時の亡骸(2)

 色は、色はない。

 子どもがたくさん流れていく。ぞっとするほど白い――それは色ではなく、陰翳だった――子どもたちは、死んだようにぐったりとし、流れていく。どこかへ、濁流に押されて、より暗い場所を目指して。押し流す力を何と呼べばいいのか、オミはよく知っている。運命だ。漁の光景を思い起こさせる。びっしりと水面を覆い尽くした魚が、網でさらわれる。隙間なく敷き詰められた子どもたちの白、そのほんのわずかな切れ目から溢れ出すような黒は粘ついている。子どもたちは身動きひとつしないというのに、死骸だとは思えなかった。表情があるのだ。みな一様に悲壮な表情を浮かべている。落ちくぼんだ目のまわりを黒くさせ、くちびるも黒い薔薇、裸はやがて黒い粘液に浅く、浅く、浸されてゆく。声にならない声が呼ぶ。口を開き、なにかを言う。やがて同じ言葉をひたすら繰り返していることに気がつく。それは良く知る言葉だ。

「――――――」

 愛か憎悪か、はたまた呪詛か。

 それは名まえではなかった。

 応えようとくちびるを開きかければ、遠くから重く近寄る怒涛の音が間もなく訪れ、すべて無に帰す。子どもが流れていく。どこかへ運ばれていく。黒い流れは一切の光を含まずにただ重苦しい。オミはどこからかこの光景を見ていた。高い場所でもあり低い場所でもあった。遠目にたくさんの子どもが白い点となって浮きつ沈みつするのを見たかと思えば、より間近に、くちびるを読めるほど、その表情を観察していた。

 オミ? 誰だ?

 神はいない。



 飛び起きて、荒い息をついた。前髪を掴めば、ひどく湿っていた。くしゃりと握って、立てた膝のあいだに顔を埋める。悪夢、と呼ぶべきなのかはわからない。それは一般的な「おそろしい」とはどこか違う。だが、オミは確かにこの夢をみるたび、目を醒まし、泣きそうな心地になる。

 ここ一週間以上、よく眠れない日が続いていた。大寝室の巨大な寝台のうえでは、オミに寄り添うようにして弟子たちが眠っている。夜ごとにかわいい弟子たちを抱いて眠り、夢を遠ざけようと足掻いていた。

「あぁ、はぁ、は、ぁ………」

 ヴァイオレットはいない。彼女はオミと眠ることはない。猫の眼塔で彼女を抱き上げたあの日から、ちいさなヴァイオレットは目を醒まさず、眠り続けていた。それにかわるように、オミは途切れ途切れの眠りに喘いでいる。

「……師匠?」

 弟子のひとりのウルが薄く目を開け、不明瞭な声でオミをうかがう。オミは何も言えず、ただ震える手を伸ばして彼の頭を撫でた。ウルは再び眠りに落ち、オミはさらに膝を引き寄せた。強く強く自分を抱いて、あの奇妙な白黒の光景から遠ざかりたかった。

 分厚いカーテンの隙間から、大寝室の闇へと射す一条の月影はやわい。

 夜に眠り、朝に起きる生活をしている。

 巨大な寝台で眠る幼子のすがたをした弟子たちと、オミ自身。

 きょうだいのように見えるだろうか? 健気に朝を待つ人間に?

 淀んだ空気が喉奥に張りつき、曇っていた。なにが必要なのかわからなかった。

 ウル、アメリア、リュリュ、三人の穏やかな寝顔は、冒しがたく愛らしい。みな無垢な顔をして、健やかな息を吐いている。その在り方が歪んだものだと、オミは思わない。彼らが自分を愛するかぎり、自分は彼らを愛するだろう。愛されなくとも愛するだろう。オミは、弟子たちを愛している。

「ヴァイオレット」

 ここにはいない、異貌の少女。

 ヴァイオレットの顔つきは、子どもでも大人でもなく、女でも男でもない。無論、少女でもなかった。彼女を抱きしめて、抱きかえされて、許して許されたかった。

(ヴェネットが死んだ)

 だから、ヴァイオレットは、あんな顔をしていた。幽霊のような。ようやく知った。

 オミがヴェネットと過ごした時間は、おそらくヴァイオレットが想像するよりも多い。オミは密かに彼女に会い、診察し、そして時には抱いた。ヴァイオレットと同じ、どこか奇妙な顔をしたヴェネット。彼女はオミを憎んでいた。

「あたしのヴァイオレット」

 と、そう言って。

その彼女が死んだのだ。

 彼女の死を知ってから悪夢は訪れ、オミの眠りは不安に墜ちた。

 オミはどこにもいなかった。

 ヴァイオレットとヴェネットがふたりで寄り添う一方で、オミはどこにもいなかった。

(黒い大きななにかに、流されてしまった子ども)

  ヴァイオレットの醒めない眠りは、明けない夜は、いつまで続くのだろうか。彼女は悲しんでいるのか、オミには想像もつかなかった。わからないことがあまりにも多すぎて、オミはヴァイオレットにどうして触れていたのかを忘れた。

 僕のかわいい子。

(ほんとうに?)

