第36話:逃走開始

 髑髏ヶ崎館の砦は段差と仕切りによって四つの層に分けることができる。

 一段目は防衛の要で、普段は甲斐大名が手配した正規の兵が警備に当たっている。二段目は三の丸と呼ばれ、一般奇兵の居住区となっている。二の丸にあたる三段目は、伊織をはじめとする上位奇兵の居住区。そして本丸の四段目が本館である。

「やっぱり、一度本館の周りを通らないと下には出られないよ」本館を抜け出した影狼は、來から渡された図面を見て言った。「柵飛び越えれば近道できるけど」

「焦らない焦らない」來は楽観的だった。「アタシたちが逃げ出したことはまだほとんどバレてないんだから、あえて怪しまれるようなことはしない方が良いよ」

 元々、影狼が物置部屋に閉じ込められていたことを知る者は少ない。肝心の梅崎は指揮を執れる状態ではなく、伊織も部屋に戻って影狼の妖刀がないことに気付くまでは、分からないだろうと思われた。

 出だしが上手く行き過ぎただけに、二人の心に油断が生じていた。

 だから本館の物見櫓に人の姿を見つけても、それほど注意は払わなかった。

「イ~タ~ゾ~~~~~!」

「!?」

 耳をつんざくような甲高い声に、二人は思わず耳を塞ぐ。

「チッ、バレてたか……」

「なんだあれ!? 声でかっ……!」

陸空りくう――妖怪吠え猿の声を持つ奇兵だよ。下手に近付いたら耳がやられる。気を付けて!」

 甲高い声を発したのは、來たちとそれほど背丈の変わらない、チンパンジーのような顔をした男だった。男、陸空はなおもキイキイと声を張り上げて仲間を呼ぶ。

「鴉天狗の影狼が逃げたゾ~~~! 一緒にいる來も捕まえロ~~~!」

 陸空が影狼脱走のことを知っているのは明らかだった。梅崎があらかじめ手配したのか分からないが、こいつを早めに倒しておかなければ厄介なことになる。

 來は出口へ急ぐ影狼とは反対の方へ向き直った。

「影狼は先行ってて! アタシはあいつ黙らせてくるから」

「一人で大丈夫なの? 人が集まってきたら……」

「アタシはいつでも逃げられるから大丈夫」來は肩越しに言い放った。「いい? あんたが捕まったら全部お終いだからね! 今は一刻も早くここを出ることだけ考えて!」

 それが強がりではないことは、影狼もよく分かっていた。並の兵ならば何人束になっても彼女を捕まえることはできないだろう。

「分かった」影狼は柵を飛び越える前に言い添えた。「安岐ノ橋あんぎのはしで待ってるよ」

 影狼の姿が見えなくなると、來もまた雲散霧消した。その様子を見て、陸空が飛び跳ねながら鶏のようにわめく。

「奴ら下に行ったゾ! 早く捕まえ――」

 声はそこで途切れた。

 突如來が櫓の上に姿を現し、陸空に蹴りを入れたからである。

 高所から見下ろしていただけに油断があった。陸空は櫓から転落し、背中から地面に激突した。そこへ影が落ちる。

「!」

 見れば、來が陸空めがけて飛び降りてくるところだった。

 ―――なんて無茶ナ!

 痛む身体に鞭打ち、陸空は影から逃れるように横に転がり込んだ。

 標的を失った來は着地の瞬間に雲化し、衝撃を無効化した。流石に來はこの体質に慣れているようで、こうした応用的な使い方で相手の意表を突くことができるのだ。

「ウッキャア~~~~~~~~~~!」

 陸空は起き上がりざまに反撃に出た。

 相手からすれば、こっちに来るなと悲鳴を上げているようにしか見えないが、それでも鼓膜を破るほどの大声量は反撃と言っても良かった。たいていの敵は本当に近寄れなくなる。だが――

「うるさいよ、あんた」

「キャッ!?」

 來には全く以って通用しなかった。耳を雲化すれば両手で耳を塞がずとも問題なく接近できる。音の波を潜り抜けて、さらなる一撃を加える。

 こうなればもう、陸空に反撃の手段は残されていない。おぼつかない足取りで逃げて行く。足がもつれてすっ転ぶほどの慌てぶりだった。しかしそれを見ても、來はあえて追うことはしなかった。個人的な恨みも特にないから、邪魔をしなければそれで良いのだ。

 その頃、影狼は一般奇兵の居住区――三の丸へと抜け出していた。

 ここが勝負所。砦の中で一番人が多いのは三の丸だ。さらに下へ抜けるには、兵舎が建ち並ぶ中を突っ切らなければならない。

「いたぞ! あのガキに間違いねぇ!」

 誰かが叫んだのを聞いて、影狼は建物の影に回り込んだ。

 やはり陸空の声は砦全域に届いていたようで、すでに動き出した者も多い。

 影狼は奇兵に入って日が浅く、しかも上位の兵舎で生活していたから、この区画ではあまり顔を知られていない。しかし子供であるという分かりやすい特徴が、この時は仇となったようだ。

