罰と不感症



「あ、あ、あ、……っぎゃああぁぁぁあああああああぁぁあぁああああああああああ!」

 手肢を縛り付けられた状態で、脱け出そうと幼い躰はもがいた。乳色のなめらかな膚に刻み付けた傷のひとつひとつが、塞がってゆく。肉色の虫が傷口からくちくちとすがたを現し、蠢き、機織りのごとく塞ぐのだ。マリアンネに植えつけた虫は、ホーンの魔術師選定とは違う。彼女を死に至らしめることはない、むしろ助けるものだ。尋常を超えた痛苦を伴うという点も、あの黒い縄目の奇病と異なる点だろう。

「ヴァイオレット、どこにいるんだ?」

「う、はあ、ああ、あ、オミさまぁ、わ、私は、マリアンネです……!」

「おまえがいないと僕は、もう、とてもまともではいられないよ」

 燐を指さきに点して、マリアンネの内腿を裂いた。「ああああっ」。ゆっくりとした手の動きに合わせて、肉が開く。赤い肉が露わになる。荒い息を殺して力むマリアンネの頭を、そっと撫でる。彼女はうっとりと目を細めて、恍惚とした表情でオミを見つめる。

(――そうじゃないだろう)

 開かれた肉の赤を掻き混ぜる。傷を広げないままに、ただ深く、緩く、掻き乱すのだ。生ぬるい肉の感触、指で掻き分ける柔らかいそれを、思うさま蹂躙した。「痛いかな、マリアンネ?」、問いながら埋めた指を出し入れする。はやく、ゆるく、指を内側で曲げ、伸ばし、「痛いかな」と問いを重ねる。「ぎ、が、ああ、いいいい痛い、痛いっ……!」、不定形の喘鳴と濁点にまみれた声は、獣のよう。骨に触れ、がり、ごり、と形を確かめる。「があぁうううう、ぃいんっ」、マリアンネの幼くあまい声が、涸れて艶を帯びる。ざらついて神経を愛撫する。

「い、いいいいいい痛い、痛い、痛いです、オミさまッ、痛いいいいい」

 ずるりと指を引き抜くと、千切れた肉が血を纏ってぼとぼと落ちた。磔のマリアンネの足元には、あらゆる汚物が溜まっていた。もうずっと続くこの不毛の時間の、慰みにもならない。ヴァイオレットを待っているのに、彼女は未だに帰らない。

「あ、が、ぎ、いいいいぃぃぃいいいぃい嫌だあぁぁああぁあっぁぁああああ!!」

 マリアンネが絶叫する。傷を受けたときよりも激しく喘ぐ。虫が彼女の傷を食い合わせるのだ。傷が塞がれば、つぎの苦痛が与えられる。それを繰り返していた。飽いていた。虚しかった。血と涙と、唾液と洟と。ぐちゃぐちゃに汚れた顔から、彼女の無垢な愛らしさを見出すことができるものなど、オミのほかにはいないだろう。

 恐怖に引き攣り、それでもなおオミを信じる幼いすがた。

 大きな眸を覗き込む。微笑いかけると、怯えながらもマリアンネは口角を上げ、笑みのようなものを浮かべた。

「おまえはかわいいね、マリアンネ」

「オミ、さま、大好きです……マリアンネは、オミさまだけをあい、して、います」

「どうして帰ってこない。どこにいるんだ」

「オミさま」

「おまえは僕がいなくとも、いいのだろうね……」

 さあマリアンネ、これを飲むんだ。オミさま、これはなんですか。飲むんだよ、マリアンネ。はい。ああ、死んでしまうんだね、でも大丈夫だよ、安心おし。

「僕だって死ぬんだ」

 もはや悲鳴は上がらない。肉色の虫と成り果ててマリアンネは、ひとの肉を失う。どしゃっと崩れて、方々へと這ってゆく。



 血にまみれた部屋を出て、湯を使って身を浄めた。

(疲れた)

 冷静に考えれば、マリアンネを殺すなどどうかしていた。奇病でアンジュを喪って、ただでさえ屋敷はさみしくなっていたというのに。どんな子であろうと、弟子に選ぶ以上彼らはみな得難い存在だ。それを、自らの手で戯れに壊してしまった。それも。

