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どうにか下半身だけはすっきりした状態でリビングへ行くと、壁際に置かれた馬鹿でかい液晶TVとその隣りのノートPCとの二つの画面にちらちらと目をやりながら、部屋の中央に置いてある楕円形のローテーブルの前に座った一面日章旗柄でダボダボのTシャツを着ている銀髪で短髪のミクが、ロールから切り取ったアルミホイルの『うねうね』を折りたたんだティッシュで延ばしている最中だった。PC画面には白人ものの裏DVDが声無しで再生されていて、TV画面にはニュース番組が声有りで映し出されている。そして後ろの壁一面に貼られたTV以上に馬鹿でかいキル・ビルのポスターの足元に置かれている古いと言うよりは骨董品と言った方がふさわしいSONY製の赤くて細長いWラジカセからは、わざわざCDからカセットテープへと落とし込まれたブランキー・ジェット・シティの『C.B.Jim』が小さめの音量で流されている。ラジカセはこの部屋のオーナーのルシが数ヶ月前に近所のリサイクルショップで見かけて懐かしさのあまりに衝動買いしたということだ。そんなことを思い出しながら早速ミクの向かい側に腰を下ろしたぼくも、彼女と同じようにしてアルミホイルのしわを延ばしにかかる。とっ散らかったテーブルの中央に神々しくそびえ立っている半透明の結晶が首までぎっしりと詰まった親指サイズのガラス瓶に目を細めながら──スピード。メタンフェタミン。覚醒剤。シャブ。ヒロポン。けど、名前なんて今はどうでもいい。とにかくこれが月に一度ぼくにタクシーを使わせる張本人ならぬ張本物資、『わけ』だ。
「あれ、今日は親戚の集まりでお泊りじゃなかったの? お父さんの十三回忌」
画面と手元の交互に視線を這わせながら、ぼくの方を見ないままミクが言った。
「それは今夜。しかも泊まらないからね。つか、ラストがなかなか思いつかなくてさー」と思うように延びてくれないアルミホイルと格闘しながらぼくは応える。ついでに左腕に巻いたG-SHOCK DW-5600を見ると、デジタル時計は0時31分を表示していた。
「何それ、新作?」
「んだ」
「題名は?」
「『お兄ちゃんの生エロミルク、色んな方法で搾りたいし飲みたい』。どう?」
ミクが初めてまともにぼくを見た。ミクの髪の毛は文明開化の音が聞こえそうなほどのざんぎり頭でムラのない綺麗な銀色に染められているのだけど、残念ながら顔の方はそこまでじゃない。と言うかはっきり言ってブスだ。頭に『ど』をつけてもいいくらいの。
「まーた妹に怒られるよー」ミクが言った。「確か、前のやつもそれ系の題名で説教されたって言ってなかった?」
「妹の話はよせよ」
「あ、お兄ちゃんにだったか。『兄貴に種付け大作戦/まとめ』で」
「どっちにもこっぴどく怒られたよ。兄貴の話もよせよ」
同情するようにミクは笑った。「コウヘイも大変だねー。兄は弁護士、妹は東大院生。おまけに死んだお父さんは、将来を有望されてた作家さんってきてんだから」
「あくまで有望されてたってだけだよ。親父の話もよせよ」
「けどすごいことには変わりないじゃん。フランスの有名な賞とか獲ってんだし、おまんまだって食べれてたんだし。なのにその息子ときたら哀しいかな、高卒のしがないコンビニ店員で、よりによってエロラノベ作家志望プラス万年予選止まりのアラサージャンキーで……ねえ、お父さんのコネとかないの? あったら使っちゃえばいいのに」
そう、ぼくはコンビニでのアルバイトと同人雑誌による稼ぎでなんとか生計を立てながら作家デビューを目指す、三十路寸前の男だったりする。そして応募作を一本仕上げる度にこうしてこのマンションまでやって来て、みんなと一緒に違法薬物を嗜むのが日課と言うか、月課になっているのだ。
「ぼくの話は一番よせよ」調子を強めてぼくは言った。「コネはないけど、そういうの嫌いだから。それに作家に学歴とか歳なんて関係ないし、たかがドラッグ程度さえやったこともない人間の書いた小説なんて読む気もしないよ。する?」
