第37話:起死回生

 大胆にも、影狼は見晴らしの良い通路のど真ん中を突き進んでいた。

「お、おい……あいつが影狼だ! 追え!」

 道端で待機していた数人の奇兵がそれに気付き、後を追う。

 少し前までの影狼だったら、小道に回り込んで彼らを振り切ろうとしただろう。それ以前に、このような人目に付きやすい道は通らなかったはずだ。

 しかしこの時の影狼は、チラチラと背後を気にするだけで隠れる様子は全くなかった。さらに不思議なことに、その先で待機していた奇兵が、追っ手の背後を指さしては逃げていく。

 おかしいと思った追っ手の一人が、後ろに目をやると――

「げぇっ!? 清末!」

 三の丸で最も恐れられている男――清末の姿があった。

 清末は味方がいるのにも構わず、妖刀血海鼠を横に薙いだ。烈風がどっと吹き抜け、通路にあったあらゆるものを運び去る。追っ手数人も巻き込まれる。

 ―――よし、狙い通り!

 清末の動きを逐一確認していた分、影狼は素早く建物の裏に隠れて、難を逃れることができた。作戦の効果を実感して、ガッツポーズをとる。

 清末の妖術の射程距離ギリギリを保ちながら出口へ向かう。それが影狼の作戦だった。

 この範囲内では、影狼を捕まえることよりも清末の攻撃をかわす方が命懸けになる。好戦的な奇兵でも、そんな所にわざわざ飛び込む気にはなれないのだ。

 命懸けの作戦だが、複数の奇兵を相手にするよりはずっとマシだった。

 あえて広い道を選んだのは、清末の攻撃を見切るため、清末を衆目に晒すため、そしてなにより、最短で出口へ向かうためだった。

 風が収まると、影狼は再び通路に戻った。

 出口はもう目と鼻の先。三の丸を抜け、緑の斜面を駆け降りる。

 あとは、甲斐大名が手配した兵の警備を潜り抜けるだけだった。

「!」

 だが、やはりと言うべきか、影狼が目指していた東の門はすでに多くの兵で固められていた。もとより彼らの役目は奇兵の脱走を阻止することなのだ。

 砦の外側には大きな水堀があり、門を通った先の土橋を渡らなければ外へは出られない。

「止まれ! 止まらないと撃つぞ!」

 最悪だったのは警備兵が鉄砲を装備していたことだ。

 そうでなければ、雷霆と鴉天狗仕込みの剣術で切り抜けられるかもしれないのに。

 彼らは本気で撃ってくるだろうか。命までは取らないにしても、足ぐらいは狙われるだろう。この状況では、それは死に直結する。影狼は立ち止まらざるを得なかった。

 背後を振り返ると、清末もちょうど三の丸を飛び出したところ。奇兵ならそれを見て逃げてくれるのだが、警備兵は清末のことをあまり知らないようで、まったく動じなかった。

 ―――近い、近い、近い!

 迫る清末を見て、影狼はたじたじになる。

 今度は確実に仕留めるつもりだ。至近距離であの術を使うのか、あるいは――

 ドゴオオオン!

 血海鼠の重い一撃が、影狼の立っていた地面を粉砕した。

 清末は直接斬りつけてきたのである。逃げ場を失った者相手に、周囲を巻き込むあの術を使うのは合理的でない。そう判断できるだけの頭は持ち合わせていたようだ。

「ケケケ……活きの良い小僧じゃ」

 もうもうと立ち込める土埃の向こうに小さな人影を見て、清末は満足げに笑った。

 影狼は警備兵の様子をうかがう。相変わらず鉄砲を構えてはいるが、清末が現れたことによってやや迷いが生じているようだ。無闇には撃ってこないだろう。

 一か八かで、影狼はここに付け込んでみることにした。

 土埃を払って、妖刀血海鼠が勢い良く突き出された。影狼は大きく一歩跳び退ってよけたが、風圧を受けてバランスを崩す。

 そこへ清末が一歩踏み込み、二撃目を放った。

 今度は横薙ぎ。刀が大きい分、太刀筋は読みやすかった。

 影狼は上体をそらして、そのまま仰向けに倒れた。それから素早く寝返りを打って、血海鼠の叩きつけを回避すると――

「た、助けてください! 殺される……!」

 影狼は警備兵が集まる所へ駆け込んだ。

 殺人鬼に追われるかわいそうな子供。警備兵たちにはそう映ったはずだ。

「よおし、分かった。助けてやるからおとなしく捕まるんだ」

 彼らのうちの一人が手を差し出し、他の者も構えていた鉄砲を下ろす。

 この瞬間を、影狼は心待ちにしていた。

 バチッ!

