時の亡骸(1)
奇病は恐慌を引き起こさない。
ホーンでつねに力を握っていた魔術師たちの間引きを、住人たちはむしろ歓迎していた。虫食いの死骸を買いとるものだって現れる。無論、売るものも。
「君は、オミのところの弟子だね」
一見穏やかな老爺は、いったいいくつ年を重ねたか、ひとの限界をとうに超えて縮み、枯れた肉体を苛立つほどの緩慢さで動かす。彼が誰だか知るものは少ないが、ヴァイオレットは承知していた。ちいさく顎を引くと、老爺は「相席をいいかね」と聞き、返事を待たずに向かいの席へと腰を下ろす。
「ドミノ」
「魔術師選定が、まさかこの時期に起ころうとは」
「そうね」
「君は予測していたのではないのかね?」
「まさか。あたしが視るのは死ぬという事実だけ。だから意味なんてないのよ」
「ひとは誰しも死ぬから、か」
老ドミノは、長く細い息を吐いた。彼は普段ならば、せいぜい老紳士といった体で表に出てくるはずだ。この皺だらけでひどく小さな、薊のようなすがたで出歩くことは珍しい。
運ばれてきたココアには、生クリームが浮いていた。みるみる間に溶けて、白い脂の膜となって表面を覆う。ヴァイオレットは、あまいものがあまり好きではない。味が濃すぎるものはなんでも苦手だ。水のように静かな酒と、木の実や果物が好きだった。目の前のどろりと重たげなココアを、どうして自分が頼んだのか、その理由は明白だった。
いたずらにカップの中身を掻き混ぜながら、俯いたまま老爺をからかう。「あんたもそろそろ死ぬとか?」と。
「視たのかね?」
「さあ。ただ、そんなしわくちゃのあんたを見るのは珍しいから」
「初めてではないか」
「そうだったかしら。じゃ、きっと、いつか死を視たのね」
「そうだろう」
オミは協会に属さない魔術師だ。弟子たるヴァイオレットも当然師に倣っている。魔術師協会の重鎮であるドミノが、いったいどんな用向きでヴァイオレットのまえにすがたを現したのか。知らないが、おそらく独立した魔術師たちと魔術師協会のあいだで繰り広げられていた抗争は、自ずと終わるのだろう。
「オミは抗争に加担していた?」
なにとはなしに聞くと、老爺は苦い顔で頷く。「当たり前だ。奴は野良どもの頭のひとりだ」。
「ばかみたい。オミがそんなことをするなんて、ぜんぜん似合わないわ」
「君がいるからではないのか? 荒事屋は休業なのだろう。君がいるときとそうでないときのオミは、まるで別人だ。わかっているのか、いないのか、知らないがね」
「わかってるわよ、もちろん」
「そうかい」
「で、どうしてあんたはそんな恰好なの」
「協会側も、此度の魔術師選定では酷い目に遭ったと言うことだ」
「取り繕う余裕がなくなるくらい、ってこと?」
「それに、いつものすがたで出歩けば、未だ危険もあるからな」
「そうまでしてあたしに会いに来た理由はなんなの」
「オミを殺してはくれまいか」
「嫌よ」
まだ夕陽は沈み切らない。灰色の雲がどんよりと空を覆い、強烈な斜陽を享けて朱く、奇妙なほど陽気な色を無理やりにのせられたように、思い切らない。ヴァイオレットは紫色の眸が、あの空の淡いに現れることを、願っていた。青に濃い橙が重なって、濃紺の重苦しい帳が這い寄るまえの、ほんの一瞬だけの、透きとおった紫を。
ぼんやりと立ち尽くしていた。
汚い塀に背中を預けて、あくびをしながら道を過ぎるひとびとを見つめていた。
ホーンが目を醒ます時間がくる。ほんのすぐだ。もうすぐ、ここ《槌地区》の賑やかな夜がはじまる。
目の前をふらりと通る娘に、ふと視線が引き寄せられた。少し前までは、どうとも言い表すことのできなかったそれが、鮮やかにまなうらに閃いて消えた。あの娘は病気で死ぬと知った。子どものような背丈の年老いた男が、せかせかと通る。あの小男は女に殺される、どこかの窓から投げ棄てられる。痩せた野犬が舌をだらしなく伸ばしてこちらを一瞬だけ見た。あの犬は、食われるだろう。それを食べる者もまた、死ぬだろう。犬を料理する男は、犬の料理を運ぶ女は、場所代で揉めて、殺される……。
不意に、目立たぬよう外套の頭巾を被った、華奢な人影が目に留まった。浅い時間では、顔を晒さないほうがより目立つ。ヴァイオレットは彼に心当たりがあった。羨んで仕方のない、抗魔術体質を持った青年、驚くべき美貌と、においたつほど濃密な死の翳に取り憑かれた青年マリア。彼の特異な体質は、ヴァイオレットの予見をも撥ねつける。それは彼もまた、ホーンの愛し児たる証だった。
「マーリア」
囁けば、彼は怯えるように肩を揺らしただけで、ヴァイオレットに一瞥もくれずに去っていった。
幾度か見かけた、あの愛らしい子に会いに行くのだろうか。彼は愛を手に入れたのだろうか。いつも暗い眸でヴァイオレットから目を逸らし、腹の底で殺意をたぎらせて、時に痛めつけた。彼の臆病が、ヴァイオレットにはすこしだけ理解できる。荒事屋だったからではない。ホーンの児だからだ。
躰を起こして歩き出す。だんだんと増えてきた人波に紛れて、たくさんの営みを肩に触れるほど感じながらそれでも、まったく遠く、決して手を触れることのできないものとなってしまったことを膚で直感した。生活はもはやない。些末なことかもしれない。堕落の限りを尽くしていた彼女に、いったいどんな営みがあったろう。だが、そんな自らへの疑念までなにもかもを含めていま、ヴァイオレットは孤独に溺れていた。どんな痛みでも救いがたいほどに。
