嘆きの紫



 ヴェネット!

 ヴァイオレットはヴェネットの腕をぎゅっと掴んでいた。いつもヴァイオレットのことを離さないのはヴェネットのほうだったから、これは珍しいことと言えた。だが、ヴァイオレットはおそろしい夢を視たのだ。それは至極残虐にひとが殺されていく過程だった。その男の顏が、ヴァイオレットにはくっきりと見えていた。苦悶を超えるなにかによって目玉が半ば飛び出しかけ、舌を自ら噛み千切ろうとしていた。四肢はびくついていた。ごとりと頭が落ちる(どこへ落ちるのかはわからない)音で、ヴァイオレットは目を醒ましかけていた。しかし完全に覚醒したのは、その男の光を失った目が、くるりと回ってこちらを見つめた瞬間だった。

「ヴェネット!」

 知らず知らずのうちにそう叫び、ヴァイオレットはヴェネットにしがみついていた。

「触らないで!」

 ヴェネットは甲高い声でそう叫び返し、ヴァイオレットの腕を叩いた。

 拒絶と要求の矛盾、ヴェネットの自発的な接触なら許されて、ヴァイオレットがヴェネットに触れることは許されない、その理由とはなんなのだろう。わからなかったが、ヴァイオレットは従順だった。手を離して、泣きべそをかきながらヴェネットに夢のことを話した。

 双子のきょうだいはじっと黙り込んでいた。ヴァイオレットは彼女におそろしさを分けてしまったとようやく気がついたが、間もなく恐怖が共有されたことへの安堵感のほうが勝った。ため息をついて、汚い衣で脂汗をぬぐった。ぽろりと垢が落ちた。

「……もう二度と、こんな夢みたくない」

「お腹空かせて、疲れ切ればいいのよ。そうすれば夢なんてみない」

「いつもお腹空いてるよ。疲れ切ってる」

「足りないんだわ。あたしあしたあんたのパンを食べてあげる。あたしの仕事をやらせてあげる」

「ありがとう、ヴェネット……」

「ばかね」

「あのね、あたしあんたのこと愛してるわ」

 ヴァイオレットの腕を、ヴェネットがきつく掴んでいた。痛みを感じるほどの強さだったと思う。ヴァイオレットは、つなぎとめられている、と。そう確かに思えたのだ。だから二度目の浅い眠りに落ち着いて、おそろしい夢は視なかった。すくなくとも、その晩のうちには。

 ふたりは《釘地区》の崩れかけの塔に宿っていた。ホーンにそれを許されていた。びょうびょうと風が渦巻き唸る塔の内側で、双子は並んで眠るのだ。いつも先に眠るのはヴァイオレットだったし、先に目覚めるのはヴェネットだった。ヴァイオレットは、ヴェネットが眠っているところをあまり見たことがなかった。

 ヴェネットは幼いころ、おそろしい夢ばかりを視ていた。

「あたしはあんたのことなんて愛してない」

 だがヴェネットはやがて夢を視なくなる。

 ヴァイオレットは夢が夢ではなく、現実なのだと知るようになった。

「べつにそれでいいもん」

 そしていまも、死を見つめつづけている。

 ふたりは双子だった。



 遺品は、日記帳、数冊の本(いずれも貸本屋のものだ。だがヴァイオレットは返すつもりはなかった)、着古された衣服と唯一うつくしい足つきの杯(これはヴェネットの情人からの贈り物だった。きっと大切な人間だったのだろう。憎らしい)。あらゆる宝石はすでに売り払われていた。あるいは娼婦たちに譲られていた。ヴァイオレットに遺されたものは実質ひとつとてなかった。日記帳に関しても、ほんとうならば焼いてくれと女将に頼んでいたらしいが、女将はなにを思ってかそうせず、ヴァイオレットにこれを渡した。

 虫食いの死体は腐敗しない。

 朽ち果てた黒が塵となって消え、灰色に沈黙した肉体は損なわれたまま永遠にそこにある。なにか置物じみている。墓地というものがないホーンでは、死骸は処分屋に引き渡すのが通例だが、ヴァイオレットはそうしなかった。布にくるんだヴェネットであったものは、黒い縄が這ったぶんだけ軽くなり、ずいぶんと運ぶのが楽だった。

 病み疲れていたヴェネットは、もとより骸骨のように痩せ細っていた。少女すがたのヴァイオレットでも運べてしまうような死とは、いったいなにであるのだろう。

 塔の、いちばんうえまで運ぶのだ。

 《指輪地区》を通り抜けていけば、いやでもひと目を引くはずだったが、今日この日、塔は突然ヴェネットの住まいから一歩でたところへすがたを現した。

(ホーン)

 聳え立つ黒い石の塔は、ヴェネットとヴァイオレットを待っていた。

 彼女たちを迎えるために、塔はいまこの瞬間、この場所へと出現した。

「……ありがとう」

 抱えるのは楽でも、塔の内側の階段を一段また一段と上るのは容易ではなかった。それでもヴァイオレットは一度も休まずに、ゆっくりと塔のうえまで歩み続けた。進むごと腕のなかの遺骸はヴェネットではなくなり、ただの重い荷物になった。それでいて、ヴァイオレットはこの重い荷を手放せる気がしなかった。腕が痺れて、息が切れて、苦しさに喘いでも、なお塔のうえへ辿り着くことはあまりにも悲しい。

(どうして?)

