第2話

 俺の予想は見事に外れた。

 あの狸の死骸は未だ撤去はおろか、道路端に寄せらることも無く、道の真ん中で往生していた。何度も車に潰されたらしい。朝見た時よりも死骸の損壊は激しく、もはや狸なのか猫なのか犬なのかの判別すらできない。

「ここ通った奴ら全員なにもしなかったのか。無責任な社会だな!」

 右肩から白く目で見られたような気がするが、気にしないことにしよう。

 狸は俺の右肩からから足元へ滑り落ちて、自らの死骸の元へと駆け寄った。が、あまりの惨状に耐えられなかったのか、すぐに死骸に背を向け、どこへともなく歩き始めた。

「言っとくが、ここに来ようって言ったのはお前の方だからな」

 狸の耳には届いていないらしく、そのまま夢遊を続けた。

 俺は、ここに来るまでに自転車の上で生じた疑問について考え始めた。

 なぜ、こいつは人の言葉が話せるのだろうか?

 言葉を話すこと自体が願いだったというのはまずないだろう。死ぬ間際の願いとしてはあまりに不自然すぎるし、第一それなら転生した後に言葉を話せればいいのであって、転生までの仮の姿の段階で人語を話す必要はない。

 それに引っかかるのは、その「仮の姿」だ。あれは狸のようで、狸でない。人間のもつ、「狸」の寓話的なイメージにすぎず、決して狸にとっての「狸」ではない。

 あの姿は人間と円滑に交流するための、インターフェースの役割をなしているのではなかろうか。

 それならば、あの狸の願い事とは何なのか。

 人間と話す事?

 いや、それはない。あいつからは人間全般にたいする親交心は特に感じられない。それに、たまたま死骸の前を通りがかった俺一人にしか認知できないのもおかしい。

 そもそもなぜこいつは俺の、俺だけの前に現れたんだ?

「わっかんねーな」

 俺は頭を掻き、あたりを見回した。

 狸の奴は既に夢遊をやめて、寂れた古民家の前で静かに佇んでいた。

 俺は、この民家の主を知っている。齢七十だか八十の、偏屈な爺さんだ。

 かつて、俺がずっと幼い頃、ここは俺の心の避難所であった。

 いじめられていたのではない。迫害されていたのだ。そのころの俺は弱者であったから、物理的に逃げるほかが無かった。この家には誰も寄り付かなかったから、恰好の避難場所であった。爺さんは俺を歓待する事も、疎んじる事も無かった。それが妙に心地よくて毎日夕方まで居座ったものだ。

(そういえば焼き餅を食べたのもこの家だったな)

 だが、ここに来ると心が落ち着くと同時に、この孤独な爺さんに己を重ねて、どうしようもない不安にかられることもあった。

 いつしか俺は、他人から自分の心を守るための姑息な手段を覚え、この家に逃げ込むこともなくなった。

 後に聞いた話では、あの周辺の道路開発の話が持ち上がった時、爺さんは決して自分の、先祖伝来の土地を手放そうとはしなかったらしく、その時のゴタゴタがきっかけで息子もあの家には寄り付かなくなったらしい。

 ここの路上で交通事故が起こりやすい要因の一つに、道路が不自然に曲がりくねっていることが挙げられる。常々疑問だったが、あのへそ曲がり爺さんのせいだと言われると妙な説得力があった。

「その家がどうかしたんか?」

 狸は俺の呼びかけに答えるそぶりもない。何かを懸命に思い出そうとしているのか、間抜けな顔に似合わない険しい表情をしている。

「何か、感じるんだな?」

 小さく、しっかりと頷いた狸は、そのまま裏庭の方へ走って行った。

「あ、おい!」

 まあいいだろう。どうせ俺以外には見えないんだから。

 俺は不意に、あることを思い出した。朝の写真に写っていた白い影である。

 俺は、近くの木の棒を拾って、狸の死骸の後ろ足のあたりを探った。そこには、血で汚れた布の包帯が巻き付けられていた。

 その瞬間、すべての疑問が氷解した。

 俺は爺さんの家の、門前へ急いだ。インターホンはない。玄関の扉をを乱暴に叩きつける。

「おい、爺さん、いんだろおい!」

 返事はない。裏庭にまわり、屋内に侵入した。

 俺の不穏な推測は当たった。

 黙ったまま廊下で立ちすくむ狸の視線の先で、爺さんが倒れたまま動かなくなっていたのである。


「僕、思い出したよ」

 爺さんの搬送された病院の待合室で、それまでずっと無言だった狸がようやく口を開いた。

「なんとなくだけどね」

「やっとか」

 俺は待合室の椅子に腰掛けたまま項垂れていた。救急車には初めて乗ったが、あまり心地のよいものではなった。ただでさえ乗り物酔いしやすいのに、この状況なのだから無理もない。