 豊かな巻き毛に指を通して、引き寄せたちいさな頭のてっぺんにくちづけたい。

 あの紫色の眸を覗き込んで、恐ろしいものを真直ぐに見たい。見るべきだ。見なければならない。見たらば、ヴァイオレットは、またオミのことを抱きしめてくれるだろうか。オミの胸に額をつけて、眠りを探すことがあるだろうか、再び。

 オミは静かに寝台を這い下りた。弟子たちは起きているだろうが、もうオミに問いかけたりはしなかった。

 裸足のままで毛足の長い絨毯の感覚をとらえ、足音を立てずに部屋を出た。後ろ手に扉を閉めて、ぽつぽつと灯点された廊下を歩く。ヴァイオレットの部屋は、すこし遠い。オミの私室の向かいにある。手燭を持たずに歩くことのできる、知り尽くした屋敷のなかで、オミは迷子の心地だった。

 ヴァイオレットの部屋のまえに立ち、意図して呼吸をする。

 軽く、その扉を叩いた。「ヴァイオレット?」、呼びかけて少し待ち、もう一度だけ扉を叩く。軽く押せば、扉は軋みながらわずかに開いた。唾を飲んで、嫌に跳ねる心臓をなだめた。思い切って、扉を開け放つ。

「っ、わ」

 快い夜の風が、かぐわしい花の香を散らしながら通り抜ける。ふらりと踏み出せば、引き寄せられるように窓辺へと向かっていた。月が紫色の朧を纏い、金色に輝いていた。きらきらと光る粒子を放っているかのようだ。宝石じみて月影を乱反射して、寝台の白い清潔なシーツに、きらめきは降りかかり、空の巣を照らしていた。

 ヴァイオレットはいなかった。

 不思議と失望はなく、ただこのうつくしい光景を目に焼き付けた。オミはヴァイオレットの寝台に腰を下ろし、身を横たえた。彼女のかおりがした。オミの忌み嫌うホーンのかおりと混ざり合って、どこか切ないかおりがしていた。もう二度と、真実の意味で「僕のヴァイオレット」と言えないだろうと思った。

 眠りは訪れるだろうか。この夜、この場所、彼女が眠っていた寝台で。

 彼女がいないという事実に狂乱しないという事実、オミは静謐な部屋のなかで、どこか儀式じみた心持でいた。ヴァイオレットは帰るだろう。必ず。彼女は遠くへ行くかもしれないが、帰らないことはない。――今までだってなかった。彼女はいつでも、必ず、オミのもとへと戻っていたじゃないか。

(僕には彼女が必要だ。そして今や、彼女も僕を必要としている)

 ヴァイオレットよりもはやく死ぬだろう。魔術師としての才は、彼女よりも劣るだろう。いずれ超えてゆくそのすがたに、しかしいまは、ただ胸が痛んだ。

 自分は彼女を置いていく。

 彼女の半身がそうしたように。

 そして彼女が傷つくときに、胸を貸すひとはおそらく、いないのだ。



 明け方、目を醒ました。

「おはよう。……ヴァイオレット」

 彼女が部屋に戻っていた。あの、気の遠くなるほどうつくしかった窓辺に、ヴァイオレットは座っていた。窓枠に腰かけて、長い黒髪はうねりながら風に吹かれていた。白い光線は強すぎるほどで、オミは彼女を直視できなかった。

「おはよう」

 朝のすがしいかおりとともに、苦い煙が鼻さきに触れる。

 片手で胡桃を弄び、もう片手の指に、煙草を挟んでいる。

「どこに行っていたの」

「散歩よ」

「そう」

「あんたはどうしてあたしの寝台で寝てるの」

「……こわい夢をみたんだ」

 ばき、と音がして、胡桃の殻が床に落ちる。ばらばらと散らばっていた。よく見れば、もう幾つもの胡桃をそこで食べていたのだろう。足元は殻だらけだ。胡桃をくちに放り込み、咀嚼して、煙草を喫い、何もかもを飲み下す。ちいさな彼女があたりまえのようにする行動が、いちいち愛おしい。

