はじまってもいないのに

藤村 綾

はじまってもいないのに

《好きになってしまいました。もう一度だけあってください》

 写真を撮られた後、冷静な判断を下し、意を決してシンさんにLINEを送った。至極シンプルな文章。スタンプも絵文字もない。ただの文字。けれど、たったそれだけの文字を打つのにひどく時間を要した。書いては消し、書いては消しての繰り返しで、結局送ってしまった。

 好きになった。好きになる。その判断を下した理由はだだひとつ。

 また純粋に彼に会いたかったのだ。写真を撮影されることより、抱かれたかったのだ。

 彼の撮る写真に惚れた。のもある。写真に惚れたんじゃね? などと言われたら否定も肯定もできかねる。けれど、それは、シンさんが撮るから惚れた訳であって、写真に惚れた訳ではない。

 ほどなくしての返信メールを読み、あたしは、ひっそりと涙を浮かべた。

《ありがとう。けれど、もちろん付き合えないし、自分が俺とあって辛くなるようならばやめたほうがいい。考えて》

 あたしは固唾を飲んだ。

 あった分の人。それもphotographer。あたしには遠い世界の人。苦しむのは目に見えているから、LINEの文章の語尾に『もう一度だけあってください』と付け足したのだ。勘のいい人ならば、最後に抱いてほしいという懇願の意が包み隠されている文章だとわかるだろう。

 わかっている。今はただ恋の迷路の入り口にたっているだけ。一歩足を踏み入れただけ。引き返すことなどは、すぐに出来る。

《わかっています。最後に撮影してください》

 また、最後にを付け足し、めんどくさくない強い女を演じた。ちっとも強くなどないのに。心にもない裏腹な文章を打ち終え、あたしは、スマホに保存されている自分の写真に目をやった。

 本当に綺麗だ。なぜ、同じ人間なのに、写真の中のあたしはこんなにも綺麗なのだろう。何度も首を傾げたけれど、シンさんが写真の中のあたしを製造したのかと思うと、胸がぎゅっとつままれるみたく痛くなった。

 彼自体は軽く考えていると思慮する。被写体がphotographerを好きになることなどは珍しくもなんともない。だだ、面倒くさいことに巻き込まれたくはない。LINEの返信は書いてはいないけれど、見えない文章が浮かんで見えた。

 

 当日、先にビジネスホテルへ入ってもらった。あたしは仕事で遅くなるからとゆってあったので、少し遅れて部屋を訪れた。

「あ、久しぶり」

 シンさんが、扉を開けながら口にした。けれど、あ、久しぶりでもないか、と、ゆいなおし、苦笑まじりに笑みを零した。

「雨の中、来てくださってすみません」

 あたしは、部屋に入り、荷物を玄関の傍に置きながら、小声で呟いた。

 会うのは、2回目だ。既にあっているので幾分は緊張も解けている。けれど、もう、これで会うこともないと思うと、辛くて涙が出そうになった。

「ここの部屋、眺めが絶景だよね」

 シンさんが窓に目を向け目を細める。

 あたしも窓の方に目をやり、ああ、ほんとうだぁ! と、そのまま窓越しに近づいた。8階から見る風景は、雨が溶け込みとても綺麗だった。窓に打ち付ける雨粒が余計風景の綺麗さを引き立てる。信号機の色が、ぼんやりと、浮かぶ。

 赤・青・黄色。

「さあ、きょうは、どう撮影する?」

 落ち着いた物言いな言葉。あたしは、シンさんの方に向き直り、お任せします。と、ゆいながら、お化粧をするために、洗面台に向かった。

 前回はちゃんとした作品にしようと撮影をしたので、始めから緊張しっぱなしだった。なのでシンさん的には、被写体のあたしが云々、自分の中でよい写真が撮れたと思う。けれど、今回のあう動機が、撮影ではなく、抱かれたいという名目に変換されたので、あたしはシンさんの一つ一つの動きが気になって仕方なかった。夕焼けがだんだんと夜に呑み込まれてゆく。雨もひどくなり、あたし的には窓に打ち付ける雨粒は宝石みたいに輝いていた。

「あ、雨が邪魔だな」

 ぼそりと彼が呟く。シンさんの中では雨は邪魔だったようだ。長年カメラマンをしていると自分の世界観が出来、自分の撮りたいものしか本当は撮りたくはないと、ゆっていた。誰でもそう。自分のしたいことしかしたくはない。けれど、それを押し殺し皆、生きているのだ。

 その中でも、シャッターをきるシンさん。雨の音とシャッターを切る音との絶妙な旋律はあたしの心をひどく濡らした。

「ベッドに腕をかけて俺の方を見て」

 カメラのレンズを替え、あたしの顔にぐっと近づいてきた。マクロレンズ?

