ヴァイオレットという女



「ああ、そう。そりゃよかった。報酬だ」

 依頼者である男に仕事の次第を報告した。彼の視線はヴァイオレットの躰をねっとりと這いまわっていた。ヴァイオレットは受け取った金を机に置き、新たに金額を告げた。くちびるの端を吊り上げると、男は肯き、報酬の入った袋のなかに金をいくらか足した。ふたりは性急に交わり、十五分後にはヴァイオレットは《指輪地区》を歩いていた。

 雨が降っていた。

 それにもかかわらず薄物一枚で客をひく男女、応える者、油断なくひとびとを観察する路地の暗い眸、あらゆる生と死が濡れて渦巻き赤く染まっていた。赤錆びの雨が降り出してひと月以上が経っていた。だがヴァイオレットは、この雨がいずれ止むであろうことを知っていた。

 ひっきりなしに響き渡る嬌声は、否が応にも欲を呼ぶ。淫猥な音が耳を満たし、その影では死が蠢く街区だ。入り組んだ街の、色とりどりの明かりとひととを掻き分けて、一軒の娼館に辿りつく。裏口から勝手に這入りこむと、用心棒の女が鼻を鳴らした。この娼館は大きくはないが、《指輪地区》でもまずまず高級な店だ。ヴェネットは以前、この店の娼婦としてその名を馳せていた。だがそれも、病に斃れるまでの話だ。借金の形というわけでもないヴェネットは、未だこの店に籍を置いてはいるが、客は古なじみが数人見舞いに訪れるだけだという。いまは娼婦ではなく、女将の右腕となって娼館の経営を助けているらしい。

 どれも本人から聞いた話ではない。

建物の一階の奥、まったく日の当たらない湿った部屋が、落ちぶれたヴェネットに当てがわれている。扉の横の柱をこつこつと叩き、返事を待たずにヴァイオレットは部屋へと入った。

「ヴェネット? 金と薬」

 寝台に近づいていくと、物憂い横顔がゆっくりとこちらを向いた。半身を起こし、小説を読んでいたようだ。驚くべきことに、路地裏育ちとは思えないほど、彼女は頭が良い。娼婦の教育のおかげか、それとももともとヴェネットが賢かったのか。魔術書さえ数年は読んでいないヴァイオレットからすれば、信じがたい趣味だ。

「あんたの汚い金はいらないって、いつになればわかってくれるの?」

「いつになってもわからないでしょうね。どうせ、あたしが荒事屋をやってる間だけだもの」

「そうね。あんたが稼ぐよりもっと汚い金を、あの男が持って来ないだけましかしら」

 ヴェネットは冷ややかに笑った。強烈な嫌味に、ヴァイオレットはただ肩をすくめるだけ。

 病みやつれた頬に、往時のかがやきやつやはない。膚も不健康に蒼白いばかりで、なにより重ねた年月のためのしわが深く刻まれていた。白い髪は、ゆるやかに束ねられ、骨と皮ばかりの肩に垂れていた。

 寝台横のテーブルには、眼鏡と書類がきっちりとそろえてあった。ヴァイオレットはそこに薬の包みを投げ出し、先ほど回収したばかりの報酬を袋ごと放った。重い音が下品に響く。ヴェネットがきつく眉を寄せ、掠れた声で「騒々しい」と忌々し気に呟いた。

「具合はどうなの?」

「あんたが来て、より悪くなったわ」

「あらそう。来た甲斐があったわ。ねえヴェネット、あんたの嫌いな赤い雨、きっともうすぐ止むわよ」

「また予言?」

「ええ。夢に見るの」

「魔術師さまだものね」

 ヴェネットは言い、小説の頁を再び開いた。そしてもうこちらを見ない。帰れということだろう。

 ヴァイオレットは暗い部屋を見回し、遠い蠟燭に炎を点した。燐が光ることもない、他愛ない「魔術」で。ヴェネットが嫌うことをわかっていてやった。だがヴァイオレットを既に意識の外に追いやった彼女は、眉ひとつ動かしやしない。

「さようなら、ねえさん。また来るわ」

 にこりと笑って、ヴァイオレットは雨のなかへと帰る。



 《黒つぐみ亭》に、マリアのすがたはなかった。ヴァイオレットは少しがっかりしながら、荒事屋仲間たちのテーブルに混ざる。荒くれ者たちが待っていたとばかりにエールを差し出し、それをひと息に飲み干す。ここらの気のいいやつらが、ヴァイオレットは好きだ。特定の誰かと組むことはしないが、必要があれば仲間の誰とでも仕事をした。

