんよりとした天気だったな。忘れもしない。だが今日はどうだ。朝っぱらから燦々と五月の太陽がこの世界を照らしてくれている。

 それでも教室へ一歩踏み込んだらあの日のようなことになっているんだろうか……

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