1-7 俺と彼女の昔話

一通り話を終えたあと、神父から遣いの者を寄こすと言われたため、俺はアテナを探して研究所を出た。彼女は研究所のすぐ隣の広場に立っていた。道路を挟んだ広場の向かいにはパン屋があり、微かに焼きたてパンの香ばしい香りがする。遠くに行っていなかったことに安心した俺は、ゆっくりとアテナに歩み寄った。


「どうしたんだ、あんなに怒るなんて」

「……別に」

「そっか。まあ、座れよ」


俺は近くのベンチに腰掛け、隣をトントンと軽く叩いた。彼女はそんな気分ではないのだろうか、こちらに背を向けたまま立ち尽くしている。これでは話が進まない。アプローチの仕方を変えるとしよう。


「あー、でもこの世界の物には触れないんだっけ。参ったな、じゃあ――」


言い終わる前にアテナは俺の隣に座った。確かに座れと言ったのは俺だが、先ほどの反応から座ってはくれないと思っていたため、少し驚いた。


「ううん、平気。床や壁、椅子なんかの認識は主に依存するの。すり抜けようと思えばすり抜けられるけどね。だからここに来るとき、あなたと一緒に電車に乗れたのよ」

「ああ、そうか。言われてみればそうだな。気づかなかったよ」


その後、お互い何も言わないまま数分が過ぎた。何度か話題を振ろうとしたが、思いつくのは先ほどの神父とのことばかりで、とても言い出せなかった。そんな俺を見かねたのだろうか、彼女の方から話を振ってきた。


「あの聖職者の話のことでしょ」

「えっ! あ、ああ……。俺、何言ってるのかさっぱりでさ、なんでお前があんなに怒ったのかとかも……」

「あなたは私の主よ。あまり話したい事じゃないけど、話せと言われれば全部話すわ。あなたに聞く覚悟があるならね」

「……わかった。話してくれないか」

「あら、意外ね。てっきり『無理して話すことないぞ』って言ってくれるかと思ったけど」

「そうだな。いつもならそう言うかもしれない。でも今回は、なんというか、聞いておきたい、聞かなきゃいけない気がするんだよな。うまく言えないけど……。お前が泣いたり、怒ったりする理由に俺が関わっているなら、聞くよ」

「……そう。かっこいいわね、あなた」


不意にそんなことを言われてどきっとした。咳ばらいをし、一度呼吸を整えてから、俺は話を続けた。


「まずは、そうだな……。昨晩俺とした話を覚えてるか? あの神父も言ってたけど……。お前は2か月前の、俺が巻き込まれたあの事件は自分のせいだって言ってた。あれはどういうことなんだ?」

「別にあの事件に限ったことじゃないわ。あなたは私のせいで、何度も何度も危険な目に遭ってる。覚えてないんじゃ仕方ないけどね」

「『それ以前の災厄』ってやつか」

「そういうこと。戦を司る女神、戦神アテナは戦を呼び寄せる。私の周りでは、神だろうと人だろうと、常に争いが絶えない。その争いに一番に巻き込まれるのは、いつもいつも主であるあなただった」

「だから俺から離れようとしてたってわけか。あの神父、以前の方は『主だけは逃がせた』とも言ってたな。となると、逃がせなかった人、つまり、犠牲者もいるのか」

「…………」

「その犠牲者って……」

「…………あなたの、ご両親」


アテナは力なく答えた。


「……ちょっと席を外す。ここで待っててくれ」

「…………」


今にも泣きだしそうな彼女を一人残して、俺はベンチを離れた。歩きながら頭の中を整理していると、いろいろと話が繋がった。なるほどそれで俺は一人暮らしをしていたというわけだ。入院中や退院した後にも誰一人訪ねて来なかったのも納得がいった。


しばらく時間をおいて、俺は彼女のいるベンチに戻った。彼女は俯いたまま座っていたが、俺が戻ったのが気配で分かったのだろう、再び話を切り出した。


「今の私はただの疫病神。憑いているだけであなたを不幸にしてしまう。だから、これを機に私のことなんて忘れて、どこか静かで平和なところに――」


顔を上げた彼女は突然言葉を失った。俺にはその理由がわかる。なぜなら、



俺が目の前に立っていたからだ。両手にメロンパンを一つずつ持って。



「何……してるの?」

「んー、なんかずっといい匂いがしてたからさ。ちょうどお昼時だし、あそこのパン屋で買ってきた」

「そういうことじゃないでしょ! 真面目な話してるのが分からなかったの!?」

「俺も、大真面目だよ」

「もう、意味分かんないよ……。ていうか、こんなときに二つも食べるわけ? 呆れるわ……」

「ばーか」


俺はメロンパンをもったままの右手で、アテナの頭を小突いてやった。ベンチに座ったままのアテナが上目遣いでこちらを見ている。


「一つはお前のだよ。今ので実体化したんだから、食えるだろ?」

「……んもう」


彼女は、ものを食べることなんてもうないと思ってたわ、と小声でつぶやき、俺からメロンパンを受け取ると、ずっとそれを見つめていた。俺は再び彼女の隣に腰かけた。焼きたてのパンの香りに包まれたまま、俺はもう一度話を始めた。


「俺は、今までにどんな不幸があったかは覚えてない。もしかしたら、死にそうになったことも何回もあるのかもしれないけどさ、そんなのはもういいんだ。両親のこともそう。お前は責任感じてるのかもしれないけど、家族と過ごした記憶がないからかな、そんなに悲しいとは思わないんだ。そんなこと言ったら、父さん母さん怒るかもしれないけど」

「でも、私は――」

「大事なのは、そんだけ俺が危険にさらされても、見捨てることなく俺を守ってくれたこと。そうだろ?」

「だってそれは、私が巻き込んだも同然だし、2か月前のあの時は、守れなかったし……」

「でも俺は生きてる。死んでもおかしくなかったのに、俺はちゃんと生きてる。これは守ったことにならないか?」


アテナは相変わらずメロンパンを見つめている。俺が生きているだけでは守れたことにはならないと思っているのだろう。


違う、そうじゃない。俺が言いたいのはそういうことじゃない。


「瓦礫に埋もれて意識が朦朧としていたとき、俺はここで死ぬんだって諦めてたとき、何度も何度も俺に謝る声が聞こえた。ごめんなさい、ごめんなさいって、泣きながらずっと謝ってた。俺のせいで悲しんでいる人がいる、やっぱりここで死んではいけない。その声のおかげで、俺はそう思えたんだ。俺はその声に守られたんだ。今なら分かる。あれ、お前だったんだろ?」

「…………」

「食えよ。メロンパンってんだ。きっと気に入る」


俺はアテナの頭を撫でた。アテナは言われるがまま、メロンパンを一口かじった。すると次の瞬間には、彼女の目からは涙が溢れ、こぼれだした。顔をくしゃくしゃにしながらも、彼女は何も言わずただただメロンパンをほおばった。そんな彼女にそっと微笑んでみせて、俺もメロンパンを一口食べた。


外はサクサク、中はふんわり。少し冷めてしまったけれど、最高に美味しいメロンパンだった。

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