第3話 あたしの日常・3

 夢見が悪かったせいで二度寝もできず、理央はいつもより少し早く家を出た。庭の片隅に置いてある自転車のカゴにスクールバッグを入れ、庭に水を撒く祖父にあいさつをして門を出る。


「おはよーさん」


 突然聞こえた声に驚いて振り返ると、そこには昨日やってきた転入生がいた。彼はあのあと教室に戻ってくることもなく、理央自身、もうすっかり存在を忘れていたが、なぜ自宅前にいるのだろう。昨日会っただけだというのに、どこか懐かしそうに目を細めて理央を見下ろしていた彼は、小さくため息をつく。


「リオ、なんやね? 今は」

「は? あんた、昨日から何言ってんの?」

「俺、めっちゃショックや……まだ力も解放できてへん……しかも俺のことわからんなんて……」


 よよと泣き崩れる姿に唖然とする。彼のことについて理央が知っているのは、あくまでも“昨日転入してきたばかりだというのにホームルーム途中で抜け出したきり戻ってすらこなかった、頭の足りなさそうな愁という男子生徒”ということだけだ。どこかですれ違ったことはあるのかもしれないが、一切記憶にない。理央は訝しげに愁とやらを見上げた。


「なんなのあんた?」

「……だからシュウやて。あー……トウイって言うたほうがわかる?」

「は?」

「あかん……シオンがぁぁぁ……俺のシオンがぁぁぁぁ……」


 またも悶絶している愁を置いて理央は歩き出した。たしか木戸愁と名乗ったはずなのに何がトウイなんだか、まったく意味がわからない。ニックネームのようなものなのだろうか。とにかく頭のおかしい人は放置しておくに限る、とばかりに自転車に跨る。

 ふいに思い出したのは、昨日、転入生としてあいさつしているときのことだった。理央は校門近くにいる魂魄に気を取られていて何ひとつ聞いていなかったのだが、あのとき視た魂魄はたしかに理央を見ていた。下校時にはいなかったということは、助けを求めていたわけではなさそうなのだが――と思ったところで急に腕を掴まれた。


「こら待てシオン……じゃなかったリオ!」

「誰がシオンよ? 誰かと間違ってるんじゃないの?」

「あほか! この俺がシオンを間違えるかっちゅーねん!」

「煩せぇ……」


 ちっと舌打ちした理央を見て、愁は怪訝な顔をする。たしかに理央は口も態度も悪い。もっとも、その対象はバケモノ限定ではあるが。コイツはバケモノではなかったと気づいたときはもう遅かった。疑惑の眼差しを浴び、理央は思わず後ずさりした。


「……おまえ、ホンマは男なんちゃう?」


 むにむにと身体を触られ、ヒッっと息を漏らす。どうやらお気に召したようでにんまり笑う愁の頬に強烈な張り手をお見舞いし、理央は素早くペダルをこぐ。この男には別の意味で関わってはいけないと本能的に察知した。


「シオン! じゃなかったリオ!」

「煩い。変態」

「ちょお、待ちっ! それは聞き捨てならんよ!?」


 フンとそっぽ向き、自転車を走らせる。ただのクラスメートに身体を触られる覚えはない。拳じゃなかったことに感謝すればいいと思ったその瞬間。


――キィィィィィィン……


 耳の奥で聞こえる不快音に理央は思わずブレーキをかけた。頭が割れそうなほどみしみしと軋む。これは殺意を持ったバケモノが近くにいる合図のようなものだった。理央自身がバケモノを認識しなくても、むこうが理央を見つけてわざわざ襲い掛かってくることがある。それが今だ。

 理央は頭を押さえたまま自転車を降り、素早くあたりを見渡した。昨日と同じ光景が広がっている。通勤中の人や登校中の子ども、ゴミを捨てに路上に出てきている人。そして、この場にいてはいけないはずの、理央を追いかけてくる転校生。