「おまえのせいだよ、ヴァイオレット」

 おまえが帰らないから、僕はつまらないことばかりしてしまう。

 かわいいマリアンネを痛めつけたところで、どんな感慨も起きないというのに。

「おまえのせいだ」

 廊下の窓から臨むホーンの街の、くだらない喧騒、汚れた風景。ひと欠片とて愛せない街だが、もはや出ることも考えられなかった。遠くぼんやりと翳んで見える塔がある。いくつも。オミには、意識しないと近づくことすらできない存在だ。おぞましく、できうる限り近寄ろうとも思わない。だが、ヴァイオレットはそうではない。

 彼女はかつて塔に宿り、今でもオミの目を盗んでは塔へ忍び、彼女はホーンと通じている。

 オミにはそう思えてならなかった。

 ヴァイオレットという奇妙な女の愛は、ヴェネットへ。そしてホーン、この街自体へ向けられていると。

「ヴァイオレット。おまえの、せいだよ……」

「なにが?」

 躰ごと振り返る。すこしも気配を感じなかった。

「――ヴァイオレット」

 彼女の顏を見て、驚愕した。思わず立ち上がり、よろめいた。

「なにがあったんだい。どうして……そんな顔をしているの」

 まるで幽霊のようだ。泣き腫らした目を見るのははじめてだった。心臓が嫌な鼓動を打ち、肉の感覚が遊離する。愛おしいのか、憎いのか、感情の渦は狂乱を誘った。ヴァイオレットを見るときは、いつだって平静ではおられなかった。だが、いまこの瞬間ほど、彼女がわからなかったことはない。

 紫色の眸は悲しみに暮れていた。

 そしてなにか途方もないものをまえにした子どものように、呆けている。

 その薄い肩を抱いて、やさしく揺すってやりたかった。

「オミぃ」

 先程まで、マリアンネが呼んだように、ヴァイオレットがオミを呼ぶ。媚びをたっぷり含んだ、毒々しいほどあまい声は、マリアンネのそれほどは高くない。だからこそ、その媚態はオミには真剣に聞こえた。こみ上げたのは純然たる怒りだった。オミのもとへ居るという言葉を度々裏切り、こうして帰ってきて、「オミ」と、そう呼べば。

「僕がおまえを、ゆるすとそう思っているの?」

 ――ゆるさない。

 オミはヴァイオレットに、そんなものを求めてはいない。否、彼女が従順であればとつねから願っている、だがそれはこの瞬間ではない。ヴァイオレットは、いま、オミにどんなふりをもするべきじゃない。いつものように、すこしも悪びれずに、こちらを嘲るべきだった。

 だというのに彼女は、ゆるしを請うような口調で、ひどい顏のわけも説明せずに、オミの愛情を求めている。

「なにがあったんだい、ヴァイオレット。おまえはどこへ行っていたのか、なにをしていたのか、僕に説明してごらん」

 微笑む余裕などなかった。淡々と言葉を紡ぐと、ヴァイオレットはへたな笑いを浮かべた。

「嫌」

 ほら。

「そう」

 ヴァイオレット。愛おしい子。おまえはよく、僕のことを理解っているね。

 打擲した。

 派手な音をたてて、廊下に飾られた花瓶を巻きこみ床に倒れ込む。彼女が顔を上げるまえに、オミの愛する豊かな巻き毛を掴み上げた。花瓶の水のせいで、髪は濡れていた。ヴァイオレットは苦痛のひと声も漏らさず、腫れた目でじっとオミを見ていた。いま彼女が見ているのは死ではなく、オミだ。恐れるものなどなにもない。

「ゆるさないよ、ねえ。罰をあげようか」

 髪を強く掴んだまま、引きずるようにして歩く。弟子たちは息をのみ、私室へと消えていくオミに怯えていた。ヴァイオレットは笑いによく似た荒い息をつきながら、顏を傾けて、惨めな恰好で歩こうとしていた。

 彼女を部屋に突き飛ばすようにして入れると、重く大きな飴色の扉を、後ろ手に閉める。

 この屋敷でいちばん、誰の部屋よりも広い。大寝室とは違うこの部屋には、必要最低限の調度しかそろえていなかった。絨毯さえ敷かれておらず、寝台もない。寒々しい板張りの床で、ヴァイオレットはぺたりと座り込み、やはりあの幽霊じみた表情で視線を彷徨わせていた。

