死を覗く紫
そのときの雨は、赤くはなかった。
このホーンという街が、オミは嫌いだ。普段は《時計地区》に構えた屋敷から出歩くことはあまりない。ホーンは塔や猫の眼時計といった、黒く聳える巨大な建造物を従えた、奇妙で恐ろしい怪物のように思えるのだ。はるかな昔この地をはじめて踏んだ時、大気と人間の内の燐の濃密さに目を輝かせたことは、もはや恥ずべき記憶と言えた。
オミがその生を誤った分岐点は、間違いようもなく、このホーンに辿りついてしまったそのときだったろう。郷里を追われ、帝国に裏切られ、滅ぼされかけてようやく縋りついた最後の藁。それは望みの果ての理想郷だと、確かにはじめのうちは思っていた。
足の震えがおさまらない。
嫌な汗が首筋を濡らしていた。
どうしてヴァイオレットは、このようなところで眠ることができるのか――オミにはきっと、死んでもわかりはしないだろう。簡潔に言えば、彼女はこのホーンで生まれた愛し児で、自分は異邦人だからだ。長いとき、このホーンを見つめてくれば嫌でもわかる。この街は異邦人にやさしくはない。一部の例外を除き、容赦がないと言ってもいい。まるで生きているかのよう。街は選ぶのだ。
塔の頂上の扉に背を預けて、オミは吹きつける風雨にその身をさらしていた。ヴァイオレットが眠っている。塔の黒い石の、冷たく硬い床のうえで、胎児のように躰を丸めている。幼いヴァイオレットが、ひどい不眠に悩まされていることを知っていたオミは、彼女を起こすことが出来なかった。
それは彼女への気遣いというよりは、このホーンの塔のうえで、ヴァイオレットに対して高圧的な態度に出ることは望ましくないという恐怖に由来していた。胸の内でじりじりと存在感を増す不快との戦いだった。オミほどの魔術師となっても、このホーンという巨大な生きものに勝てはしない。
いっそう雨が強まり、ヴァイオレットの豊かな巻き毛がぐっしょりと水を含んで膨らむ。
オミの愛する黒い巻き毛に、指を通して絡まりを解いてやりたい。
声が震えたり、どもってしまわないよう、オミは最大限の注意を払わねばならなかった。
「ヴァイオレット」
もぞり、と彼女が起き上がる。黒い髪はこれ以上ないほどに乱れていた。みっともなく汚れ、もつれて青白い顏のまわりにかかっていた。半身を起こしても髪は塔の石のうえにわだかまっている。ずいぶんと長い。
「オミぃ……?」
「ヴァイオレット。麻薬はやめろと言わなかったかな。浮浪者じみた生活もだよ」
「んふふふふふふふふ」
「僕の弟子となったろう。もう忘れてしまったのかい。僕はおまえのために、わざわざ塔にまで登ったんだよ」
「うううう、うふ、んふふふふ、オミぃ、あんたはー……」
ふふふふふ、ふふふ、とヴァイオレットは気味の悪い笑い声を上げ続けていた。口の端からはだらしなく唾液を垂れて、眸は焦点を結んでいない。とはいえそれは、彼女が紫色の眸で死を視ているというわけではなく、麻薬によってなにもかもから逃れているということの証拠だった。
オミは外套のフードを下ろした。彼女の言葉の続きを待つつもりはない。正気ではないヴァイオレットがなにを口走るか、オミにも予想がつかないのだ。決定的なことはなにひとつだって知りたくはなかった。早足に近づく。
「あ――」
「ヴァイオレット」
「あ、あ、あ、あ、あははははははは」
「ヴァイオレット、やめるんだ……」
小さな彼女を無理やりに立たせた。ぐらつく躰を支え、胸にもたれかけさせる。オミは彼女の髪を掴み、強く引いた。のけぞった顏が、オミを見つめる。紫の宝石は、輝き、そして燐の名残りの朦朧とした光を散らせて、消えた。恐怖に凍りつけば、彼女のくちびるをふさぐことなど思いつきもしない。ましてや、痛めつけることなど。
沈黙が、オミの膚をねぶったように思えた。永遠とも思われるその生ぬるい沈黙のうちに、幾つもの生涯を渡った気がした。
「あんただわ。あんたは死ぬ。雨は止む。ホーンはあたしを愛してる」
明瞭な口調の断定。