ヴェネットが死んだ。ヴェネットが死んだ。
だいすきな双子のねえさんが死んだ。
猫の眼通りをしばらく歩けば、すぐにホーンの中心・猫の眼塔広場へ出る。はるかな大時計台を見上げて、白く煙る月の隣の、銀色の文字盤こそがヴァイオレットの空だった。誰が螺旋を捲いているともしれない、このホーンという場所のすべては、あの銀盤の時計だ。時間ごとに鐘を打ち、おおん、おおん、とどこかうそ寒いほどのさみしい音色を轟かせる。猫の眼塔の黒い石に、背中を預けるのではなく、胸を預けた。抱き合うようにしたかった。ふくらみかけた胸が潰れて痛かった。当たり前だが腕を回しきることなどできない、四角い塔の一辺の半分だって腕は足りない。ヴァイオレットはまったくちっぽけだった。つめたく、湿っていて、いいかおりがしていた。自らにふりかけるあまい花のかおりなどより、古くて遠いかおりだった。
かわいいヴァイオレット。
おまえは大きくなって、猫の眼時計の螺子を捲く。
かわいい子。わたしの子。
――眩暈の紫。
「げんうんって、なあに…………。
「あたしつかれたしさみしい。どうして双子なのに、ヴェネットがさきに死ぬの? どうしてあんたは、ヴェネットとあたしを一緒にしておいてはくれないの? あたしこうしてひとりになるなら、愛されたくなどなかったわ。
「ねえホーン、あんたなんでしょ、あんたあたしのこと愛してるんでしょ、なんなら、なんなら、ヴェネットを生き返らせて。
「死を視る眸は沈黙するの。あたしはもう歳をとらない。オミと一緒に生きるしかない、オミが死ぬまでの時間を。そしてそのあとは?
「ねえあんたがあたしのヴェネットを殺したのよ、ヴェネットは死んだんじゃなくて殺されたのよ。あたしを愛しているからってそんなことで、あたしを傷つけるなんて、ばかげてるわ。
「げんうんってなによ。紫がいったいなにになるの、死を視てそれで、誰が救えた? 救われたの?」
ひとりで喋るひとなんて珍しくない。だが、背中に幾つもの視線を感じた。幼いすがたで歩くホーンは、いつだって安全ではない。だが、自分の身を守れないほど幼いわけではなかった。
「どうしたの、お嬢さん」
下卑た手が伸ばされる、お嬢さんという厭な呼び方をする。振り向いたヴァイオレットが、もし驚くほど醜かったら、この男はどうするだろう。蹴るだろうか、それとも、罵って去っていくだろうか。ヴァイオレットは額を石に預けたまま、ホーン、と呼んだ。
手が肩にかかる、空気で感じたまさにその瞬間、
「僕の子に触らないで」
聞き慣れた声がした。男は悪態をつく。後頭部で交わされるやり取りに、振り向く気はなかった。だがヴァイオレットは知っている、この男はこのままオミに喧嘩をしかけ、すぐに死んでしまうだろう。オミは殺すことを躊躇うような性情ではない。特に、気がたっているときには。こうして、ホーンと密なヴァイオレットを見つけてしまったときなどは。
目を瞑り、耳をふさいだ。
快さにも、苦しさにも親しんだ手が、ヴァイオレットの両肩を掴み、くるりと反転させた。ヴァイオレットは背が低くないし、オミはそう高くない。とはいっても子どものすがたでは、やはり彼の顎の下に頭がおさまってしまう。かるく抱きしめられ、すぐに離された。
「無防備だよ」
オミがそれ以上近づいてこない。
彼は窺うような目をして、ヴァイオレットとの距離を測っていた。もどかしく気まずい時間がふたりのあいだをぬるく漂い、ヴァイオレットはあきらめた。あきらめて、オミの胸にぽすりと顔を埋めた。かすかに汗のにおいがした。彼の躰は熱く、滅多にしない外歩きがただヴァイオレットを捜してのことだったという、そんな事実が嫌でもわかる。
「汗のにおいがする」
胸いっぱいに吸い込んでそういうと、オミは離れたがった。
「嫌じゃないわ。あんたが外に出るなんて珍しい」
そして、見つけたヴァイオレットに、触れることを躊躇うなど。
理由など明らかだ。この前の狂乱から、彼はずっと怯えている。いまのヴァイオレットならば、オミの浅はかなで自分本位な行動の理由を、その狂乱を、理解できると言わないまでも、もはや他人事ではなくなってしまったと思っていた。
「捜してたんだよ。……ねえヴァイオレット、どこかへゆくなら、僕でなくてもいいから、誰かには伝えて」
「できないわ」
「どうして」
「ひとつを許せば十も百も許すことになるもの」
「僕はおまえを束縛したくないんだ」
苦く笑って、オミの躰に腕を回した。彼の躰は強ばり、すぐに解けた。おずおずと抱き返されて、ヴァイオレットはようやく目を瞑った。
「ああ……、眠りたくて、眠りたくて、仕方なかった……」
もはや不明瞭な言葉しか紡げない。溶ける思考のままに彼に体重を預けた。確かな青年の力が、ヴァイオレットを熱い腕できつく戒める。
「お眠り、かわいい子。僕と一緒に、帰ろう」
抱き上げるには重いだろう。
だが、ヴァイオレットはもう目を開けるつもりはなかった。指さきのほんのすこしも、動かすつもりはなかった。揺れる。揺れている。夢をみるだろう。
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