 朝陽を後ろから享け、金色の産毛が輪郭をぼやかしていた。幼いのに幼くない。ヴァイオレットは目を伏せて、煙草をゆっくりとくちびるに運ぶ。喫って一瞬煙草の先がちらりと光り、吐いた煙に巻かれて忘れた。

「食べる?」

「ううん、いらないよ」

 そういうと、また、軽い音とともに彼女の手のなかで胡桃が砕ける。

「それ、魔術でやっているの?」

「うん」

「くだらないねえ……」

 ヴァイオレットにとって、魔術なんて所詮そんなものなのだ。躰が小さくなってしまったから。胡桃を割る道具がないから。笑って仰向けになると、彼女の視線を感じる。そのまま目を閉じて、ねえ、と呼んだ。「こっちへおいでよ、ヴァイオレット」。

 彼女は動かない。ゆるく長く息を吐き出す音、胡桃を砕く音、すべてが心地よい規則をもって、いまこの時間を作っている。窓枠に座り、髪を風に任せることも、今朝に限ってヴァイオレットが、オミの屋敷の制服じみた、白いドレスを着ていることも。

「うん」

 肯定ではない頷きで、ヴァイオレットは微笑む。胸が締めつけられた。

「おまえは綺麗だね」

「うん」

「僕たちは、理解し合うことが出来ないね」

「うん」

「でも、僕はおまえのことがずっとかわいいよ」

「オミ、あたし、あんたと一緒に居る」

「どうして?」

 胡桃が一つ投げられた。受け取り損ねて、シーツのうえを少しだけ進む。手を伸ばして掴んだ木の実は、児戯のような魔術で呆気なく砕ける。しかし取りだせば、中身まで砕けてしまっていた。力の加減を誤ったのか、それとも無意識がオミに、なにかを教えたがるのか。自覚を促すのか。

 口に放り込めば、あまくて香ばしい不思議な味が、懐かしさとともに広がる。あまりこういったものを口にすることはなかったと、それ自体を思い出す。

「ヴェネットが死んじゃったから、あたしもう、ひとりぼっちよ」

 そう言いながらも、ヴァイオレットの表情は、迷子のそれとは違っていた。

 なにかをあきらめてしまった顏だった。誰かが迎えに来てくれることを待っているような子ではもとよりない。だが、ヴァイオレットはいま確かに、なにかを静かにあきらめたのだ。

「ひとりぼっちだから、僕と一緒に?」

「いいえ。あんたのためよ。……あたし、すこしだけ、あんたの気持ちがわかったわ」

 思わず笑ってしまった。つい先ほど、理解し合えないと確認した彼女が、真剣な顔で嘯くのだ。オミは半身を起こして、ヴァイオレットを真直ぐと見つめる。いったいどういったつもりで、彼女は言葉を紡ぐのか。

 紫色の眸に浮かぶ感情のかけらを、ひとつずつあらためる時間が、ふたりのあいだにはあった。

「僕は、おまえの気持なんて、少しもわからないのに」

「でもあたしはわかるの。だってあんたはとっくに失っていたけど、あたしはたったいま失ったばかりだから」

「なにを」

「さあ……」

 曖昧に漂う目線は、なにかを誤魔化すというよりかは、彼女自身明確な答えを未だ見つけられていないという風だった。オミはそのすがたに、かつての幼い少女を見た。《釘地区》の廃墟で、《指輪地区》の薄汚れた貧民街で、片割れにきつく腕を掴まれて、引き留められていたヴァイオレット。はじめ、どちらともを引き取ろうと思っていた。

 だが、幾らかの時間双子を観察するうちに、奇妙なことに、才能はヴァイオレットにしか見られなくなったのだ。どうしてだかはわからない。ヴェネットという存在は宙に浮き、その処遇を決めたのは他ならぬヴェネット自身だった。彼女はオミを拒み、ヴァイオレットの腕を放した。

 分かたれてなお分かたれなかった双子に、オミは長い間、操られていたような気さえする。

 憎しみも愛情も、なにもかもがヴァイオレットだけでなく、おそらくはヴェネットの指にも絡んでいたのだ。

 ヴェネットの死によって味わった困惑や空疎さは、なにより確かな答えだったろう。

 すんなりと胸に落ちた、ヴァイオレットの戸惑いにかける言葉を、オミは殺した。ただ、寝台を降りて彼女の隣に腰かけ、背後から吹くすがしい風を感じる。ヴァイオレットは煙草を窓から投げ棄てて、オミの肩に頭をもたせかけた。