「いってぇ!」

 手を差し出した男が腕を押さえて倒れた。

 みなが呆気にとられている間に、影狼は警備兵の列に突入した。

 懐に入ってしまえば鉄砲の利点は失われる。発砲できない鉄砲兵など、影狼にとっては案山子同然だった。小動物のような俊敏さで立ち塞がる敵をかわして、門を塞ぐ兵に雷撃を手荒く撃ち込む。そして、とうとう土橋に足を踏み入れた。

 ここから先は自分との勝負。いかに早く橋を渡り切るかが生死を分けることになる。

「あんっの……クソガキ!」

 雷撃のショックから立ち直った兵が、走り去る影狼に狙いをつける。

 土橋の上に遮る物はなく、影狼は格好の的となっていた。

 だが、まさに引き金を引こうかという時に、彼らの背後からしゃがれた声が飛んできた。

「どけぇ! そいつはオラの獲物じゃきぃ~~~!」

 清末が獲物を横取りされかけて、興奮してしまったようだ。血海鼠を力一杯振り抜き、特大の一撃を繰り出した。

『血海鼠・森薙ぎ!』

 烈風にさらわれて、門の前に固まっていた警備兵が一人残らず吹き飛ばされた。木柵の残骸と一緒に堀に転落し、盛大な水しぶきを上げる。

 影狼もこの風からは逃れられなかった。土橋を渡り切らないうちに風に押し流されて、堀に転落した。

「ぶはっ!」

 水面から顔を出して、影狼は荒々しく息を吐き出した。

 水堀は思ったより深く、泳ぎ方を知らない影狼は沈まないようにもがくことしかできない。対岸まではあと少しなのに、遠く感じる。

 こんなところでもたもたしていたら、あいつが――

「もぉらったぁ〜〜〜!」

 身動きが取れない影狼めがけて、清末がとどめの一撃を放った。

 巨大な風の刃が堀の水面を切り裂きながら影狼に迫る。

 ―――死……!

 それを意識した瞬間、様々なことが一瞬のうちに頭を駆け巡った。

 侵蝕人の友と巡り会った日、人がいつか死ぬと知って恐怖に打ち震えた日、沈んだ気分を紛らわそうと剣の稽古に打ち込んだ日。

 嫌なこともいっぱいあったけど、あの頃は幸せだった。それに比べて、ここ最近のなんと惨めなことか。正直、生きているのが苦しかった。

 でも死にたいと思ったことは一度もない。

 ―――せめて、あなたと影狼だけでも……

 死に瀕して、幸成が武蔵坊に伝えた言葉が蘇る。

 あの時、幸成はどんな思いで影狼を見送ったのだろう。修羅と化した鴉天狗とは違う道を歩んで欲しいと、願っていたはずだ。

 今、鴉天狗とも妖派とも違う道へ、ようやく一歩踏み出せたところなんだ。これからなんだ。こんな所で死ぬわけにはいかない。

 死にたくない! 死にたくない! 死にたくない!

 ―――まだ……死ねない!

 ブクブクと堀の水が泡立ったのは、そう思った時のことだった。

 明らかに不自然な水面の動き。その中心にあるのが自分だと気付き、影狼は一つの可能性に思い至った。

 ―――海猫だ!

 影狼は懐からそれを取り出し、迫り来る風の刃に向けてかざした。

 ザバァ!