 ここにいたらまずい。そう思った瞬間。


「リオっ!!」


 愁の緊迫した声が聞こえた。ドンッと身体と神経に強烈な圧力がかかる。今までにない霊力にあてられ、ついには立っていられなくなった理央はアスファルトに膝をついた。


「な、に……?」


 なんとか顔を上げると、そこには今まで遭遇したこともない大きさの“バケモノ”が牙をむき出しにして大口を開けた。これまで理央に攻撃してきたモノは、たいていが人間の背丈程度で、獣のような形をしている。もっとも、動物図鑑などには載っていないであろう、見たことのない類のものではあるが。それらの3倍の大きさはあろうかと思われるバケモノが地鳴りのように咆哮した。


「リオ! 早う!!」


 泣き出しそうな愁の声でハッと我に返る。理央が逃げればこの“バケモノ”はいつものようにうまく自分だけを追尾してくれるだろうか。生きている人たちが襲われたりこの場所で暴れたりしないだろうか。生まれて初めて見る巨大なバケモノの前で一瞬生まれた躊躇い。“バケモノ”が前足らしきものを振りかざした瞬間、愁は理央の身体を抱きかかえ、全速力でそこから逃げた。それも、オリンピックの短距離走者のような速さで。愁は明らかにあの“バケモノ”から逃げている。まさか――。


「あんたにも見えるの?」

「今はお話してる余裕はない。リオ、解放の術は知ってるか?」

「かいほーのじゅつ?」

「……あかん……じーさん、ボケてしまいはったん?」

「じーちゃんのこと、知ってるの!?」

「あとで説明する。今はちいと堪忍な? あんま余裕ないねん」


 とても人間とは思えないスピードで、しかも跳ぶように駆ける愁に抱きかかえられたまま、理央は振り返ってバケモノの位置を確認した。振り上げた前足はアスファルトを抉る手前で止まり、唸り声をあげて理央たちを追いかけてくる。ひとまず、何も視えない一般人を巻き込むことなく、完全に自分をターゲットにしていることに安堵した。それと同時に、このままでは愁が殺されてしまうかもしれないというさらなる恐怖感が理央を襲う。もう二度と失敗してはいけない。


「下ろして! そして今すぐ逃げて!」


 必死で叫ぶ理央に小さく「あほう……」と呟いて、愁はさらにスピードを上げた。すれ違う人たちは皆、何事かとふたりを見ている。それもそうだろう。小柄なほうとはいえ、高校生にもなれば体格はほぼ大人と変わらない。そんな理央を抱き上げて猛スピードで駆け抜ける男子高校生なんていないだろう。

 5分ほど走り続けていた愁は小さく舌打ちした。


「このまま逃げてても埒あかん……。リオ、この辺で空間いじれるやつおらへん?」

「はぁ!?」

「……せやな。知らんよな。んじゃしゃあない。作戦変更。この辺に人気のない広い場所は?」

「このまままっすぐ行って右。工事が中断した空き地がある」

「上出来や」


 愁はなぜかニヤリと笑い、理央が指示した方向へと駆けていく。もう、理央を下ろすという選択肢はないのだと悟った理央は、制服のポケットに隠してある数珠をぎゅっと握った。


「掛まくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に 禊祓へ給ひし時に成り座せる祓戸の大神等……」

「祝詞? 祓詞? どこで覚えたん……って、アレか。シオンか。リオ、知らんゆうてはるけどしっかり継いでるやないの」

「黙って。気が散るっ!! 諸々の禍事 罪 穢有らむをば 祓へ給ひ 清め給へと白す事を 聞食せと 恐み恐みも白す」


 祝詞が終わるころに空き地へ到着した愁は、砂埃を巻き上げて立ち止まり、追ってきたバケモノに向き合った。理央を建物の陰に下ろし、おもむろに額へ両手をあてる。


「魂に宿りし前世の因果結びて 今こそ現世の身に力を与えよ……解き放て!」


 理央の知っている祝詞とは違う。ただ、あてられた額から全身に熱がこもる感覚だけが認識できる。身体のほてりが治まると、今度はブツブツと先ほどとは違う呪文のような言葉を呟く。その瞬間、モヤのかかったような空間が理央を包んだ。