「僕は昨日、いつものようにおじちゃんの家に行こうとしたんだ」

 いつものように、という言葉に昔の自分が重なる。

「そしたら途中で足を怪我しちゃったみたいでね、それをたまたまおじちゃんが見つけてくれたんだ。おじちゃんは僕を家まで連れ帰って足を手当てしてくれた」

 狸はとうとうと語り続ける。俺に話しているというより、自分の記憶を整理している感じである。

「『いま持ってくるからな』‥そう言って家の中に入ったっきり、夜になってもおじちゃんは戻ってこなかった。なにかおかしいと思った僕は、中庭から足を引きずって道路に出たんだ。…そして」

「轢かれたんだな」

 こくん、と頷く。

「だからお前が死ぬ直前に願っていたのは、『爺さんの助けを呼びたい』…そうだろ?」

 狸はまた小さく頷いた。

「『爺さんを助けて欲しい』じゃなくて『助けを呼びたい』ってところがミソだな。おかげでとんだ手間をかけさせやがった」

「悪かったね」

 狸の口調に怒気はない。

 二人はしばし沈黙した。

「それにしてもまさか骨折だったとはな、人騒がせな爺さんだ」

 爺さんの症状が心臓発作でくも膜下出血でもなく、骨折と熱中症であると救急車内で言われた時は正直あっけにとられた。階段を踏み外して腰の骨を折り、身動きが取れないまま丸一日放置され脱水症状を引き起こしていたのだ。

「一人暮らしの高齢者の方にはよくあることなんですよ。最悪の場合誰にも発見されないまま…なんてこともありますからね。お爺ちゃんは運がいい」

 救急医はそう言って苦笑いしていた。

「まあでも、おかげで大事にならずに済んだんだからいいじゃない」

 狸は諭すように言った。お前の方は死んでるじゃねぇか!と大声で突っ込みたい。

「そうだな。あとで爺さんの息子か何かからいくら報酬に貰えるか楽しみだぜ」

いや、そもそも病院に来るのか…?

「よく言うよ。電話した時はあんなにどもってたくせに」

「いや、あれはだな、初めての119番でちょっと緊張しただけだ!」

「携帯もまともに握れてなかったしね」

「うるせえ」

 狸は、なにやらとても穏やかな笑顔でこちらを眺めている。人が慌てふためくのを見てそんなに楽しいか!

「それで、お前の二つ目の願いはどうするんだよ」

 俺は話題をすり替えた。

「二つ目?」

「ああそうだよ。人間の言葉はあくまで『助けを呼ぶ』っていう目的の手段であって、お前の願いではないだろ」

「あ、そっか」

 案外素直に納得したようだ。

「何だろう…?」

「それは俺にはわからん」

 俺はひと呼吸置き、狸の目を直視した。相変わらずのアホのような目に、固い意思を感じた。

「だがな、今のお前のやりたいことをやってみれば、案外正解はすぐにやってくるんじゃないか」

「…そうかな」


「お爺ちゃん、意識が戻られましたよ」

看護婦がやってきた。

「あ、わざわざどうも」

 いえいえ、と会釈した看護婦は声のトーンを下げて、

「おっしゃる通りでしたね。息子さんの連絡先をお聞きしても、知らない、教えないの一点張りで…入院について色々と説明しなければならないのですが」

「それはご愁傷様ですね」

 俺はあくまで自分とは無関係であるという体をとった。

 すると看護婦は上目遣いのような格好で

「その…できればですね、聞き出していただけないかと…」

 看護婦の年は20代前半といった感じである。なるほど、爺さんは昔から若い女を毛嫌いしていたから、爺さんからみて小娘同然のこの女にはさぞかし荷が重いだろう。

 だが、職務を肩代わりしてやる義理は無い。断ろうと口を開くと、狸が袖をぐっぐっぐっと引っ張った。

 (人と話すときは黙ってろよ怪しまれんだろうが!)

 俺の念が通じているのかいないのか、ぐっぐっぐっぐっと引っ張りまくる。爺さんに会いたい、ということだろうか?