 するとその動きに合わせるように水面が隆起し、影狼と風の刃の間に分厚い水の壁を作った。次の瞬間、風の刃を受けて弾け飛ぶ。

 丈夫ではなかったが、風の刃をただの風にするにはそれで十分だった。

 影狼は風に押し流されて対岸まで辿り着くことができた。水堀から上がって振り返ると、清末が土橋を渡って追って来ているところだった。

 橋の両側には大量の水。これを逃す手はない。影狼は海猫を横に払った。

 すると再び、水面が意思を持ったように盛り上がり、清末を呑み込んだ。影狼はすかさずもう一方の妖刀を取り出し――

『雷霆・雷撃!』

 仕上げの一撃を撃ち込んだ。

「ギイィィアァァ~~~~~!」

 全身を水に包まれた清末に、これを回避する術はなかった。何倍にも威力を増した雷撃を浴びると、足をふらつかせて水堀へ転落してしまった。

 雷撃を撃ち切った時には、影狼は肩で息をしていた。

 海猫の術が発動した。

 どうしてなのかは分からない。妖刀の使い方を教わったから? 柘榴に邪気を補充してもらったから?

 しかし今の影狼にとって、それは大した問題じゃなかった。

 極限まで追い詰められた影狼に力を与えたのは、幸成の存在。彼は今も影狼の心の中で生き続け、一緒に戦ってくれている。

 幸成を間近に感じられたことが、とても嬉しかった。

 体から力が抜けて、影狼はその場に座り込んだ。追っ手が来るといけないが、今は一歩も動けそうにない。少しだけ休息が必要だった。


     *  *  *


 薄紫色の気体が屋根から屋根へと移動し、放電を始める。そこから現れた來は、慌ただしく動き回る奇兵を見下ろして冷笑を浮かべた。

 影狼が抜けた後も、三の丸の混乱は続いている。指揮をとるべき者がいない上に、脱走者に関する情報も乏しい。この中を突破するのはそれほど難しいことではなかった。

 背後に音を感じて、來は振り向いた。

 そこには奇兵が三人。血走った目で來を睨みつけていた。

「あらら……見つかっちゃった」來は少しだけ困ったような顔をした。「でも無駄だよ。アタシを捕まえたかったら、先に逃げた奴を捕まえないとね」

「うるせぇ!」先頭にいた男ががなり立てる。「捕まえる気なんてさらさらねぇよ。お前のことは前々から目障りだと思ってたんだ。ちょっと良い能力持ってるからって調子乗りやがって……今度こそぶち殺してやる!」

 それを聞いて、來は逃げる気が失せた。

 出る杭が打たれるのは世の常。まして実力主義の奇兵においては極ありふれたことなのだが、これを黙ってやり過ごせるほど來は器用じゃなかった。

「大の大人が、寄ってたかって強い者いじめかい。情けない……」

 來が言い終わるより早く、三人は一斉に飛び掛かって来た。

 同時に防ぐのは難しい。來は全身を雲化して、離れた建物の屋根に移動した。

 しかし三人組は思ったよりも狡猾だった。來が向かった屋根の上に先回りし、実体化する瞬間を三方から攻撃したのである。

「くっ……!」

 來は間一髪で剣閃を潜り抜けたが、次いで繰り出された蹴りを脇腹に受けて、屋根から落下した。着地の瞬間に雲化して致命傷は免れた。

 甘く見ていた。三人とも屋根までひとっ飛びで上れる脚力。連携が取れているところを見ても、普段からつるんでいた仲なのだろう。來の周囲には奇兵が集まり始めている。悔しいが、本気を出すしかなさそうだった。