「なんかいい仕事はある?」

「おう。魔術師殺しが二件と、ギャングの抗争、それから継続なら用心棒。どうするよ、あばずれ紫」

「魔術師殺しね。誰か、あたしと組まない?」

「いいぜ!」

「俺も乗った。おまえがいると勝率があがる」

 次々と名乗りがあがる。

 それもそのはずだ。魔術師殺しはヴァイオレットの得意だ。彼女はここでは、魔術師崩れの荒事屋で通っている。ごろつきのなかではほとんど見ない経歴だ。――魔術が使える。

「そんなにいたんじゃ分け前が減るだろうが」

 リーダー格のアインが豪快に笑い、男たちを仕事に振り分けはじめる。ここでは彼は兄貴分で、《黒つぐみ亭》に集まる荒事屋への依頼を優先的に手にしている。この男とは長い付き合いで、ヴァイオレットがどんな素性かを知っている人間だった。他の古株もだいたい悟ってはいるが、喋らせはしない。アインのそのようなところは好ましいと思っていた。

 あすからの仕事をそれぞれ手にして、男たちは安心して酒を呷る。その日暮らしの野良の荒事屋は、いつだって次の瞬間の保証がない。ホーンのほとんどの人間がそうかもしれなかったが。

 盛り上がる男たちとともに酒を呷っていると、アインに目配せをされた。

 さりげなく席を移動し、髭面の大男の隣に座る。

「そろそろじゃないのか」

 何が、とは言われなかったし、聞かなかった。

 進んで考えたくはない問題だ。だが、仕方がない。ヴァイオレットは肩をすくめると、杯に残ったエールを干して、より強い蒸留酒を女将に言いつける。アインは肴を摘まみながら、「残念だ」と言う。

「おまえがいると、いい依頼が増えるんだがな」

「マリアにでも頼めばいいじゃない」

「むちゃくちゃ言うな。ロンの野郎が許すわけないだろう」

「マリアに持ち掛ければいいのよ、直接ね。あいつは最近、ぎりぎりまで自分を追い詰めるのが好きみたいよ」

「例の恋人か?」

「さあ、知らないけど。ときどき見かける」

「おまえも、あの顔だけのクソガキのどこがいいんだか。考えてはみるけどよ」

「……ヴェネットのことを頼んでも?」

「ああ。また戻ってくると約束するんならな」

「もちろん。いつ、荒事屋を離れるかはまだわからないけど……あたしは二十八だし、そろそろなのは確かね」

「ったく。俺より年増のくせしてよく言うぜ」

 アインは分厚い手のひらで髭に覆われた顎を撫でた。

「嫌な雨が続く」

「もう止むわよ」

「そうかよ」

「ええ」

 透明の蒸留酒を、ちろりと舐めた。強烈な酒精のかおりと、灼けつくような水。

 アインに首裏を引き寄せられて、そのままくちづけに雪崩れた。

 男臭い彼の首に腕を回して、酔った頭でヴァイオレットは考えるのを止めた。雨が止む。魔術師たちの抗争が終わらないまま。そして、ヴァイオレットはそう遠からず、オミのもとへと帰る羽目になるだろう。ヴェネットにそれを話さなかったのは、失敗だったろうか。それとも……。

 くちびるを通じた体液の交換が、より深い快楽を求める。躰の叫びを受けるまま、アインとヴァイオレットは酒場の二階へと上がった。

 暗い室内、寝台で、アインの躰に跨りながら、ヴァイオレットは視た。

(ああ、死ぬのね)

 アイン。

 面倒見がよい男だ。この性交もその一環だった。彼が死ぬのだ。なにが視えると言えるわけではない。それは、ヴァイオレットの知るあらゆるものとも似ていない。形容することができない。ただ、死だった。

 快楽に喉をのけぞらせ、ヴァイオレットは空気を求めて大きく喘いだ。交わりの荒々しい波が、穿たれた楔が、生の鮮烈な色合いを伝えると言うのに、感触は空疎だ。悲しいわけではなかったが、ヴァイオレットはまた居場所を失う。あすのない人間が、ホーンのそこかしこにいる。それがいま、ヴァイオレットの下で呻いているアインだった……。



 《指輪地区》と周縁の廃墟釘地区の境界には、貧民街が広がっている。そこで子どもを殺した。

 魔術師協会が拾おうと狙いをつけていた、子どもだ。路地裏育ちの汚い子ども。悪賢く、逃げ足が速い。だが、ここの薄汚れた空気を吸って育ったヴァイオレットには、彼らのような子どもが考えることはおおよそわかるのだ。どこに逃げるべきか。どこで諦めるべきか。

