Ⅰ-6 天才時計師

 どこの家からもいい匂いが漂ってくるものだから、フアンは歩くたびにお腹がすいていった。


 ほとんどの家では外に炊事場があるようで、簡素な屋根の下にかまどが設置されている。そのそばに裸同然のインディオ女性たちがしゃがみこんでいた。食事を作るのは彼女たちの仕事なのだろう。


 椰子の木のそばに一軒の丸太小屋がひっそりとたたずんでいた。家の背後は山に繋がっている。ここが村の端、最も奥にある家なのだ。


 マルティンが戸を叩いてフェルナンドを呼んだ。現れた人物を見てフアンは声を上げた。


「あ! さっきの!」


 不愉快そうな視線がフアンに突き刺さる。海岸で「帰れ」と言ってきたあの男だった。


「なんだ、もう会ってたんですね。ああそれで意気投合したってことですか。なるほどなるほど、いやあ、フェルナンドさんが急にフアンさんを預かりたいなんて言ってくるからどういう風の吹き回しかと……いえ、失礼。それじゃ」


 マルティンはいろいろと納得したらしく、にこやかな笑顔で立ち去った。

 いや意気投合なんてしてないし、と言いかけたフアンだったが、自分を睨みつける鋭い眼光がどうにも気になってフェルナンドから視線をそらせなかった。


「さっきはどうも」


 ぶっきらぼうにフアンは声をかけてみた。


「帰れって言ったかと思えば、泊まれ、ですか。この島に関わるな、ってどういう意味ですか」


 質問を口にしながら、男を無遠慮に観察した。

 ボサボサの髪と無精髭、お世辞にも洗練されているとは言えない服装、何が気に入らないのかフアンを睨みつけている目は血走り、頬はこけて顔色が悪い。もしかして病人なんじゃないかとフアンは感じた。


 じりじりと照りつける太陽の下でふたりは睨み合う。先に音を上げたのはフアンのお腹だった。空腹を訴えて鳴いたのだ。とっさに両手で押さえて愛想笑いを浮かべた。


 フェルナンドは顔色を変えなかったが、顎をしゃくって家の中を示した。


「入れ。飯にする」

「え、あ、どうも」

「勝手に座って待て」

「はい……」


 言いながらフェルナンドは中に入らずに家の横へ消えた。


 拍子抜けした。嫌われているのか歓迎されているのか、いまいち読めない。なにより弱みを見せてしまったみたいで恥ずかしい。


 フアンはすごすごと扉の奥に足を踏み入れた。明るすぎる外とは違って薄暗く、しばらくは目がちかちかした。


 殺風景な部屋だった。木製の食卓と椅子があるだけだ。座わっていろと言われたが、椅子はひとつしかない。どことなくフアンはためらってしまい、小窓に近寄った。

 フェルナンドが見えた。かまどから葉っぱで包んだ何かを引きずり出している。フアンのお腹が反応して催促するように鳴いた。


 部屋の奥にも扉がふたつあった。ひとつは壁の色に馴染んでいたが、それに比べるともうひとつの扉はまだ新しい。


 好奇心の赴くまま開けてみたフアンは、息をのんで目を輝かせた。


「ここで作ってるんだ!」


 小さな部屋だった。けれど殺風景な居間と違って様々な物が詰めこまれている。まず目につくのは中央の大きな机だ。その机を占領しているのは、作りかけの懐中時計と設計図の束だった。


「すげえ! 本当に作ってるんだ、懐中時計!」


 どう組み立てるのかよくわからない、こまごまとした部品が散らばっている。金属の部品もあるが、ほとんどが木製だった。これがあの不思議な時計――持ち主が持つと動かない時計になるのだろうか。


 床の隅には箱形の振り子時計が置かれていた。大きさはフアンの腰ぐらいまである。歯車の構造が剥き出しになっていて、長針と短針がついていた。文字盤がないのでおおよそだが、時刻は十時を少し過ぎたあたりだった。


 文字盤がないだけでなく何の覆いもないので、針や歯車にそのまま触ることができてしまう。つい手が伸びかけたが、もしも壊したら直せない。


 フアンの手は歯車の手前でさまよい、結局その下にある振り子に触れた。木の箱の中におもりが入っているようだ。

 片手に力をこめて、左右に揺らしてみた。億劫そうに動いたが、すぐに止まってしまった。


「そっか、ゼンマイ」


 フアンは納得してネジの場所を確認した。文字盤がついていれば文字盤に開いている穴がそれだとわかるのだが、構造が剥き出しなのでどれが何やらよくわからない。


「うーん」とじっくり眺めたフアンは、ここかなと見当をつけた。けれど鍵がない。鍵がなければゼンマイを巻けない。


 フアンは鍵を探して工房を見渡した。戸棚や道具入れがあるが、勝手にいじるのは気が引ける。とりあえず目に見えるところに鍵はないことがわかった。


 居間の方で足音がした。慌ててフアンは工房を飛び出す。フェルナンドが腕を組んで待ち構えていた。


「座って待ってろと言ったはずだが」

「すみません」


 確かにその通りなので神妙に目線を下げた。そんなフアンをフェルナンドはじっと睨みつける。文句が飛んでくるかと思いきや、フェルナンドは無言のままフアンを体でどかして工房に入り、椅子を食卓の前まで持ってきて、さっさと席に着いた。