「そこで大人しくしとき。危な思うたらこう呟け。わかったな?」


 愁は指先で理央の腕に何かを書く仕草をする。すると汚い文字が浮かび上がってきた。わけもわからず理央はコクコクと頷く。自分の身に起きている出来事が脳内で処理できず、愁を逃がすことさえ完全に忘れていた。


「しっかし、きしょい格好してんのぉ。あ、人の言葉、わかります?」


 バケモノは咆哮し、前足をシュウに向かって振り下ろした。思わず理央はぎゅっと目を閉じる。土埃のにおいがする。あんなのに攻撃されて生きていられるわけがない。自分の判断が遅かったせいでまた犠牲者を出してしまったと理央は不甲斐なさに唇を噛んだ。

 けれどあのバケモノの目的は理央のはずだ。なんとかしなければときつく閉じていた目を開いた。そこには、土埃の中、薄ら笑いを浮かべて戦闘態勢に入っている愁がいた。彼がどうやってあの攻撃をかわしたのかはわからないが、人間がバケモノと戦えるわけがない。止めなければと包まれたモヤから出ようとした理央は自分の目を疑った。


(夢でよろしいでしょうかね、これは……)


 なんと愁は、手のひらから出てきた赤い玉をバケモノに向かって放っていた。

 理央は泣きたくなった。ここは地球で、日本で、東京で、あたしは神楽理央で、こいつは……誰? なんで人間からあんなのが出るの? 混乱する理央はブツブツとあらゆる疑問を呟いていた。愁の攻撃に怯んだのか、バケモノはぐるりと頭らしき部分だけ動かし、視点を止めた。


「ミツケタ」


 にたりと大きな口が歪んだ。笑っているのだ。狙いし弱き者を見つけて。今まで理央が出会ってきた“バケモノ”の中で、言葉を発するものはいなかった。意思を持って理央を襲ってくるというより、ただ中途半端に視える者を襲っているのだとばかり思っていた。しかし、今目の前にいる“バケモノ”は言葉を発し、明確な意思を持って理央に狙いを定めた。ゾクリとする。


「あかん!! リオ、さっきの、言え!!」

「えぇ!? さっきのって!?」

「腕! 腕!」


 言われて理央は、訝しむ暇もなく急いで腕に書かれた文字を読み上げた。


「我をまもりし聖なるてっぺき 悪しき者を散りゆかん 解放……?」


 瞬間、理央の周りの霧が弾け散った。さらに今度は金色の光に包まれる。すでに理央の思考回路はショートし、驚きすぎて倒れそうだ。


「リオ! 撃て!!」

「撃てって何!?」


 悲鳴に似た理央の声に愁は小さく舌打ちして、さっきの2倍ほどの大きさの赤い玉を手のひらに作り上げバケモノに放った。


(まさか今のがあたしから飛び出すわけ!?)


 混乱しすぎて半笑いになる。赤い玉がヒットするなり、バケモノは絶叫して砕け散った。空き地には静寂がおとずれ、理央と謎の転入生しかいない。理央はへたりと座り込んだ。自分以外にあのバケモノを視ることができ、あまつさえ攻撃する人間がいるだなんて、夢か何かの脚本としか思えない。何が起きたのかサッパリわからない。


「平気か?」

「……何、今の? 夢?」


 理央は震える指を愁に伸ばす。怯える理央を抱きしめて宥めようとでもしたのか、愁が手を広げた。が、その手をすり抜け、理央の指先が愁の頬に触れた。


「いったーーーーーー!? なにしますのん!?」

「夢、じゃない?」

「普通、そういうのは自分のほっぺた抓るやろ!? なんで俺ー!?」

「夢、じゃ、ない……」


 理央はそのまま気を失った。

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