追い詰め、そして殺した。

 貧民街で魔術師の才を見込まれ、拾われる。かつての自分と、ついいましがた手にかけた幼子と、重なる点はひとつとてない。ヴァイオレットは幸運で、彼は不運だった。貧民街に相応しく、ちょうどその平均寿命ほどで死んだのだ。

 教会と野良の魔術師の抗争。可能性の潰しあいにまで及ぶばかばかしい争いごとに、進んで首を突っ込むつもりはない。これは単なる、荒事屋の仕事だ。相方はどこかではぐれてしまった。仕事の報酬は七割をヴァイオレットがもらった。返り血と貧民街の汚臭に塗れた服のまま、ヴァイオレットはヴェネットのもとへと足を運んだ。前回訪れてからそう日は経っていないが、自分がしばらく彼女のもとへと来られなくなることはわかっていたからだ。そのあいだにヴェネットは死ぬかもしれないし、そうなってしまえばヴァイオレットはきっと、後悔するだろうと思った。

「ヴェネット?」

 部屋を覗き込むと、そこには見知った背中と痩せたヴェネットのすがたがあった。彼女は寝台を出てテーブルについており、客のほうは入り口に背を向けていた。……やはり、今日ここへ来たのは正しかった。

「やあ、ヴァイオレット。ちょうどよかったね」

「失せなさい、オミ」

 ヴェネットの声はヴァイオレットへ向けるとき以上に冷やかで、聞いているものを圧迫する。オミは肩を竦めると立ち上がり、ヴァイオレットとすれ違って廊下へ出た。彼とヴァイオレットの目線は同じかヴァイオレットのほうが高いくらいで、真直ぐと合った眸は一瞬だけ蕩けてから逸らされた。

「次から次へと湧いてでる」

「金よ」

「……見苦しい恰好で来ないで。鼻が曲がりそう」

「綺麗にしていたら歓迎会でもしてくれるわけ?」

「受け取ったわ。帰って」

「しばらく来られない」

「あんたみたいに子どもじゃないの。あたしはひとりで死ぬ方がいい」

「あたしは嫌だわ」

「だから、あたしはあんたとは違うと言っているでしょう」

「ヴェネット」

「帰って、ヴァイオレット」

「愛してるわ」

 そう告げて、ヴァイオレットは部屋を出た。薄い扉をやさしく閉じれば、ややしてなにかが壁にぶつかり砕ける音、それから貨幣が床に散らばる音があった。ヴェネットの低い罵りは呪いじみており、ヴァイオレットはそれに耳を傾けていた。

 もとよりヴェネットは癇癪もちだった。だが長ずるにつれて彼女の激しさはなりを潜め、ごく親しい一部の人間だけに露わになるように変化を遂げた。娼婦として売れ始めたころのヴェネットと、ちょうど外へ出ることが許されはじめたヴァイオレット。

 再会のとき、嵐のごとき愛情をその身に受けた。それがなくともヴァイオレットは、ヴェネットに尽くすことを決してやめはしなかったろう。自分がもはや彼女と同じ時間を生きることが叶わないと知ってから、より明確な死の視界を手に入れてから、来るべき終わりに備えてただ彼女に「愛している」と伝えることは、ヴァイオレットの義務だった。

 貧民街での暮らしで、ヴァイオレットを離そうとしなかったヴェネットに報いることは、感情をはなれてこなすべき必要なことだ。ヴェネットがヴァイオレットを憎もうが、愛そうが、関わりはない。

「物思いかい」

「ええ。連れ戻しに?」

「迎えにね。おまえもそろそろ寂しくなってはいなかった?」

「いいえ、まったく。でも、あんたの顏が見られてうれしいわ、オミ。死んでなくてよかった」

「ああ、抗争のことか」

「協会側でも重要人物が結構死んでいたから」

「僕が殺したんだ、数人はね」

「そう」

「おまえは、僕のいないところでさぞ物足りない生活をしていたのだろう」

「そうかもしれない」

 薄茶色の髪と眸、特徴といえば垂れ目くらいだ。地味でどこか気弱そうな風貌の凡夫。中肉中背の、二十代半ばの青年。彼が、高身長のヴァイオレットの首に腕を回す。引き寄せられるままに、ヴァイオレットは顔を寄せ、見下ろし、彼の耳許で囁いた。

「そう。そうね。物足りなかったかもしれないわ。オミ、あんたが満足させてくれるのよね」

 彼はオミ。

 不老不死を夢見る、ヴァイオレットの師だ。

「もちろんだよ、僕のかわいい子。僕だけが、おまえを満足させるだろう」

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