 再び実体化した來を、三人組が屋根の上から嘲笑う。

「やっぱりな。お前は全身を雲化してる間、なにも見えてねぇ。おまけにもう一度雲化できるようになるまで時間が掛かるみたいじゃねぇか」

「……よく分かってるじゃない」

「調べたんだよ。てめぇに勝つためにな!」

「そう……でも、周りの状況が全く分からないわけじゃないんだよね」

 來は、ふぅっと息を吐き出した。

「全身を雲化している間、アタシはなにを頼りに移動していると思う?」

「ああ?」男がくだらなそうに言った。「雲化する前に、周りの景色を記憶してんだろ?」

「それもあるけど……」

「!」

 話している間に、景色が霞んできていることに奇兵たちが気付く。

「アタシが一番頼りにしてるのは皮膚感覚だよ。雲化中もこの感覚だけは残っていてね、周りがどうなってるか、足場はあるか、手探りでだいたいのことは分かるの」

 霧が一層深まっていく。

「てめぇ! なにをしやがった!?」

 來を見失う前に男が飛び掛かろうとしたが、時すでに遅し。

 飛び降りたところを背後から蹴られ、男は前のめりに地面に倒れ込んだ。

「やってることは雲化の術と一緒だよ」深い霧の奥から、來の声が響く。「この霧はアタシの体の一部。そして雲化している間もアタシは触れたものを感じ取れる。つまり――」

 男の額に汗が浮かぶ。

「この霧の中のことは、アタシがすべてお見通しってことだよ」

 霧を突き破って、拳が男の眼前に現れた。

 ゴツン!

 視界を奪われた彼らは連携を取ることもあたわず、一方的に叩きのめされる他なかった。


     *  *  *


 二人の脱走者が安岐ノ橋で落ち合った頃には、髑髏ヶ崎館の丘陵に大きな夕日が落ちかかっていた。橋のたもとで待っていた影狼が、來を見つけて手を振っている。

 駆け寄った來は、影狼の肩をピシャリと叩いてギョッとした。

「どうしたのそれ? びっしょびしょじゃん」

「堀に落ちた」

「ええっ?」

 影狼は自分の身に起きたことを手短に話した。清末に遭遇したこと、水堀に落ちて死にかけたこと、その窮地を海猫に救われたこと……

「それでよく生きてたね」

「全くだよ」

 二人は声を立てて笑った。

 こんなに屈託なく笑ったのはいつ振りだろう。影狼はほんの束の間、悩みも不安もなんにもないような気分になれた。

 ともかくこれで、妖派とはおさらばだ。

「そう言えば」橋を渡り切ったところで、大事なことに気が付いた。「行き先のこと、なんにも話してなかったよね」

「羽貫衆の所でしょ」

 さらっと言われて、影狼は思わず立ち止まった。

「なんで知ってるの!?」

「だって、前にメラン人の親子と話してたじゃん。あれ、全部聞いてたからね」

「ほぉ……」

 いつもながら、恐ろしい諜報能力だ。ただ、來はだいたいの行き方を知っているようなので、それはありがたいことだった。

 ふと、影狼はある強い衝動に駆られて髑髏ヶ崎館の方を振り返った。

「どうしたの? 早く行こ――」

 再び立ち止まった影狼を來が急き立てるが、彼女もまた、あるものに目を奪われて立ち止まってしまった。

 宝永山を背景に橙色の陽光を浴びる髑髏ヶ崎館。心奪われるような絶景だが、二人が見ていたのはそれではない。夕空に浮かぶ妙な飛翔体だった。

 人に翼を生やしたような物体が、こちらへ向かっている。

「影狼!」

「分かってる!」

 影狼は素早く雷霆を取り出して、雷撃を放った。

「ガアアァ〜〜〜!」

 雷は狙い違わず飛翔体に命中した。

 飛翔体は体勢を立て直すことができないまま、安岐ノ橋の手前に落ちていく。だが墜落の直前に、別の人影がその上から飛び降りるのが見えた。

 着地に成功すると、その人影は信じられないスピードで安岐ノ橋を走り抜けて、影狼たちへと迫った。

 影狼は迫り来る敵の進路を計算して、十数発もの雷撃を撃ち込んだ。その間、一切攻撃の手は緩めなかった。

 しかしそいつは全ての攻撃をかわし切り――

「!」

 気付いた時には、影狼と來の間を駆け抜けていた。

 すでに抜刀済み。その手には、錆びついた紫色の長刀――斬鬼丸が握られている。

「覚悟は……できてるだろうな?」

 ゆっくりと斬鬼丸を鞘に戻し、そいつは影狼たちに向き直った。 

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