ホーンの魔術師選定



 それは影のように忍び寄り、燐の幽かな気配さえ纏わず、巻き付く。

 はじめは、灰色のごく薄い痕のようなものだった。気がつく頃には黒く刻印されている。縄目文様が絡みつき、刺青のようにくっきりと浮かび上がるのだ。呪いかと思えども、痛みも苦しみもない。

「でも死ぬのね」

 ヴァイオレットは目を眇めた。差し出された両腕に、躊躇いなく指を這わせる。黒い縄が絡みついた細腕は、オミの弟子のひとり、アンジュのものだった。ヴァイオレットよりも弟子である期間は長く、魔術の才覚よりも学問分野での優秀さが際立つひとりだ。特別に愛したわけでなくとも、オミは彼を重宝していた。

 少年アンジュは、ヴァイオレットの手からそっと腕を引き抜くと、捲りあげていた袖を下ろして不気味な模様を覆い隠した。白い衣にうすらと透ける禍々しい縄目が、いったいなにであるのか、オミにはなんとなくわかっていた。そしてそれは、おそらくヴァイオレットも同じだろう。

「師匠はまだ開封してないと思いますが、協会の書簡はおそらくこの呪いだか奇病だかの通達ではありませんか」

「ああ……これだね」

 未開封の手紙の山をごそごそと漁り、魔術師協会の封印を見つけた。横からヴァイオレットが覗き込んでくる。彼女の豊かな髪が、一束落ちかかる。オミは指さきに髪を絡めて遊ぶ。

「おまえの言う通りだね、アンジュ。どうもホーンでは雨が止むすこし前から、この奇病……奇病と書いてあるね、が発見されていたようだ」

「ハンナベールからも手紙が来ていたと言わなかった?」

「これですね。ああ、ほら。師匠に奇病への所見を求めています。珍しい、あの女性が」

「そうだねえ。返事をしたところで、彼女はそのまま郵便を燃やしかねない。しかし、ハンナベールがお手上げとなると、やっぱりおまえも、世間の通りに死ぬということか」

「おそらく、そうなりますよ」

 アンジュはあっさりとそう言って、二枚の手紙を暖炉に投げ入れた。瞬く間に炎に呑まれ、消える。「仕方がないですね。私は部屋を片付けてきます。どれほどの猶予があるかもわかりませんしね」。まるで自分の命に無頓着だ。彼が出ていくと、談話室に取り残されたオミとヴァイオレットは、どちらからともなく寄り添った。

 彼女の細い腰を抱き、膝に座らせる。長く豊かな黒い巻き毛を撫でれば、自ずと笑んでしまう。

「ああ……」

「ねえオミ、あんたはなにもしないつもりなの」

「そうだね。だって、おまえがいるんだ」

「あたしを理由にするのはやめて。相変わらず、屋敷から出ないのね」

「だって、出る理由がないからね。おまえのように、街を彷徨う弟子はいない」

「アンジュが死んでしまう」

「おまえはあの子に懐いていた。ちょうどよかったよ」

「あんたって嫌なやつよ」

「それでも、アンジュは僕のことを愛している」

 ヴァイオレットが、躰から力を脱く。ばかばかしい、そう言っていた。ぎゅっと抱きしめて彼女のかおりを胸いっぱいに吸い込んだ。濃密な花の香がする。いかにも放縦な女らしいかおりだった。少女のすがたになろうとも、彼女の精神は少しも変わりはしない。豊かな髪を流れるままにし、コルセットはきつく締める。娼婦よろしく足を出し、ドレスを台無しにするのが好きなのだ。彼女のシルエットは、一目見て「ヴァイオレット」と判断できるようなものだった。

 かわいらしさとは無縁の顔貌も、彼女の好む衣服によく合っていた。ひどく挑発的で、男性というものをよくわかっているような表情をしていた。オミはしかし、ヴァイオレットがほんとうに「知って」いるのは、そんなつまらないものではないと言うことを、骨身に染みて理解している。

 ヴァイオレットを膝に乗せ、抱きしめ、そのかおりで肺を満たしても、彼女はひと欠片だってオミのものにはならない。

「おまえがいればいいんだよ。僕のかわいい女の子」

「オミ」

「考えてもごらん、ヴァイオレット。おまえはひどく生意気で、僕に逆らってばかりいる。僕のことを少しも愛してはいないのに、幾度だって僕のもとへ帰るんだ。その事実だけで、僕はおまえがいればそれでいいと、そう言えるんだよ」