「ごめん、わたしはするかな」あっさりとミクは言った。
ついでに言うと、ミクの職業は中堅の彫師で、ぼくとミク自身を除いた全員に入っている入れ墨は、全部彼女が彫ったものだ。
「てか逆にドラッグも殺人もしたことのない普通の人の書いた普通の小説しか読みたくはないかな。だって変態は自分らだけで間に合ってるからね?」
まるで人でも殺したことがあるような言い草だったけど、そこはやり過ごしてぼくは言った。「ミクの場合は、環境が特殊すぎるんだよ」
「そうかもだけど、コウヘイはいろんなことにこだわりすぎなんじゃない? この世知辛いご時世に本気で作家になりたいってんなら、コネがなくって悔しいってぐらいの気概がなきゃいくないんじゃないの? あんま細かいこと言ってると、人生すぐに終わっちゃうよ?」
「ぼくはむしろ細かいことを全否定して強気のつもりなんですけど」
「それでエロラノベなんだ」
「エロラノベこそが小説の最前衛なの。ってゆうかタイトルの出来を訊いてんですけど」
はいはい、タイトルねー、とミクは言った。「まあ悪くはないけど、ちょっと露骨すぎるんじゃないかな。あとちょっと流行意識しすぎ?」
ぼくはミクの言葉を借りた。「でもこのご時世さ、それくらいしなきゃインパクト足りなくない?」
「ってもあんま行きすぎると勃起してもらえなくなっちゃうよ? お文学と違ってエロはシンクロしてもらってなんぼなんだから。それと現実問題、買うときにひたすら恥ずかしいじゃん」
「その辺は大丈夫。今は電子書籍でこっそりと買える時代だから」
「あそっか。だからせめて題名くらいは派手にしとかなきゃってことなんだ」
『せめて』という言葉が悔しくてぼくは食い下がった。「いやいやいやいや、今回は中身の方がすっごいからね?」
「まあ本になったら何冊か持ってきなよ。ちゃんとお金払ったげるからさ。どうせまた同人誌に載せるんでしょ?」
ミクはぼくが落選作しか同人誌に載せないことを知っているのだ。よって『どうせまた落選するんでしょ?』ということを暗に言っているというわけだ。
うっかり破いてしまったアルミホイルをくしゃくしゃに丸めつつぼくは言った。「読んでくれるんですね、ありがとうごぜえますだ」
「他のが面白いかもだからねー。あと挿し絵がどんなのか気になるし。てかようやく捕まったんだね、これ」
「……………………」
さらりとしてはいるものの容赦のないミクの言葉に何も言えないまま見てみると、昨日捕まった女児同時誘拐暴行殺人事件の犯人の顔写真がTVの画面の方に映っていた。そいつはやたらと多い髪の毛を七三に分けているごく普通めの中年男なのだけれど実はとても凶悪で、今から半年ほど前に小五と小六の二人の女の子を同時に誘拐したあとで乱暴して殺害し、死体を写したポラロイド写真と共に、レイプ中のものだとしか思えない泣き喚く二人の声と、ボイスチェンジャーで変換した自分の喘ぎ声とを録音したカセットテープをめいめいの両親へ送りつけるという下劣な行為まで行っていた。
「ほんとだ」ぼくは言った。「よかったね捕まって」
「けどもう一件の方は否定してるらしいよ。絶対嘘に決まってるのにね。死刑回避できるとでも思ってんのかな」
ミクが言っているのは、この事件の約三ヶ月後に起こった、ほぼ同じ手口の『幼女』誘拐暴行殺人事件のことなのだけど、ぼくは何も答えずにTVを見つめ続けている。画面が切り替わり、パトカーの後部座席中央に座る犯人の顔をフラッシュ撮影で捉えた瞬間の映像が映し出される。
ミクがぼくの顔を見た。「っていうかコウヘイ、あんたいくらエロ作家志望だからって言っても幼女ものだけは書かないでよね」
「約束はできないよ。需要があることは確かだから」
ミクはスピードの結晶を直に舐めたような渋い顔で、なあにがジュヨーよー、と言った。「そんなの読むやつら全員死ねばいいのに。あんただってそう思うでしょ? てか思いなさい」
