第6話
彼女は遠慮がちにお弁当へと口をつけた。どういう訳か、まず付け合せの人参を茹でたものから食べる。次にこれまた付け合せの玉ねぎを。
人の食べる順番にとやかく言うつもりはないが、なんだか不思議な気分だ。人参や玉ねぎなんかは、普通、口直しのために食べるものだと思っていた。
「おいしい?」
彼女は私を横目に見て、ニコリと笑いながら「はい」と言う。そして再び人参を箸でつまみ、口へと運んでいた。
……いつになったらお肉を食べるのだろうな。冷めてしまうだろうに。
人が食べる所をまじまじと眺めるなんて、そうある事では無いからか、なんだかヤキモキしてしまった。
「私は岩本彩子。よろしくね」
私はとりあえず自己紹介をした。彼女を警戒させないよう出来るだけ明るく、元気に。
すると彼女はハッとした表情を作り、お弁当の上に箸を置いて、私のほうに向き直る。
「ご……ごめんなさい、申し遅れました、私、安奈って言います」
「アンナちゃんって言うんだ。可愛い名前だね。苗字は?」
私がなんの気なしにそう聞くと、安奈ちゃんは途端に私から目をそらし、何やら考えこんでしまっている。
苗字を名乗る事が、そんなに躊躇われる事だろうか。
「えっと……」
「別にフルネーム知った所で、住所調べあげてお弁当代請求しに行かないって」
私は冗談めかしてそう言ってみるが、それでも安奈ちゃんの表情は晴れる事はなく、口を再びへの字に曲げ、気まずそうにゴニョゴニョとしている。
何か言えない事情があるのだろうか。もしかしてドガイトとか言う珍しい名字を持つ市長の娘だとか?
それだと、父親の名誉のために名乗れないのも分かる。
「まぁ、言いにくいなら無理には聞かないよ。ごめんね」
「そうじゃなくって……その」
安奈ちゃんはチラッと私を見て「無いんです」と、言った。
苗字が、無い? 無いとは、どういう意味?
無い訳が無いだろう。百数十年前じゃあるまいし。
「またまたぁ」
私は笑顔で安奈ちゃんの顔を見るが、安奈ちゃんは「はは」と、苦笑いを浮かべていた。
……どうやら、嘘を言ってるでも無さそうだ。なんなのだ、この娘は。
とてもとても、興味を掻き立てられる。私は凄く、ワクワクしていた。
「苗字無いっていうのは、あれかな、もしかして忘れちゃってるとか?」
「え……? あ、はい、そうです」
おぉ。これはもしかして。
「もしかして安奈ちゃんってさ、いわゆる記憶喪失ってやつ?」
きっと私の顔は満面の笑みなのだろうな。頬の筋肉が上に上がっているのが分かる。
不幸な境遇の娘を前にして、良くもまぁここまでデリカシーの無い事が言えるもんだ。自分の軽はずみな性格がこういう所にも出ている。
「いえ、記憶は全然、ありますけど」
「あるんかぁい!」
私はつい、突っ込んでしまう。あまつさえ右手で安奈ちゃんの肩をピシっと叩きながら。
……なんだろうな、なんで私、こんなに調子に乗っているのだろう。ついさっきまで、彼氏の事であんなに悩んでいたというのに。
なんだか凄く、楽しい。
「す……すみません、記憶、無かったほうが良かったですか?」
「あはははは。ううん、いいのいいの。でも、苗字が無いって?」
「あの、ずっと昔はあったんですけどね、ずっと昔過ぎて忘れてしまいました」
安奈ちゃんは今度は口籠ることなく、すんなりと話してくれた。少し照れ笑いを浮かべて、再び箸を持つ。
少しずつ、心を開いてくれてきたのだろうか。
「忘れるように、言い聞かされてまして。言い聞かされているうちに、本当に忘れてしまったんです。不思議ですよね」
「言い聞かされた?」
安奈はようやく、箸でお肉をつまむ。少しだけ見つめ、ゆっくりと口へと運んだ。
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