「本当に?」

 「ああ」と頷いた。彼女の眸は嘲っていた。オミの言葉を信じていなかった。おまえはもっと貪欲なはずだと囁きかけていた。オミはかぶりを振って、ベルを鳴らす。

「はい」

「ここで手紙を書く。用意を」

「はい」

 マリアンネは、やはり暗い目でヴァイオレットを見る。

 オミは、自分を愛する弟子たちが、ヴァイオレットに憎悪の視線を送るのがたまらなく愉快だった。運ばれてきた便箋とペンを手に取り、ヴァイオレットを抱いたまま手紙を書く。協会に返事などは不要だ。肝要なのはハンナベールのほうだった。彼女の施療所のためにも、忠告をしてやろうという気になった。貸しをつくるのは悪くない。ハンナベールの医術は、こと呪いに関してはホーン随一のものだ。

「これ、あとで届けてね」

「わかりました。……あの、オミさま」

「なんだい?」

「あ、あとで、マリアンネの魔術をみてください」

「そうだね」

「ありがとうございます!」

 頬を薔薇色に染めて、マリアンネが勝ち誇った表情を浮かべる。苦笑して、オミは彼女を追い払った。腕のなかでおとなしいふりをするヴァイオレットは、ひたすらに無関心なだけ。彼女に関わると、自分ばかりがひどく感情的だ。弟子たちも、その空気に呑まれているのだ、結局は。

「おまえは魔術に興味がないから、僕としては残念だよ」

「難しいことが得意なのはヴェネットのほうよ。あたしは文字を読むのも嫌い」

「それでもおまえには才能がある」

「もう十分。これ以上はいらないの。それにいまは、なにもしたくない」

 そう言って、ヴァイオレットがオミの腕から抜け出した。つかつかと歩いて窓際に立つ彼女のすがたに、オミは惚れ惚れとせずにはいられなかった。完成の数歩前で震える少女の肉体は、それでも同年代のものと較べれば成長しているほうだろう。小さな顏、豊かな髪。ふくらんだ胸と細い腰、長い手肢。身長は高く、大人になれば男性と並ぶことをもう知っている。

 猫のように吊り上がった大きな眸は、油断なくあたりを見つめていたかと思えば、どろりと濁ってなにも映さなくなる。

「なにもしなくていい。ここにいるんだ、ヴァイオレット」

 彼女は返事をしない。気まぐれに歩き、オミを見つめ、タペストリーをめくり、暖炉を掻き混ぜ、おもむろに紅茶を飲み干すと、くるりと振り向いた。オミは耳をふさぎたくなった。彼女はなにかまた、決定的なことを言おうとしている――。

「多くの魔術師が死ぬ。ホーンの魔術師選定がはじまる。オミ、あんたは怯えるべきよ」

 そう言い棄てて、ヴァイオレットは長椅子に身を投げる。まもなく、少女は驚くほど暢気に眠りはじめた。



 オミの屋敷で過ごすようになってしばらく。赤錆びの雨が止み、奇病が本格的に蔓延しはじめた。ひと月も経たないうちに、ずいぶんたくさんの死を視た。とはいえ絶対数の少ない魔術師が一度にどれほど死のうとも、ホーンの住民を揺るがすことはない。

ヴァイオレットは暇を持て余していた。「なにもしなくてもいい」という言葉の通りに、彼女は魔術の修行もしなければ、オミを手伝うこともせず、気まぐれに本を取ってはぱらぱらとめくるだけ。やることがないのだ、ひとつも。ここには仕事がない。

 眠りのうちに死は訪れ、ヴァイオレットの眸を侵した。不眠はひどくなり、断続的な眠りはヴァイオレットを疲労させる。退屈で死にそうなのと同じほど、安寧の眠りがないことに苛立ってもいた。

 オミのあまい声や、弟子たちと戯れるすがたを眺めては、色を濃くする隈を憎々しく思った。

(抜け出そう)

 屋敷にいるだけでは気が滅入るばかりだ。新たな刺激を必要としていたし、ヴァイオレットは限界だった。――彼女はしばらく、ホーンを感じていないのだ。

 だから。

「いったい、なにを……」

 ヴェネットはヴァイオレットを見て、顔を白くした。

 彼女はこのすがたのときに、ヴェネットを訪れないと約束していた。それを破ったためというよりも、ヴァイオレットの見た目のせいで、彼女は蒼白になっているのだろう。しばらく口も聞かず、ただ穴があくほどヴァイオレットを見つめていた。