 なるべく人目につかないように、建物の間の狭い道を選んで駆け抜ける。ばったり出くわした者には雷霆の一撃を喰らわせておき、とにかく東を目指して、影狼は走り続けた。


 三の丸は、上位に入り込めなかった一般奇兵の居住区である。そう考えると、上位奇兵である伊織より強い者はそうそういないはずだ。

 しかし一人だけ、実力を高く評価されながらも三の丸にとどまっている男がいた。

「見かけねぇ面じゃな。お前か? 影狼ってのは」

 三の丸の東側。忙しく動き回る奇兵の一人を捕まえ、黒い棒を担いだ男が尋ねた。

 無精髭の悪人面が作る笑みは、ぞくぞくとした寒気を感じさせる。捕まえられた奇兵は思わず悲鳴を漏らしてしまった。

「ち、違う! 影狼は來と同じぐらいの子供だって話だ。見ればすぐ分かる!」

 それを聞くと男は奇兵を手放し、建物の外壁に寄りかかった。彼の人となりを知る者ならば、あえてここへ近寄るような真似はしないだろう。

 妖刀血海鼠の使い手――清末利一である。

 一騎当千の彼が上位に入れてもらえないのは、簡単な理由からだった。

「!」

 小さな足音が近寄るのを感じ、清末は血海鼠を構えた。

 血海鼠が刃翼に姿を変え、そして――

「そぉぉおこかぁぁあー!」

 奇声と共に大技が放たれた。

 風が唸りを生じ、建物とそこに隠れていた者とをまとめて吹き飛ばす。舞い上がった破片は二の丸の方へ流れ、三の丸との間の斜面にバラバラと積み重なった。

 清末は斜面を登って仕留めた相手を確認する。

 木片の下敷きになって目を回していたのは、二の丸から逃げてきた陸空だった。背丈は確かに子供並みだが、目当てとは違う。

「けっ……ハズレじゃきぃ」

 清末はすまなそうな顔一つせず、元の場所に戻っていった。

 これが彼の欠点。

 協調性、思慮分別が恐ろしく欠如したこの男は、人の上に立ってはいけない人物だった。

 影狼は紙一重の差で、この男の目をかいくぐることができなかった。

 運悪く鉢合わせになったのは、建物の間の小道を抜けて、何度目かの開けた場所に出た時のことである。

 なにやら念仏のような声が聞こえた気がして、その方を向いてみると――

「見かけない面の子供……見かけない面の子供……ん?」

 恐ろしい男と目が合ってしまった。

 影狼は反射的に雷霆を突き出し、小さな稲妻を走らせる。

『雷霆・雷撃らいげき!』

 だが、稲妻は巨大な刀に阻まれて、目標には届かなかった。邪気で制御しているからだろうか、本物の稲妻のようにはいかないのだ。

 男は刀の陰から顔をのぞかせ、ニッと笑った。

「お前かぁぁあーーーーー!」

「なっ!」影狼は頭を混乱させたまま逃げ出した。「なななっ……」

 ―――なんであいつがこんな所にいるんだよ!?

 追いかけて来るのは清末利一。奇兵の中でも、影狼が一番戦いたくなかった相手だ。三の丸には絶対いないと思っていたのに、とんだ誤算だった。

 伽羅倶利の合戦で見た大技を思い出し、影狼は建物の裏に駆け込む。常識的に考えれば、さすがに仲間の砦の中で、あの技は使えないだろうと思ったのだ。

 ―――落ち着け、これまで通りいけば大丈夫だ。逃げ切れる!

 そう自分を奮い立たせた矢先、嫌な音が耳を刺激した。

 バキバキ、ベキキッ!

 次の瞬間、建物がバラバラに砕け、巨大な空気の塊が影狼を吹き飛ばした。

 飛ばされた先にあったのは米蔵。影狼はその壁を突き破って、米俵の山に激突した。

「ぐえっ!」

 激突の衝撃で息が詰まりそうになった。飛散した木片がぶつかったのだろうか、身体の各所が痛い。

 だが、休んでいる暇はなかった。

 壊れた壁の向こうを見ると、すでに清末が二発目を繰り出していた。

『血海鼠・山割やまわり!』

 縦長の風圧が、地面を抉りながら接近する。明らかにさっきのと違う。

 影狼はとっさに蔵の右奥へ飛び込んだ。

 数瞬遅れて、米蔵は鋭い風圧を受けて真っ二つに割れてしまった。それから音を立てて崩れ去る。

 ―――無茶苦茶だコイツ……!

 切り裂かれた俵から米が流れ出るのを見て、影狼は息を呑んだ。

 砦をなんの躊躇もなく破壊するとは。妖術の規模と言い、戦い方と言い、なにもかもが常識外れだ……この男は!

 技を放つと同時に、清末は影狼との距離を詰めている。あんな大剣を担いでいるのに動きもなかなか速い。簡単には逃がしてもらえそうになかった。それに、これだけ派手な技を使うのだ。影狼の居場所は他の奇兵にも知られているに違いない。

 逃げるのも戦うのも絶望的。状況はかなり切羽詰まっていた。

 望みがあるとすれば――

「!」

 清末が刀を薙いだのを見て、影狼は丈夫な井戸に身を隠す。

 その上を、建物の残骸が通り過ぎる。

 再び清末に視線を移し、影狼は腹をくくった。

 ―――ビビるな! ちゃんと動きを見てればかわせる!

 影狼は、清末の周囲に奇兵が近寄らないことに気付いていた。あの大技の巻き添えになるのを恐れているのだろう。

 このことから影狼が導き出した作戦は、二つの選択肢の間を取るようなものだった。

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