第2話

 私は午後の講義があるにも関わらず、階段を降りたその足で大学を出た。

 着ていたダブルのコートの袖で、頭の傷をギュッと押す。

「つっ……」

 ピリリとした痛みが走り、脊髄までもがズキンと痛む。

 コートの袖へと視線を移すと、茶色のコートが私の血を吸い、ほんのりと赤色に変色していた。

 私はバックから小さな鏡を取り出し、痛みのある場所を見る。

 血はそれほど出ておらず、髪の毛に隠れて傷口自体もどこにあるかがわからない。

 私は大した怪我では無いと思い、手当てをしないまま、駅への道を歩き始めた。


 この町は、田舎だ。

 見える景色は、線路と路肩に溜まっている雪。そして歩道の横に生い茂る木々だけ。吐き出す白い息以外に、動いているものは無い。

 田舎の中でもへんぴな場所に大学があるせいで、講義中という事もあってか、歩いている人はもちろん、車の一台さえも通っていなかった。

 そんな田舎道を、駅までの道のりをただ歩く。

 誰も見られていない事を悟った私の目からは、涙が流れ出ていた。


 先ほど別れた彼氏は、この大学では知らない人が居ないほどの有名人であった。

 男子の一部からは悪評も聞かされたが、女子からは彼の悪口を聞いた事がない。それは彼女である私に気を使っての事なのかも知れないけれど、本当に彼の事を好いている女子を、何人か知っている。

 確かに、身長が高く、顔も悪く無い。いい意味でも悪い意味でも気さくであり、沢山の電話番号が彼のスマホには登録されていた。

 私と一緒に居る最中、何度も電話がかかってきたり、メールのやり取りをしている所を見ている。彼は紛うことなく、人気者なのだ。

 そんな彼を、私は振った。

 今頃どんな会話がなされているのだろう。今頃私は誰になんと思われているのだろう。

 そう考えると、頭の怪我以上に下腹部が痛くなる。涙が溢れてくる。

「ひっく……うぅ」

 明日から、どんな顔をして大学に行けばいいのだろう。誰にどんな質問をされるのだろう。誰にどんな言葉を投げかけられるのだろう。

 全てを覚悟した上で起こした行動だと言うのに、どんどんと、下腹部が痛くなる。


 電車に乗り十数分揺られると、私の住んでいる住宅街の最寄り駅へと到着する。

 私は見慣れた景色の中をフラフラと歩きながら、目に見える大きな公園を目指した。

 公園の近くにあるコンビニの前を通り、自伝車の侵入を拒む鉄柵をすり抜け、私はブランコからほど近い屋根付きのベンチへと腰を下ろす。

 平日の、まだ昼と呼べる時間なだけあって、人は少ない。専業主婦と思われる女性が犬の散歩をしてる姿と、ブランコに腰をかけている若い女性しか、私の他には居なかった。

 私はそれだけを確認し、自分のスマホをコートのポケットから取り出し、固まる。電車の中でもスマホのホームボタンを押す事が出来ずにいた。

 誰かからのメールが届いてやしないだろうか。誰かからの着信が来てやしないだろうか。

 私にはそこそこの人脈があり、友人が居る。しかしその全ては元彼とも繋がっているのだ。別れた事を知らない訳がない。ニュースの少ない彼ら彼女らにとって、この上ないほどの栄養剤。真相を多方面から知るために、こぞって私へ質問を投げかけてくるだろう。

 それが今、たまらなく恐ろしい。

 私が自分の話をする時は、大抵自慢話である。

 中学時代、成績は常にトップクラスで、一度だけだが学年十位を取った事があるだとか、高校時代、多数の支持を受けた上で生徒会に入っただとか、クラスで人気だった高身長で格好いい彼氏が居ただとか、そんな話ばかりをしていた。

 そんな私が、彼氏と別れた。しかも彼氏の保身染みた話を聞かされた上での情報だ。

 弁解して、通じるか?

 いいや、弁解が通じようが通じまいが、どうしようもない。

 彼は恐らく、すぐに新しい彼女を作るだろう。そして私は、捨てられた女として嘲笑の的にされてしまう。

 そんな未来を予想しなかった訳じゃない。訳じゃないが、現実になると、凄く凄く気が重くなってしまう。想像していたよりも、遥かに。

「嫌だ……」

 私は結局、スマホのホームボタンが押せないまま、そっとポケットへとしまった。

 そしてそのまま、ブランコに座る黒いコートを着た少女へと、視線を移した。

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