彼女が視るのは、彼女が生きている時代の死。
オミは彼女よりもはやく死ぬだろう。
それは予言だった。
赤い雨は止む。
弟子は周囲の人間に問われれば、必ずそう答えていた。どうして起きたのか、未だ定かではないこの不可解な天候に、彼女はどこか親しげに接していた。オミの見つめていた限りでは、そうであったと言えるだろう。
遠い景色を赤く煙らせる雨が、街区の光を不吉な霧のように色づけている。
屋敷の四階の、主の大寝室から、忌むべきホーンを見下ろした。ガウンを羽織ってはいるが、そのほかはなにも身に着けていない。寒いような気もしたが、問題ではなかった。オミがゆうに五人は寝転ぶことが出来るであろう寝台は、巨大な食卓じみていた。その寝台の中央で、躰を丸めた裸のヴァイオレットが眠っている。もうずっと、眠り続けている。ここ一週間ほど、彼女は眠りの底に蹲ることで、躰を作り変えられるという強烈な違和から逃れていた。
二十八歳にまで成長し、成熟していた肉体は時を逆巻き、オミと出会った頃の、およそ十二歳の彼女に戻ろうとしているのだ。それはほとんど完成しているといっていいだろう。定期的な投薬によって管理されていた彼女の体内の燐が、オミの与える一滴の劇物によって一斉に動き出す。ヴァイオレットは若返り、あらたな時を手にするのだ。オミ自身は、いま二十代半ばほどの若者すがただ。幾度もこの手法を繰り返すうち、ついに肉体は老いることを諦めた。
寝台に乗り上げて、眠るヴァイオレットを抱き寄せる。裸の彼女は奔放で淫乱な女ではなく、オミのもとで育ってゆく無垢な少女に変貌している。頬がすこしだけ円くなり、猫のように吊り上がった目ばかりが大きく見える。手肢はぎこちなく伸びながら、居心地が悪そうな、危い均衡のうえにあった。
体温の低い躰を抱きしめて、オミは大きく息をついた。
(僕のものだ)
離れていた時間を、どうして自分が耐えられたのかと――こうしてヴァイオレットがオミのもとへ戻るたびに思うのだ。オミの、なによりもたいせつな弟子。「僕のかわいい女の子」であるヴァイオレット。
と、大寝室の扉が遠慮がちに叩かれた。
「なんだい」
気怠い息で問うと、おずおずと扉が開けられた。八歳のマリアンネが、細い腕で書簡を掲げる。
「オミさま。あの、魔術師協会から、手紙が。ハンナベールさまからも」
「あとにしてくれないか、マリアンネ。くだらない意図があってちょうどいま扉を叩いたというのなら、僕はおまえに仕置きをくれなければならないよ」
「あ、あ、あの……」
「そうだね、そう言われることをおまえは期待したんだろう。淫らな子。さあ、仕事へ戻りなさい」
「はい。も、申し訳ありませんでした」
頬を火照らせたマリアンネが、去り際にぞっとするほど暗いまなざしをヴァイオレットにくれた。彼女はそんなことも知らず眠ったままではあったが。
オミはこの屋敷に、現在十二人の弟子とともに住まっている。そこにヴァイオレットを加えて十三人。数はそう頻繁に増減することはない。魔術師の師弟というものは、とりわけ弟子というものは、その師を盲目的なまでに信奉する。数の少ない魔術師の世界では、派閥は思想信条というよりかは、すべてが師匠に拠るのだ。
現在ホーンで勃発している抗争の仕掛け人である魔術師協会は、大魔術師ドミノの弟子筋で構成されている。ドミノ本人の魔術師としての資質は傑出して優れたものではないのだが、彼は組織をつくることに大いなる才能を発揮していた。魔術師にしては珍しい才能と言えるだろう。そうしていつの間にやら、この魔術師の都であるホーンで盟主面をするようになっていた。
オミにとってはただ鬱陶しいばかりだ。その馬鹿げた協会は、ドミノとの師弟関係に限られることはなく、力の弱い魔術師に保護を与え、相互に助け合う堅固な組織になった。ひとりでもやっていける少数の魔術師は、そんな協会をなにとも思っていない。だが協会側が目論むのは無論、このホーンにおける魔術師勢力としての結束だ。