 彼女の頼りないすがたなど、見たくもなかった。

 やさしい感情は吹き飛び、ただいかにヴァイオレットというこのちっぽけな存在を嬲ろうか、それしか考えることは出来なかった。工夫を凝らすだけの思考の余白もない。ただ圧倒的な暴力への欲求だけが、オミを突き動かす。愛しているからだ、とオミは早口に呟いた。

 手のひらに燐を寄せ、鞭を形作った。

「なつかしいね、ヴァイオレット。覚えているかな。なかなか薬をやめられないおまえに、僕はこれで教えたね」

「それであんたは鞭をやめられなくなったもの、覚えてるに決まってるわ」

 そうか、と言いながら、肩慣らしに振り下ろす。

 ひゅっと風を切り肉をとらえる音、ヴァイオレットが鎖骨のあたりを押さえて転げた。

 ウウ、と獣の唸りのようなものが、色を失っていたくちびるのすきまから漏れ出る。

 背筋を駆け上がってゆく冷たいものの正体を、オミは熟知していた。ヴァイオレットの指摘の通りだ。オミは彼女を打つことが、とても好きだ。それは快楽だった。悦と笑えば彼女も嗤う。

「ほら」

 そう言って誘う、ヴァイオレットは服を脱ぎ捨てた。露わになった白い裸身の、どこにでも傷をつけていい。どんな痕を刻んでもいい。オミは彼女に許されている。

「おまえは僕のものだ」

 続けざまに打てば、低い声で呻く。押し殺された苦痛のぶんだけ、つぎはどんな声をあげるだろうと、オミは期待せずにはおられないのだ。

どれだけ強く振るえば? どこを打てば? どうすれば彼女は悦ぶだろう?

 苦と楽の淡いを行き来しながら、肉を触れ合わないまま、オミとヴァイオレットは確かに交わっている。愛おしい子を打つことが、いったいどれほどつらいのか、ヴァイオレットにはわからないだろう。彼女はオミを愛していないのだから。だが、ふたりはいま同じところにある。同じ舞台のうえで、絡みあっていた。

 丸まって痛みを避け始めた彼女の腹を、力の限り蹴りつけた。柔らかな室内履きを通して、細い骨と肉を感じた。

 ヴァイオレットが躰を折った。呻き声とともに、びしゃびしゃという水音が耳を打つ。悪臭が鼻先をかすめ、オミは椅子を引き寄せて腰を下ろした。ゆっくりと足を組み、彼女を見下ろす。手に弄ぶ鞭で、いたずらに床を嬲った。ヴァイオレットは怯えるでもなく、くの字に躰を折って履き続けている。

「おぇ、げ、ぇ……」

「ヴァイオレット」

「な、に?」

「ヴァイオレット。僕はどうすればいいと思う? このままおまえを眺めているのか、それともこの鞭でおまえを打つか。苦しみを占有するか、僕と分かつのかという問題だ」

 ヴァイオレットが、のろのろと顔を上げる。「汚いね、ヴァイオレット」殊更ゆっくりとした調子で、彼女の名を呼ぶ。呼ぶたび、「おまえは僕のものだ」と呪った。

 ヴァイオレットの躰の柔い肉は、爆ぜて裂けて、打たれたせいで、醜い斑に染まっていた。いまはまだ成熟の手前にある四肢は、すらりとして長いが、まだこれから若木のようにしなやかに伸びゆくことを知っている。豊かな黒い巻き毛は、彼女の底に鎮められたおそるべき情熱を予感させる。かろうじて耳にかけられ、いま吐瀉物にまみれている、オミの愛する髪だ。

 そして、眸が。

 彼女の名の、躰の、すべてである眸が、ほんの微かな光さえ失くして、茫洋とオミのほうを向いていた。紫色の、猫のように吊り上がった大きな目は、いつでも死だけを鮮明に映していた。

「ヴァイオレット。なにを見ているんだい。おまえがいま、見つめるべきは僕だけだろう」

 胃の腑の中身をあらかた吐き出して、薄い胃液と血混じりの唾を必死に飲み下そうとしている。嘔吐いて涙ぐみ、ふうふうと息を荒げる。身をかがめて、鞭の先で少女の裸をなぞった。躰を折ったヴァイオレットの、頂点たる背骨を、ゆるゆるとなぞった。彼女の躰が慄える。