 びょう、と風が吹いた。

 赤錆びの雨が止んだホーンの、それでもどこか湿った風は、生臭くぬるい。ヴァイオレットの髪にたっぷりと遊んでいくその不愉快な風は、胸にも、腹にも満ちているのだ。ヴァオレットの血肉たる、このホーンの息だ。そっと、黒い石のうえにヴェネットの死骸を下ろした。

 二度と会わない。言葉を交わさない。許されて触れることもついになかった。

 拒絶のわけも知らないままに、ヴェネットとヴァイオレットは分かたれた。

 ホーンがこの死骸を平らげるだろう。ヴァイオレットはそして孤独になる。

「あ、ヴェネット」

「ヴェネット」

「あ、あ、あたし」

 風が白布を巻き上げて、どこかへ飛ばした。虫食いの死骸が現れ、死を知らしめる。無惨に食い荒らされた肉は、しかし奇妙なほど穏やかで、ヴァイオレットの感情はおそろしく簡単に掻き乱されるのだ。

「ヴェネット、あた、あたし、もう」

 紫色の眸のヴァイオレット、青い眸のヴェネット。薄汚い路地裏育ちの子ども、ほんとうに分かたれたことなど、一度もなかったのに。確かにヴェネットは、そう遠くない未来に病で窶れ果てて死んだだろう。そもそもヴァイオレットは、ヴェネットが死ぬという事実をあらかじめ知っていたはずだ。より具体的に、「ひとは誰もが死ぬ」という普遍を超えた意味で。

 だのに、両目から溢れ出す涙を、とどめることは不可能だった。愛が失われた。悲しんでいるのだ。確かに悲しいのだ。いい加減擦り切れたと思った、死に対する悲嘆が、まだ残っていたとは思わなかった。そしてヴェネットが、ほんとうに死ぬなどと。

 思いもしなかった!

「どうすれ、ば、い、いのっ……」

「あたし、ひと、りで」

「………ヴェネットぉ!」

 服の裾をぎゅっと掴んでいた。髪を切りたくなった。

「置いてかないでよぉ……」

 見苦しいほど嗚咽して、ヴァイオレットは伏した。

 顔にまで虫食いの縄目が這っていった死骸にしがみついて慟哭した。どうして、どうすればいいの、ひとりにしないで、置いていかないで。ヴェネットと、繰り返し呼んだ。ただ彼女の名を叫びたくて叫んだ。誰かとヴェネットの話をすることなど、今までもほとんどなかった。つまりこれからだってない。

 ヴァイオレットはヴェネットと呼ばなくなるのだ。それはあんまりだった。

 ヴェネット、ヴェネット、ヴェネット。

ヴェネットはヴァイオレットだった。ヴァイオレットがヴェネットであるようにして。

(あたしの半身)

 確かにヴァイオレットの愛だった。そしてヴェネットの愛だった。腕は彼女の強さを覚えている、肉に食い込む細い指を、「触れないで」と言いながら決して離さなかった事実を。双子だったのだ。

 下品な娼婦の恰好をするヴァイオレットを、ヴェネットは軽蔑していた。彼女はいつも慎ましげな衣服に身を包んでいた。実際身を売るのはヴェネットで、ヴァイオレットはなに不自由なく、なにも差し出すことのない生活を送っていたというのに。

 小説を読むのが好きで、博学だったヴェネット。慎ましさとその聡明さで、彼女は上り詰めた。だがそれも、所詮は娼婦の身だったのだ。誰のところへも行かないまま、病を得て、ひっそりと暮らしていた。ヴァイオレットとオミの援助がなければ、薬も買えなかったヴェネット。だがいつも気ちがいじみていたのはヴァイオレットのほうで、餓えていたのもヴァイオレットだった。

 おかしなことだ。

 愛したのか、愛されたのか。

 必要としていたのか、されていたのか。

 明白だった。愛したのも、必要としたのも、ヴァイオレットだけだったのだ。ひとり老いていくヴェネットは、魔術によって若返り少女のすがたを取り戻すヴァイオレット、その奇妙な生をいったいどう思っていたのだろう。彼女がどれだけ嫌悪の言葉を吐いても、よかった。しかし、決して、自分から問いを発することはできなかった。

 もしもほんとうに、彼女が自分を憎んでいたなら。そう思うだけで、慄えるほどに恐ろしい。

 幼いころは、共有されていた夢。共有されていた死を、いつしかヴァイオレットが根こそぎ奪ったのだ。

 そうしてふたりは仮りに分かたれ、ヴェネットは苦しいまま。ヴァイオレットは怯えていた。紫色の眸ははじめどちらのものだったか? わからない。どんな偶然で、ただヴァイオレットがこうして魔術の才能などというものを手にしているのだろう。そうしていまも、ヴェネットが死ぬときも、己は少女のすがたなのだろう。

 呪わしくないわけがない。

 もはや最後の愛と、時を、喪った。

「ヴェネット、ゆるして、ゆるさないで」

「あたしあんたを憎むわ」

 ――だってもう、年を取ることが出来なくなった。オミと、同じところまで墜ちた。

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