 食卓から湯気が立ち上っている。漂ってくる香りに食欲を刺激されてフアンも遠慮がちに席に着いた。


 フアンはまずグラスを傾けて喉を潤した。中身は黄色い果実の飲み物で、酸味がきいている。渇いた喉にゴクゴクと流しこんで、あっという間に半分以上も飲んでしまった。

 いよいよ葉っぱの包みを解いた。さっきから芋のような香りがしているが、果たして中に入っていたのは、蒸した芋だった。それだけだった。


 フアンはがっかりした。これでは空腹は満たされない。とはいえ愚痴を言って取り上げられても困るので、ありがたく食べることにした。


 熱々のほくほく、何の味付けもされていないが、甘みがあっておいしい芋だ。

 ふと視線を感じて顔を上げると、フェルナンドが観察するようにフアンを見ていた。


「……なんすか」

「うまいか」

「まあまあっすね」

「そうか」


 フェルナンドはグラスに口をつけた。芋はほとんど食べ終わっているようだ。


「なるべく早く島を出て行け」

「なんでですか」

「おまえは……よそ者だ」


 フェルナンドは少し言い淀んだようだった。

 芋を咀嚼しながらフアンはフェルナンドを見据える。


「奥の部屋で作ってるんすね、時計。あれってどういう仕掛け? 俺が持つと動いて、持ち主に返すと動かなかったんだけど」

「知らん」

「あの時計って正確?」

「そのはずだ」

「振り子時計も、懐中時計も?」

「ああそうだ。分単位で時間を計れる。ちゃんとゼンマイを定期的に巻き続ければ狂わずに動く。私が作った時計だ」


 ハハッ、とフアンは笑った。


「それが本当ならあんたは天才だ」


 だけど、とフアンはフェルナンドを注意深く見つめた。


「いくら天才でも嵐で漂流した船乗りを無情に追い出す権利はない、と思うけど? 司令官様だって俺の滞在を認めてくれた」

「司令官に会ったのか」

「会ったよ」

「どんな話をした」

「イスパニョーラに向かいますって話と、スサナ・ガルシアについて」


 フェルナンドが顔色を変えた。何かをひどく恐れるような表情だった。その変化をフアンは見逃さなかった。


「あんたは知ってる?」


 フアンは懐中時計を取り出した。フェルナンドの目がそれを捉え、苦しそうに細められる。


「これ、親父から預かったんだ。スサナ・ガルシアに――俺の母親に返してやってくれって」


 フェルナンドの顔に奇妙な表情が浮かんだ。

 フアンを見つめる目は驚きに見開かれ、けれど驚きだけではなく、瞳の奥には恐怖が滲んでいる。懐かしさや親しさといったものが痩せこけた頬に血を通わせる一方で、薄い唇を震わせたのは憎悪のような、複雑な感情の波が一瞬にしてフェルナンドの顔に表れ、固まった。


 フェルナンドが、ぽつんとつぶやいた。


「リカルドだったのか」


 その言葉を聞いてフアンは確信した。この男は謎を解く鍵を握っている。


「親父を知ってるんだ?」


 フアンはフェルナンドの目をしっかりと見つめ返した。


「親父の名前、言ってないよね。そう、リカルドだよ。なんで知ってんの? 親父がここに来たのは二十年前。あんた何歳? 俺とそう変わんないように見えるけど、ディマスさんも知らなかったのに、なんであんたは知ってんの? ひょっとしてあんたはここで生まれ育った人?」


 入植地で生まれ育ったスペイン人というのも、今では珍しくない。フェルナンドがここで生まれ育ったのなら、二十年前に父と会っているのかもしれなかった。


 もしくはまだ子供だっただろうから、リカルドという船乗りのことを周囲の大人たちから聞いて育ったのかもしれない。もちろんそれは、この島の入植が二十年以上前から始まっていることが前提だ。


 けれど、もしそうだとしたら、いったいどうやって時計作りの技術を習得したのだろう。


「教えてほしいんだ。二十年前、親父はこの島に来たんだよね? 母さんがいたんだよね? この時計、その時からあったんだよね? これはあんたが作ったものじゃなくて、あんたの師匠みたいな人が作ったのかな。この島の入植は七年前からだって言ってる人がいたんだけど、それは勘違い? それとも、カンティガ島ってふたつあるの?」


 フアンの顔をしばらく無言で眺めたあと、フェルナンドは重々しく溜め息をついた。薄い唇からしわがれた声がこぼれる。


「司令官は、スサナがいない理由を知らない。だからスサナがいないことを隠している。島に到着して三日で行方不明になった娘を、最初は探していた。それはもうしつこいくらいに。私は嫌気がさして、次の一年、スサナが海で泳いでいたのを見たと伝えた。だから恐らく沈んでしまったのだろうということになって、司令官は私に口封じをした。皆に黙っていろと。あれは外聞を気にする男だ。そして娘の死を認めようとしない」

「死んだ……」


 少なからずショックを受けたフアンは、すぐに眉をひそめた。


「三日で行方不明? でも親父はここに来たんでしょ? 一年近くいたって前に言ってたんだけど」


 フェルナンドは答えない。

「え、待って」とフアンは身を乗り出した。今のフェルナンドの言葉には、気になることがもうひとつあった。


「次の一年って?」


 フェルナンドは首を横に振った。「何でもない」と小声で答える。


「待って待って。ちゃんと教えて。じゃあ、母さんは何年前に死んじゃったの?」

「スサナはいない」


 フェルナンドが血走った目でフアンを睨んだ。


「スサナは消えた。おまえを産んでから消えた。リカルドがおまえを連れ去った。これ以上言えることはない」

「連れ去った?」


 フアンの言葉を遮るようにフェルナンドは席を立った。フアンを見下ろして、苛立った様子で言い放つ。


「おまえは自分の国に帰れ。スサナは死んだと父親に言えばいい。これ以上は何も聞くな。話したくない」

 

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