「ヴァイオレット。さあ、選ぶんだ」

 薄い胸のさきをかすめ、頸を辿り、くちびるに触れて、目許に鞭を向けようが、彼女は目蓋を下ろさない。執拗な手で、オミはヴァイオレットの顏を探る。吐瀉物で汚れ、涙で汚れ、洟で汚れ、唾液で汚れ、血で汚れ、死によって汚れた少女の顔を、探る。

 糸引く唾液を力なく垂れるヴァイオレットは、その永遠のような時間に、焦らされているとも思わない。与えられることへの確信と、自らの勝利をすでにその胸に抱いていた。そしてオミは、名残惜しみながら鞭を遠ざけた。

 思い切り振り上げ、振り下ろす。

 風切り音、強かに打たれた床の甲高い悲鳴。

 びり、と耳奥が揺れた。オミはやはり微動だにしないヴァイオレットを見て、自分の苛立ちが極めて危険なまでに高まることを愉しんでいた。

「ヴァイオレット」

 ぜえぜえと息つく彼女の目が焦点を結ぶ。顔を上げ、オミを見た。鮮やかな紫にゆらゆらと見え隠れする快楽の濃密な期待に、オミはふたたび鞭を振り上げ――。

「ぎゃうっ!」

 犬のような声を上げて、ヴァイオレットが転げ悶える。躰を丸めてまた吐いた。オミは椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がり、追い立てるためまた、振り上げ、「はあぁ、うぅ!」、振り下ろし、「あぁっ、ぎっ……!」、振り上げ、「あ、あ、あああぁぁ」、振り下ろした。

 幾度でも打ち据える。苛立ちは煮えたぎる愉楽にとって代わり、ぐずぐずと醜く溶けようとしていた。

 快い腕の疲れを感じながら、オミは暗く笑った。振り乱されたヴァイオレットの髪が、汚物にまみれて床を這っている。彼女自身が吐き散らしたあらゆるものによって、汚れている。見るも無残な裸は、白くなめらかな輝きを失い、鞭痕がぞっとするほど鮮烈に刻印されている。

「ヴァイオレット。ヴァイオレット、なにが欲しいんだ……?」

呼吸を探して喘ぐ少女は、目だけをぞろりと動かした。暗澹たる紫が、オミの心臓の輪郭を探していた。

「じ、時間が、欲し、欲しい……」

 それはオミの求めていた答えとは違う。だが、彼女はあまりにも優秀な弟子だった。彼は弄んでいた鞭を棄てた。ヴァイオレットの汚れた髪を掴み、顔を上げさせる。

 やがては派手な美貌の女になる。

 娼婦の顏をした女になる。

 いまは青いくちびるは、扇情的な紅をのせて、誰かを誘惑する。猫の目は油断なく光り、望んだものを得るまでは決して逸らされないはずだ。

 だがヴァイオレットは娼婦ではない。女でもない。人間でもない。定命からはずれ、永遠ではないにせよそれに近い命を獲るもの。魔術師だ。ホーンの子たるヴァイオレットは、いずれオミを超え、この狭い街から彼を追うだろう。

「ヴァイオレット」

 だからオミは呼び、刻む。鞭打ち、嬲り、彼女の魂の服従を求める。そうはさせるものか。弟子たるこの少女が、己を超えることなど、許すものか。誰を亡ぼしても贖うことのできない珠を、いま掌中で弄び、守るも壊すも握っているのはこの自分だ。

「ヴァイオレット。僕はおまえに時間をあげる。おまえは僕になにを捧げてくれる?」

「……猶予、を」

 それは捧げものではなかった。ヴァイオレットはオミに「与える」のだ。それに気がついた瞬間、オミのほとんど憎しみと呼ぶに相応しい感情が弾けた。

 もとより脆い理性など消し飛び、少女の命の際まで執拗に、徹底的に痛めつけた。

 ぐったりと床に伸び、弱弱しい呼吸をするのみになったヴァイオレットを、あと一度の殴打で死に追いやることができるだろう――オミは、そのとき、泣いたのだ。

 子どものように、彼女のかたわらに跪きしゃくりあげて泣いた。

「ごめん、僕をゆるして、ヴァイオレット、僕をゆるして、愛しているから、僕にはおまえだけしかいないから、ヴァイオレット、ごめんなさい、もうしないよ、ねえ、ごめん、ヴァイオレット……」

 言葉を紡げないのではない。紡がないのだ。

 わかっている。

 オミはヴァイオレットにとって、取るに足らない時間のひとつでしかないこと。

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