「ヴァイオレット、あんた」

「約束破ってごめんなさい、ヴェネット」

「そうよ、……約束だわ。ふざけないで、どういうことなの」

「わかってるはずよ」

 掛布を握りしめるヴェネットの拳は、怒りで震えていた。年老いて痩せた、枯れ木のような彼女は、分厚い化粧着を身に纏っている。ヴァイオレットが袖に視線を向けていることに気がつくと、諦めるように息をついた。

「あたしに構わないで」

「あたしの勝手でしょ。退屈なの。オミは忙しいし、弟子はどうせたくさんいるもの」

「よそで遊べばいいじゃない」

「うるさいわね。ねえ、見せて」

「どうにもならないんでしょう。触らないで、ヴァイオレット」

 「触らないで」、とヴェネットは繰り返した。ヴァイオレットが引き下がる様子をみせないと、彼女は三度目の「触らないで」を言い、自ら袖をめくりあげた。骨と皮ばかりといった腕には、禍々しい黒い文様が巻き付いている。予想した通りの光景に、ヴァイオレットは一瞬だけ目を瞑った。

「あんた死ぬわよ、ヴェネット」

「わかってる」

「それ出たら、死ぬのよ。あたしでもオミでもどうにもできない」

「わかってるって言っているのが聞こえない? あんたは忘れているかもしれないけど、あたしだってホーンの子なのよ」

「…………あんた死ぬのよ」

「うるさいわね、本当に。そんなことを言いに来たわけ? わざわざ?」

「うるさいのはそっちよ。退屈だったと言ったじゃない」

「ばかね。もう金をせびられなくなるんだから、あんただって喜んでいいはずだわ」

「喜ぼうが悲しもうがどうでもいいでしょ」

「悲しむ?」

「そんなことあるはずない」

「そうね」

「ヴェネット」

「なによ」

「あんた、死ぬの」

 ヴェネットはただ静かに、こちらを見返すだけだった。

 ヴァイオレットは寝台に腰を下ろした。軋み、耳障りな音をたてる。ヴェネットは今すぐにでも彼女を追い払いたそうにしている。雨の止んだホーンは、思いがけず静かだ。ことに、昼間の《指輪地区》などは。

「帰りなさいよ」

「嫌よ」

 ヴェネットの両腕に巻き付いた黒い影は、やがてその全身を冒すだろう。

 アンジュは三日前に死んだ。ちょうど一週間ほどという、おそるべき素早さでこの奇病は進行するのだ。それは身辺整理に必要なだけの日数だったかもしれない。恐怖に耐えられなくなる寸前までの時間だったかもしれない。全身を縛する黒い縄が、やがて朽ちるのだ。痛みも苦しみもないまま、あくまで沈黙を保ち、肉の断面は灰色に固まる。最後に心臓が黒く朽ち果て、かすかに粘つくなにかが寝台にどろりと滲みればおしまいだった。

 魔術師らしく、一握りの砂になることもない。ただ重々しく冷たい灰色の肉の塊に成り果てる。どんな汚臭もなく、不気味な虫食い状の骸が、ある朝横たわっているのだ。

 そう、オミは怯えていた。

 だから彼はあれほど、忙しく立ち働くのだ。弟子たちをつねにまわりに侍らせて、眠るときにも片時も離そうとしない。

「ヴェネット、あたしたち双子よね」

「少なくとも生まれてから数年はそうだったでしょうね」

「いまもよ」

「そうかもね」

 ヴェネットは言葉通り、子どもを見るようなまなざしをヴァイオレットにくれていた。老成した彼女だが、母性などというものは欠片もない。老いた女の乾いた目だった。彼女の肩に手を伸ばすと、それとなく避けられてしまう。触れないで、触れないで、触れないで。

 憐れんでいるのか、憐れまれているのか。

 ヴェネットとヴァイオレットはもう、双子ではないのか。

「ねえさぁん……」

 顔をゆがめてみたところで、涙の一滴も落ちない。

 ヴァイオレットの声は媚びてあまえた声だった。不透明で、黒く絡みつく縄目文様よりあるいは、禍々しい類の。

「帰りなさい、ヴァイオレット」

 ヴェネットは、いちばんやさしい声でそう言った。



「どこへ行っていたんだ?」

 屋敷の玄関で、オミが待ち受けていた。

「ヴェネットのところよ」

「どこへ行っていたんだ、ヴァイオレット?」

 扉をくぐれば掻き消える、ひどく脆い微笑の仮面。髪を掴まれてぐいと引かれたかと思うと、閉じたばかりの大きな扉に背中が叩きつけられた。一瞬呼吸が止まり、ちいさな咳がこぼれた。