「あ、あの…」

 看護婦が訝しる。

 仕方がない、最後までこの狸に付き合ってやるか…

「分かりました、面会しましょう。ただ私にも聞き出せるのか知れたことじゃありませんけどね」


 俺はゆっくりと病室の扉を開け、中の様子を伺った。中の電気はついていない。もうすっかり赤く染まった陽の光がだけが、爺さんを弱く照らしている。そのせいなのだろうか、なんだか爺さんがとても小さく見えた、

「正坊か」

 爺さんが外を眺めながら尋ねた。人から下の名前で呼ばれたのはいつ以来だろう。

「正坊じゃない、正信だ」

 ふん、と爺さんは鼻息をたて、

「図体も態度もでかくなりよって…」

「当然だろうが、こちとらもう17だ」

 そうか、といって爺さんは押し黙った。17ぐらいで生意気ぶるでねぇ!という怒号を予測していた俺には、とんだ拍子抜けである。

 それどころではない。

「すまねえな…こんな迷惑かけて」

 などど呟くものだから調子が狂って仕方がない。

 俺が何と返せばいいのか分からずにいると、肩の後ろに隠れていた狸がひょいと姿を見せ爺さんのもとへと駆け寄った。

「なんでぇ、こっちの正坊も来てたんか」

 狸は目を丸くして声を張り上げた。

「爺ちゃん、僕が見えるの!?」

 しかし爺さんが狸の質問に答える気配は無い。

「あれ、聞こえないのかな?」

 姿は見えるが、声は聞こえないらしい。それに一目であの狸だと判別したあたり、おそらく俺とは見え方そのものが違うのだろう。いずれにしても、二つ目の願い事もこの爺さんに関係するのは間違いない。

「天下の病院様にケダモノ連れてくるたぁ中々の悪ガキになったな」

 混乱する狸をよそに、爺さんは俺に語りかける。

「まあ、いろいろあってな…こいつの名前、正坊なのか?」

 爺さんは目を細め、ゆっくりと狸を撫で始めた。

「…勝手に呼んどるだけだ。お前によう似てるからな」

 おかしい。

 俺の知ってる爺さんとは明らかに違う。狸を愛でるその姿は好々爺然としていて、とても見てはいられない。狸の方はというと、あたかもそれが彼の日常であったかのように、悠々と爺さんに甘えていた。

「…変わったな」

 俺の呟きを、爺さんはただ黙って流した。

「いつからその狸の面倒みてた」

「…お前が家に来なくなって、二、三年ぐらいかね、近所で狸の親子を見つけた。親一匹子一匹だったから、おや、と思って覗いて見たら、親の方はもう死んでた。こいつは何があったのかわからなかったんだろうな、一人で親の周りをうろうろしてたよ」

「それで爺さんが保護したってのか?」

 あの頑固で、偏屈で、子供たちから鬼糞じじいとまで呼ばれたこの爺さんが、小動物に情が湧くなどとはにわかに信じ難い。

「もちろん最初は何もしないつもりだったよ。だがよ、ずーっと様子見てるとな、こいつは一人なんだよ。他の親も、兄弟も、仲間も現れる気配がねえ。腹空かしてあちこち動き回っては親の所戻るの繰り返しでよ、もう見てらんねえんだわ。だからよ、ちょいと手に持ってた栗をコロコロコロって近くに転がしてやったら、まあ美味しそうにかぶりつくんんだわ」

「むかし野良に餌付けすなとか酸っぱく言ってたのはどこのどいつだよ」

「…確かに、どうかしてるな」

 弱く笑う。

「だがそれから何週間後だったか、家の前に栗が落ちててよ、何だ?と思って周りをみたら、狸がこっちじっと見とんのよ。この前の礼だ、って顔でな。それが妙に嬉しくて、また栗をあいつに転がしてやったわ」

