第5話初日

「もう帰ることはないと思っていたがな……」


俺は御手洗ジムに住み込んでプロを目指すことにした。

自宅にはかえってきたくはなかったが仕方がない。

諸々必要な物を揃えなければ。


「あらまあ」


郵便ポストが可哀想なほどパンパンになっている。

ふたを開けるとドサドサと色々地面に落ちた。


ビニール袋を取り出してそれらを突っ込んでいく。

こんなもん全部ゴミだ。


「……?」


俺の財布と……おそらく百万円単位で束ねられた金。

手紙が添えられていた。


『少し返す。頑張って生きてね』


……にこか。


カバンの中には財布も入れておいたから中の免許証を頼りにここにきたか。


一部返金してくれるなんて意外と優しいじゃないか。


助かった。


とりあえず入会金は払える。

俺は札束を尻ポケットに突っ込んだ。





……


次の日の朝5時。


俺は公園にいた。


「覚えは悪くないにゃー」


「ハッ!……はぁ……はあ……」


朝3時から2時間みっ……ちりパンチの基本を教わったので既に俺はヘトヘトだった。


「それなりに形になってきたみゃ。後はそれを何百時間。何百日飽きずに続けられるかだにー」


「……」


もう喋れねぇ。


「あとはボクシングの基本はとにかく走る!1に走る!2に走る!」 



御手洗のじいさんは公園からぼやけて見える山を指差した。


「あの山の入口までダッシュだにー。一本道だから10キロぐらい。5キロおきに3分×5回のシャドーをやること。いってらっさいみゃー。ちゃんと記念スタンプも押してくるにゃー」  


じいさんは俺のスウェットのポケットに千円札をねじ込んで背中を押した。


この千円で飲み物と食い物をまかなえというのか?

ジムに帰れるのは何時間後だ?

俺は背筋が寒くなった。


「3ヶ月」


「……なにが?」


「プロになるまでの最短ルート。恐らく黒木輝貴は次のプロテストに合格して最短ルートでどんどん上り詰めてくだろーにゃ。この3ヶ月後のテストにうからにゃーおみゃーは一生おいつけんだね?」


「……そうか」


「黒木輝貴が世界に目を向けているなら……おみゃーのやろうとしてることは全部無駄にゃ。それでもやるら?地獄やよ?」


輝貴が回り道せず世界を目指すとした場合……あいつと戦うには俺も世界を目指さなきゃならんのか。


……それはさすがに無理だ。


あいつが回り道するのを祈ってなんとか国内戦で当たるのを祈る。


始まる前からギャンブルかよ。


それでもやると決めた。


「いってくる」


俺は山という地獄に向かって走り出した。





……



まさか数百メートルで脚が痛み出すとは思わなかった。

ふくらはぎと足の裏がたまらなく痛い。


山までまだまだ遠い。





……


登山道まで五キロという看板の近くにあるコンビニに『早歩き』でなんとかたどり着いた。


俺は飲み物とチョコレートを買い、言われたとおりシャドーをした。

拳を突き出すだけじゃない、考えてやるシャドーは頭も疲れるとわかった。




……





昼ごろやっと山道入口についた。

シャドーを終え、限界をこえて失神しそうになった俺は木の棒を杖代わりにしてなんとか帰ることができた。


結局走った時間より休んだ時間のが多かったのではなかろうか?

出発地点の公園のベンチで本格的に昼寝までしてしまったのでジムにつくころには夕方になっていた。



……


ジムにいくまでの階段が憎い。


なんでエレベーターがないんだよ?


ジムに入ると数人のエクササイズコースのおばさんたちがトレーナーの箱崎とボクササイズを楽しんでいた。


「おお!おかえり!あなたが黒木さん?あの芦屋輝貴の元お父さんっていうじゃないですかー!」


箱崎は俺より年下の28才。


暑苦しい奴だ。


二年前まで日本ランカー。


こいつは年下で引退しているのに30の俺はこれからプロを目指している。

我ながら無謀で笑けてくる。


適当に箱崎との会話を切り上げてじいさんのとこまでいった。


「おかえりー。おもったよか早かったみゃー」


「……」


……約10時間よりもっとかかると思われていたのか。


「そんな杖までもって~」


「……うっ!」


しまった。


杖を捨ててくるのを忘れてた。


「体かなり温まったずら?じゃあスパーリングすんべな?」


「……はぁ?」


初日から?いくらなんでもジョークだろう。


「ヘッドギアつければ死なんだね。ほらほら」


リングの上では坊主頭の素朴な顔をした男がすでにシャドーをしていた。


「今のウチの唯一のプロボクサーだね。小田。日本ランク8位。その辺をいったりきたり」


「……階級は?」


「ライト級」


「……やるか」


ライト級は輝貴の階級。


つまり俺が目指す場所だ。


その日本ランカーと立ち会えるなんてラッキーだと思おう。


「……準備してくれ」


「みゃー」




……



「やめたほうがいいす。初日で。ボロボロじゃないすか」


リング上で向かい合う小田は気弱なガキにしかみえない。


「よろしく頼む」


「……痛かったら無理しないで倒れてくださいね。そしたら手をださないす」


「……あ?ぶっ殺すぞ?」


カチンときた。


「……ぶっ殺すとか言う人強い人いないす」


「例外を見せてやる」


グローブを合わせてスパーリングが始まった。






……




「……けはっ!」


「……あ。大丈夫すか?」


やっぱり漫画や天才のようにはいかない。


鰻を手掴み・ヒラヒラ落ちるティッシュを箸で掴む。


そんなイメージだ。


俺の攻撃はまるで当たらないのに小田の軽く叩くようなパンチは手品のように俺のガードをすり抜けて面白いように当たる。


痛い痛い痛い痛い

これが殴られる痛みか!?


俺はこの痛みと付き合っていけるだろうか?



「会長ぉ~もうやめたほうがいいす~弱いものイジメになるす……あ」


悪気はなかったのだろうが弱いものイジメというワードが俺をカッとさせた。


野球のピッチャーのように振りかぶって思い切り拳を突き出した。


「調子のんなっ!しねっ!……よぅ……」


「あ~あ~ごめんなさいすぅ~」


何のパンチがどこに当たったかもわからないまま俺は意識を失った。


失神というのは極上の睡眠だと思った。


……気持ちよすぎる。

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