「なに」

「どこへ行っていたんだ、と僕は聞いている」

「答えたじゃない」

「ヴァイオレット」

 ゆっくりと、聞き分けのない子どもを叱るように、オミは「ヴァイオレット」と繰り返した。髪と同じ、ありふれた薄茶色の彼の眸には、紛れもない怒りが浮かんでいた。だがこれが、心配だとかそういったものではないことくらい、ヴァイオレットも承知している。

 癇癪だ。物事が思い通りに進まなかったときの、オミのつまらない八つ当たりだ。

 彼の背後ではマリアンネが、愛くるしい白いドレスを着て、厭らしい笑いを浮かべていた。ヴァイオレットは彼女を見つめることに決めた。オミは見つめられない自分に、いつ気がつくのだろう。

「おまえは怠惰だ。僕の屋敷に身を置きながら、いったいどういうつもりで何もしない」

「あんたがそれでいいと言ったのよ」

「愚図で役に立たないおまえでも、ほかの弟子の手伝いくらいできるはずだろう!」

「いいえ。あんたのちいちゃいマリアンネはじめ、あたしは嫌われているもの。それに怠惰で愚図で役立たずだから、あたしの手伝いなんて邪魔もいいとこでしょうね」

 うわの空で返事をすると、もう一度背中を叩きつけられた。眉を寄せるとすかさず「痛い?」と問われる。「そうね」と言うと、もう一度、「痛いか」、もう一度、「ええ」、幾度だって彼は、このくだらないやり取りを繰り返したがる。

「ねえヴァイオレット。おまえは僕のものだよ。もう一度だけ聞く。どこへ行っていた」

「オミ。あたしはあんたのものじゃないわ。もう答えたはず。耄碌したの?」

 無言のまま、頬に熱い感触を受けた。音は遅れて、衝撃はさらに遅い。がつん、という骨の鳴き声がした。

 殴られた。

 まただ。

 ヴァイオレットは意図して薄く笑った。

「オミ、あんたって……」

「おまえは」

「あたし悪い子よ。お仕置きがしたいの、オミ?」

 手を伸ばせば、オミは大きく肩を揺らした。爪のさきで、彼の頬を子猫がするようにやさしく引掻いた。

「ねえ、塔へ行っていたとそう、答えて欲しかったの?」

「……ちがう」

「そうでしょ。あんたってどうしようもないわ。あたしヴェネットのところに行ってたの。それだけ。塔へは行ってない」

「…………ちがう」

「なにがちがうの。オミ、あたしは確かに、悪い子かもしれないわね。でも、知っている? あたしもう十二歳じゃないわ。ヴェネットを見てよ、あんなに年取って、もうおばあちゃんじゃない」

「うるさい!!」

 拳を甘んじて受けた。がっ、がっ、と嫌な音がする。

 鼻から血が垂れて、ぬぐえばぬめって生温かい。

 ヴァイオレットはマリアンネを見つめたままだ。金髪碧眼のちいさなマリアンネは、天使のような顔貌に相応しからぬ、憎悪に濡れた表情で、そう、ヴァイオレットを見返している。

 ――うらやましいんでしょ。

 くちびるの動きでそう伝えてやれば、彼女は歯を剥いた。オミがいなければ、すぐにでも噛みついてきそうな顏だ。喉奥で笑いを押し殺した。どうせ眸は笑ってしまっているだろう。殴られて鼻血を垂らして、綺麗なマリアンネを見つめている自分が、ふっと可笑しくなった。

ばかばかしい、何もかもが。顏が痛かった。とても、痛かった。

 口の中に広がる血の味と、オミの幼稚な癇癪と、殴られるみじめな自分、玄関先の出来事。

 老いた双子のきょうだいは「触れるな」と言った。言外に、「もう双子でない」とも。いま自分に触れているオミは、ヴァイオレットにとってはなんの意味もない。ヴェネット。ねえさんになら殴られてでもいい。触れてほしかった。……否、触れたかったのに。

「ああ……」

 仰け反って天井を仰ぐ。吹き抜けになった玄関、装飾天井の趣味の悪い絵がよく、見える。

 あそこが天だ、この、目の前のオミの。

「しょうもないわ、ほんと、ばかみたいだわ、あたしたちなにをしてるんだろう、ねえ、オミぃ」

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