 広角レンズ?なんだか良く解らないけれど、もっと、寄って。と、ゆうので、身体さらのめり込むように、シンさんに近づいた。カメラがあるので、彼と目を合わすことはないと、安心しきっていたせつな、彼がカメラを外し、

「俺の目を見て」

 人差し指を差し出し、自分の目の前に持っていった。

 やだ、あたしは、羞恥心に抗えず、無理、と、顔を布団に突っ伏してしまった。

「見て。じゃないと、写真撮れない」

 呆れた声音が上から降りて来た。あたしは、そうっと顔をあげ、恐る恐る彼の目を凝視した。こんなに近距離。それも煌々と灯りの灯された部屋で。心臓が早鐘を打つ。彼の目は真剣だった。彼の目の中に吸い込まれそうになり、彼の目に犯された。危険な人だとつくづく思った。のめり込んだらおしまいだと。思った。

 

 いつのかにか、あたしたちはベッドの上で裸になっていた。もっともあたしは最初から裸体だったのだけれど。シンさんは、あたしをきつく抱きしめた。最初は穏やかに、だんだんぞんざいに扱った。ひどいことをするたびに、

「本当にMなんだよね。あやちゃん」

 なんども確認するみたいに言葉を吐いた。後ろむきにされ、指を口の中に入れられた。背中に爪をたてて、何度も引っ掻いた。首を締め、白目になりそうになると、離し、解放した。あたしも彼もエンドレスな世界に吸い込まれた。地上8階で行われる行為は、非日常的でぼんやりと天井を見上げた。

 あたしの太ももからは、温かい液体が流れていた。拭うまもなく、シンさんはあたしを引き寄せ何度も抱きしめた。即物的な体温があたしの理性を取り戻してくる。

「なあ、」

 蚊の鳴くような声がし、あたしは顔をもたげた。ん、なに? あたしは、間のあいた空気の中、言葉の先を待った。

「ん、」

「なに?」

「あやちゃんは、Mなんだけれどね。違うんだよ。首を絞められて苦しいだろ。その行為に昂奮するのではなく、首を絞められたあとの解放された感じに酔っているだけなんだよ。わかる?」

 え?

 言葉の意図が全くわからず、あたしは首を横に振った。

「何かから解放されたい。それは首を絞められることだったり、ひどく扱われたりだったり。自ら自らを苦しめる。自虐行為に過ぎない。本当の快楽はきっとセックスではなく、なにかから解放されたときだ」

 薄明かりの中、難しいことをゆっているシンさんの顔は全く見えず、誰と話をしているのかもあやふやになり、けれど、あたしの目からは、不明瞭な熱い液体が頬を濡らしていた。

「苦しいのが好きなのではなく、苦しみから解放されるのが、あやちゃんの快楽なのかもしれないね」

 確かにそうかもしれないと頭の中でぼんやりと思った。あたしは確かに自分を大事にはしていない。むしろもっと、もっと傷をつけたいとすら思っている。

 親の愛情不足だと、他から愛を得ようとし、知らず知らずの間に自虐行為に走るらしい。その行為はセックスであったり、手首を切ることだったりと。まあ、あとで知ったことだけれど。

 愛情に飢えている。心が渇望していて、潤して欲しい。充して欲しい。毎日そう願っているあたし。

 カメラマンは何百、何千と人を見て来ている。あたしのような女がいたのかもしれないし、シンさんの炯眼な目があたしの心の中を見透かしたのかもしれない。

 頬を伝う涙を悟られないよう、あたしは寝たふりをした。

 シンさんがそうっとベッドからすりぬけ、椅子に腰掛けるのがわかる。

 『カシャカシャ』

 シャッターを切る音がする。

 あたしは寝たふりをしている。何を撮っているのだろう。雨の中の夜景?それとも……。


 静寂な部屋は虚構な世界に思えた。首をそうっと竦めつつ、細く目を開ける。雨粒に打たれた窓ガラスの夜景を背に、彼の輪郭がぼんやりと浮かび上がっていた。

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