「オミぃ、あんたはいいの。あたしがいるもん……」

 その点で、オミとヴァイオレットは、もはや決定的に理解りあうことはできない。

 ぬるいあきらめと同情、情熱とは無縁の平凡な体温だけが、よすがだった。ヴァイオレットの肩を抱こうとして、慄える自らの腕に気がつく。苦く笑いかけて、不意に涙が出そうになった。

「ヴァイオレット」

 呼ぶ。

「ヴァイオレット、僕は」

「あんたはまたあたしを殴る」

「しない。もうしない。誓ってもいい」

「うそよ。でも、あたし許してあげてもいいの」

「僕は、おまえを……」

「あんたはあたしを置いていくから、あんたが子どもみたいな癇癪を起すことくらい、簡単に許せるの」

「やめて、ヴァイオレット」

「どうして?」

 オミに寄りかかったまま、ヴァイオレットが新たな煙草に火を点ける。煙が目に染みて、オミは目蓋を下ろした。辛く苦い煙のかおりが鼻につんと触れた。ヴァイオレットの薄い骨を、手のひらに感じている。さらさらとした布地を、ヴァイオレットの腕を、かつてヴェネットがそうして離さなかったように、オミもまた強く握った。

 なにともない、華奢な少女の腕だ。

「許してあげる」

 歌うように告げる。低い声をした少女は、目を伏せてくちびるを微笑ませる。挟まれた煙草から、細い煙がたなびいていた。元の関係へ戻ること。彼女を痛めつけること。束縛すること。癇癪を起すこと。すべてを許すと彼女は告げていた。

 オミはきつく、決して離すまいと力を籠めた。淵に立たされていた。

「僕は、おまえを、愛している」

「それも、許すわ」

 そう、だから。

 ヴァイオレットは何も差し出さない。オミのすべてを許す代わりに、彼女はなにひとつ欠かない。

「あたしもう、死について話すことをやめるの」

「僕は、おまえを傷つけることをやめるよ」

「無理だわ」

「無理じゃない」

「無理よ」

「ヴァイオレット」

「無理なの。あたしは躰が成長すれば、またここを出る。荒事屋が好きよ。そのあいだあんたはずっとあたしに対して怒るはずね。でも、あたしは絶対にあんたのとこに戻るでしょう。あたしが戻ることと同じだけの確実さで、あんたはまた、あたしを打つわ。きっと、死ぬまでそうなのよ。でも、許してあげる」

「僕は、」

「オミ」

 ヴァイオレットは笑っていた。オミは縋っていた。

 いったいどんな根拠があって、ヴァイオレットがそう言うのか、オミにはわかるはずもなかった。彼女は未来を見るわけではない。だが、確信しているのだ。そしてオミは、そのヴァイオレットにあらかじめ許される。それでいいじゃない、とヴァイオレットは、笑っているのだ。

 もうなにも言えなかった。

 ヴァイオレットの言った通りになるだろう。オミもこころの底では、思っているのだ。自分は、誰かたいせつなひとを亡くしたような時しか、優しくなることなどできないのだ。そういう人間だった。ヴァイオレットは見透かして、しかしオミを嘲笑うでもない。やはりそれは、あきらめだった。

 彼に対するあきらめなのだ。

 理解が胸に広がって、泣きたい気持ちと、怒りがかすかに胎動する。芽を摘み取っていられるのも、きっとあと数日のことだろう。ヴェネットの死が決定的な効果をもたらす、残り幾日かのあいだ、オミはヴァイオレットに、この世の誰よりもやさしくなれるだろう。

 ヴァイオレットは、オミのものにはならない。

 オミはすでにヴァイオレットのものだった。

 ヴァイオレットはオミを受け取らない。

 オミはヴァイオレットを奪うこともできない。

 捧げて、拒まれ、だが許しだけを得た。

「ほかになにもいらないなんて、僕には言えないよ。ねえ……」

「欲しがってればいいのよ、ずっと」

「ひどい子。おまえは、ほんとうに、僕のことをすこしも、愛さないんだね」

 ヴァイオレットは顔を上向かせて、オミの顎にくちづけた。

 見た目に相応しい愛らしさでもって、否は届けられた。

それが、オミの、痛みだった。

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