 爺さんの語りに、膝の上の狸はウンウンと語り手には聞こえない相槌を打っている。…今更だがなんとも奇妙な光景だ。

「それからだな、俺とこいつは、互いに栗を交換する間柄になった。…そのうちこいつも中庭に上がりこんで来て俺が茶をすする横で日向ぼっこをし始めたりしてな」

「そしてそいつを正坊だとか呼ぶようになったのか」

「ああ…だいたいその頃からかねぇ。おかしなもんだよ。がきの頃は狸なんざ平気で煮たり焼いたりしたもんだが」

 俺はただ、唖然とするほかなかった。

「勝手だな」

 爺さんは黙っている。

「勝手だよ。これまで散々偏屈で人を追い出して、自分から一人になったくせに、今じゃ狸なんかと仲良しこよしってか。しかもそいつに人の名前を勝手につけてよ」

 狸は不思議そうに、どうしたんだろう?といった面持ちでいる。

「…返す言葉もないな」

 爺さんがそう言うや否や、俺は思い切り立ち上がってしまった。

「…返せよ。言葉を返せよ!どんな屁理屈でもいい、どんな偏屈でもいい、憎ったらしい言葉で言い返せよ!」

 俺は我に戻って、座り直した。

「じゃなきゃ、見てて辛くなるじゃねぇかよ…」

 しかし、爺さんは反論しなかった。押し黙る俺と爺さんの間で、狸がオロオロするばかりである。

「いいこと教えてやるよ」

 俺はこれまであえて言わずにおいた事実を伝えることにした。

「そいつ、もう死んでるぞ」

「…そうなのか」

「そうだよ。お前を助けようとして轢かれたんだ」

 表情は、今日の降水確率が50%だと言われた時のような反応の薄さである。だが、狸を撫でる手の震えは隠せていない。

「なんで爺ちゃんをいじめるんだよ!僕が死んだのは事故だよ、爺ちゃんのせいじゃないよ!」

 爺さんに聞こえていないのをいいことにして、俺は狸を無視した。

「こいつには、まだこの世に未練でもあるのか?」

「まあ、そんなところだな」

 …女神だなんだと話しても仕方がないだろうな。

 俺は懐に忍ばせたものを取り出した。栗である。

「え、なんで持ってるの!?」

「お前それをどうした!?」

 狸と爺さんが同時に声を上げた。なんだかその様子が可笑しくて吹き出しそうになってしまう。

「あんたが倒れたまんま、ずっと手に握ってた栗だよ」

 俺は爺さんに栗を投げ渡した。

「なんでこんなもの後生大事に握ってたのか.見つけた時は不思議で仕方なかったがな」

「まさか…」

 狸は俺の意図を理解したようだ。

 狸は爺さんをみる。爺さんは狸をみる。栗をコロコロコロと狸に向けて転がした。そして狸は、その栗を拾い上げ、ボリボリと食べ始めた。食べ進むうちに、体の輪郭がみるみる薄くなっていく。

「おいしい、おいしいよ爺ちゃん」

 狸の涙でくぐもったような声は無論爺さんには届いてはいない。だが、爺さんの死んだ魚のような瞳もじわじわと水で溢れてきた。

「こんなもので成仏できるたぁ、やはり安いやつだ」

 震え声で貶す爺さんにだって分かっているはずだ。狸の願いが、栗そのものではないことぐらいは。

「ありがとう、ありがとう、ありがとう…」

 爺さんには決して届かない謝礼の言葉を繰り返しながら、狸はボリボリと栗を食べ進めた。最後の一口を食べ終え、もう見えるか見えないかぐらいになった狸は俺の方を振り返り、ただ一言、ありがとう、と囁き、そして完全に消え去ったのであった。

「逝ったか」

「ああ、逝ったな」

 俺と爺さんは、もうすっかり暗くなった病室のなかでただ二人、何も言わずに佇んでいた。


 息子の連絡先を聞きそびれているのは言うまでもない。


 それから数週間後、爺さんの息子から電話がかかってきた。なんと、爺さんとの復縁を果たしたのだそうだ。今度の入院のことがよほどこたえたらしい。病室で一人、弱気に俯く爺さんを見て、お互いに意地を張っている場合ではないと思ったらしい。

「まあでもたまに偏屈なところは相変わらずで困ってますよ。あ、でも、孫に対してはすごく甘いんです。それはそれで困ってるんですけどね…」

 電話口の声は困っていると言いつつも嬉しそうだ。

「本当に、病院に電話して下さってありがとうございました」

「あ、いえ…ただその、嫌な予感がしたものですから」

 さすがに狸のおかげで分かったとは言えない。

「そうですか。不思議なこともあるんですね」

 それじゃあ失礼します、と言って息子は電話を切った。

 (なんだ…礼の品は無いのか)

 俺は携帯の画像フォルダを開き、またあの狸の画像を開いた。結局あれから削除できずにいるのだ。

 (それにしても二つ目の願いが「栗が欲しい」だとか、ホントにアホなやつだな)

 俺は携帯を閉じ、呟いた。

「本当にアホなやつだよ」

 その瞬間、視界が霞んで見えなくなった。なぜかは俺にもわからない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

たぬきくんの願いごと わしを @washiwo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る