安奈if

ナガス

彩子

第1話

 男は大きく腕を振り上げ、そのまま憎しみをぶつけるように私の頬を平手で打った。

 体の小さな私はそのまま大きく吹き飛ばされ、壁へと頭をぶつける。

 ゴッという鈍い音の直ぐ後に、キーンという音が、打たれたほうの耳の手前から聞こえてきた。

 私は体に力が入らなくなり、そのまま壁伝いにズルズルと身をかがめる。

「て……てめぇから、付き合って欲しいって言ってきたんじゃねぇか」

 そう、私に暴力を振るうこの男は、私の彼氏だ。

 私は彼氏に、別れを切り出していた。

 地元ではそこそこ難解な大学へと通いながら悪ぶっている彼は、勉強ばかりをやってきている人間達にとって異様に映り、その容姿も良い所から、女子に人気があった。

 しかしその中身は、やはり彼も、勉強ばっかりしてきた人間で、子供のまま。

 良い子供も悪い子供も居るだろうが、この男は、間違いなく悪い子供。

 将来を見据えて勉強をしていたはずなのに、まだ大学一年生のうちから避妊具を用いる事を拒み、性交渉をしてきた。

 その他にも、まだ未成年だというのに、夜中にコンビニの前で友人達とタバコを吸ったり、お酒を飲んで騒いだりしていた。私も何度かその場に呼ばれたが、正直、気が気じゃなかった。

 そういった事が重なり、私はどんどんと、彼の事が嫌いになっていった。そして別れを切り出したら、案の定、思い切り打たれてしまった。

 今までだって、冗談っぽくではあるが、私に手を上げた事が何度もある。笑いながら頭を叩いたり、ちょっと不機嫌な顔をすると軽く蹴られたり。

 本当に、本当に、もう限界であった。大きな悪い子供だから、もう私の手には負えない。

「アンタが、いつまでも子供だから……! だからじゃない!」

 私は地面に膝をつきながら、それでも男の目を睨み、そう言った。

 言葉を発すると同時に、頭が非常にズキズキと痛んだ。痛みのする所を触り手を見ると、赤い血がついている。大した量ではなさそうだが、どうやら壁にぶつかった時に切れてしまったようだ。

「俺は子供じゃねぇ……俺はいつだってお前を思ってだな」

 どうやら彼氏は、私の頭から流れている血を見てうろたえている。

 平手打ちを放つ瞬間に見せた、殺意すら篭っていた瞳は、もうそこには無い。

 あるのは、怯えた心をそのまま写しだした、小動物のような目。

 それでも強がりながら「お前の事を思って」と、繰り返し呟いていた。

 どうやら、反省はしないらしい。あくまでも私を思っていたと言っている。

「今叩いたのも、私を思ってした事なの?」

「……そうだ。お前が訳わかんねぇ事言いやがるから」

「それが私のため? 私は私のために痛い思いをしてるの?」

「そう……そうだ」

 私の日本語が矛盾している事にも気づかず、自分の心が矛盾している事にも気づかず、唇をプルプルと震わせ、焦点の合わない目玉をキョロキョロとさせている。

 なんて小さい、男なんだろう。


 ……いや、私も同じだ。私も、小さい。

 思い返せば、ただ人気があるというだけで、私はこの小さな男と付き合ったのだ。特別好きという訳でもなく、周りに自慢出来るという、小さな小さな、虚栄心。

 私は入らない力を振り絞り、壁に手を当てながらゆっくりと立ち上がった。

「もう、連絡してこないで。次話しかけてきたら、暴行で訴えるから」

 私はただ棒立ちしている、小さな男の目を再度キッと睨みつけ、大学の三階と二階の間にある踊り場から立ち去ろうと、手すりに体重を預けながら階段を降りた。

「こ……これで終わりかよ? そんなもんだったのかよ!」

 私の後ろから聞こえてくる声を無視するように、私は出来る限り足早に、階段を降り続ける。


 ……こんなもんだ、人との別れなんて。

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