目障りな野良を殺すなど、過激な行為が横行しているのは、いささかドミノの意図を外れているようにも思えたが。
「オミぃ」
抱きくるんでいたヴァイオレットが、大人の彼女よりは高いが、少女らしいというには低い声でオミを呼ぶ。意識が回復したらしい。腕を解くと、ずるずるとシーツを乱しながら、頭を揺らして半身を起こした。豊満だった胸は膨らみかけの蕾に戻り、白い膚はぴんと緊張している。ヴァイオレット自身の精神とはかかわりのない、肉体の瑞瑞しさだった。
「調子はどう?」
「二日前から目は醒めてた。だいたい調子はいいわ。……さっきの、新しい弟子?」
「マリアンネ? いや、ああ、そうか。おまえが出て行った年に来た子だよ。まだ一周目だ」
「かわいいじゃない」
「やきもちかな」
「そんなことがあると思うの」
肩を竦めて応えてみせると、ヴァイオレットは鼻を鳴らした。
寝台横のテーブルのベルを鳴らす。入ってきたのは先程出ていったはずのマリアンネだ。どうやらずっと、大寝室の扉に張りついていたらしい。健気で小さなこの弟子は、新入りではあったが、元からいる何人かの弟子より出来がいい。ヴァイオレットが帰るまでは、オミはマリアンネを可愛がっていたといって間違いがないだろう。
オミの崇拝者たる、幼子のすがたをした弟子たち。
「御用はなんでしょう、オミさま」
「ああ……なんだい、ヴァイオレット?」
「コーヒー、ブランデー、チョコレートケーキとゆで卵、それからなにか着るもの。あんたたちが着ているようなものを持って来たら、あたしは裸で過ごすからね。わかった、マリアンネ」
「お姉さま、マリアンネはオミさまにお伺いしましたわ」
「あたしをお姉さまと呼んだら、殺すわよ」
「お姉さま」
マリアンネが無邪気なふりをして嗤う。ヴァイオレットの怒りなど意に介さない。時にはオミの命令からそれたこともする、「愛するゆえに」、それが彼ら弟子だった。オミはちいさく微笑み、マリアンネを手招いた。途端彼女の顏は幼い風貌に相応しくあまく蕩けて、駆け寄ると彼の膝のうえに座る。
オミはそうすることを許した覚えはなかった。
「マリアンネ。ヴァイオレットの言うことを聞くんだ」
「オミさま、でも、マリアンネはオミさまの弟子ですの」
「師匠の言うことが聞けないのかい」
「いいえ……聞けますわ。お姉さまの言うことを」
「いい子だね」
マリアンネを上向かせ、オミはいたずらにちいさな彼女にくちづけた。
ヴァイオレットはそれをぼうっと見つめている。視線を感じながら、くちづけを深くしていく。彼女の視線は感じるが、それは動物を眺めるような、ひどく他人事の、空しく軽いものだった。オミの期待する、情熱や憎悪といったものは、すこしも感じることは出来ない。与えてはくれない。
背筋が震え、怒りを掻きたてられたのはオミのほうだった。マリアンネの頭を強く抑えれば、彼女があまくちいさな声を漏らす。吐息さえ奪い尽くすために、オミは決して彼女を離さなかった。そして目は、ヴァイオレットを捉える。
笑っていた。愉快で愉快でたまらないとでもいう風に、ヴァイオレットは笑いをこらえていた。紫色の眸を三日月形にゆがめて、くちびるは波打っていた。
マリアンネの口腔を蹂躙していた舌を引く。すると追いかけるように、幼い赤が追いかけてくるのがわかる。
「ぎっ……!」
思い切り噛んだ。
じわりと血の味が、オミとマリアンネのあいだで共有される。苦く生臭い血が、唾液と混じってぼとりと落ち、白いシーツを汚した。マリアンネがもがき、オミの胸を叩く。オミは彼女の手をゆるし、顎に力を込めた。冷汗と、痛みと、マリアンネの呻き声。
「赤錆びの雨、止むわ」
シーツの赤い汚れを見て、ヴァイオレットは愛おしむようにそう言った。
恐ろしいほどの失望に襲われて、オミはマリアンネを突き放し、部屋を出るしかなかった。
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