「思うけどさー、それくらいは大目に見てあげようよ。性癖は自分じゃどうしようもないんだし、あくまでもフィクションの世界なんだし。DVDとか写真はもう駄目だけど、小説は今のところ、まだ法律で禁止されてるわけじゃないし、抑止力にも──」
「法律とか抑止力とか、そんなの関係ない」とリアル般若の顔でミクが遮る。「もし書いたとしても、持ってきたりなんてしないでよね。絶対に読まないから。その前に書いたことさえも言わないで。ムッカつくから」
ミクは母親役でも女王様役でもなんでもそつなくと言うよりはいっそ愉しんでこなすことのできるかなり自由度の高い女なのだけど、レイプものと極端に年齢の低い児童ポルノものだけは無条件に許せないらしい。まあその二つを許せる女はめったにいないとは思うのだけど。
と言うかぼくだってできることならそんなもの書きたくはない。近親相姦ものやボーイズラブものだったらこれまでにだって何作か書いてきたし、まだ書いたことはないけれどレイプものだってそのうちに書いてしまうだろうとは言え、さすがに幼女ものにだけは抵抗があるからだ。中学生以上ならまだしも、小学生以下の子供が陵辱される場面なんてどうしても書ける気がしない。そんなわけで、ん、わかったよ、とまた破いてしまったアルミホイルをくしゃくしゃに丸めつつぼくは言った。
「ところでさ、今度黒人もののビデオ持ってきてよ。持ってる?」
ぼくの手元を見かねたミクが、たった今鏡のようにぴかぴかに延ばし終わったアルミホイルの板を渡しながら言う。リモコンほどの大きさの、縦半分に谷折りにされた細長い板。ありがと、じゃあ次持ってくるよ。ぼくは受け取ると、その辺に転がっていた『万札製』の短いストローを咥え、これもその辺に転がっていた『タミヤの調色スティック』で板の端っこにすくって載せた一杯分の瓶内の結晶を、その辺にあった百円ライターで下からあぶった。そうして結晶を反対端までゆっくりと滑らせながら気化させたスピードの真っ白い煙を、万札ストローを使って残さずに全て吸い込む。しばらくの間息を止めたあとで、ふうと吐き出す。同じことを何度か繰り返す。繰り返しているうちに、頭の片隅で膝を抱えていた眠気と倦怠と、いまだに続いていた吐き気とがすーっと消えて、軽いけれど、確固とした興奮だけが残った。
「落ち着いた?」TV画面を見たままでミクが言った。
「おかげさまで」ミクの横顔を見て、既にスピードががっつりと効いていることがわかる。まるで試合後のボクサーみたくどブスなはずのミクが、けっこうないい女に見えるのが証拠だった。とは言えしらふのときだってぼくはミクのことが嫌いじゃない。なぜならミクは、ご先祖さまからもらい損ねた美貌の代わりに、女にしては珍しく物事を正確に見きわめることのできる『目』を持っているからだ。なんだかんだ言ってみてもその辺はよくわかってる。でなければ応募作のタイトルをわざわざ相談なんかしたりはしない。
こっちを向いた拍子に、ぼくの額の生え際にちらりと視線をやったミクがぼそりと言った。「最近まーた広くなっちゃったね、デコ」
訂正する。彼女の目は『節穴』だ。
「あーあ、中学の頃は、ツバサを凌ぐほどの美少年だったのにねえ」
「今後はジュード・ロウ路線でいくんだよ」ジーンズのポケットから取り出したマルボロメンソールライトに火をつけてぼくは言った。「それより、他の二人は?」
「二人って?」
「ルシとツバサ」
「えーとね、ツバサは寝室。知らない誰か連れ込んで、ファッキンガム宮殿建設中」
「マジで?」
「大マジ。太一がさっきからちょこちょこと盗聴しに行っては、頼んでもないのに報告してる」
そう言えば太一が戻ってきていないな、とぼくは思った。「知らない誰かってそれ、男? 女?」
さあ、と興味なさそうにミク。「太一いわく女らしいけど」
「おかまじゃなくて?」
「あの声は女だって」
「珍しいねえ」
たまにはおまんこがいいんじゃないのー? とミク。「つーかラブホでやってよって話じゃない? いろんな意味で」
ぼくは頷いた。「にしてもよくルシが許したね、部屋使うの」
「そう言えばそうだね」
「で、ルシは?」
「隣りの部屋で、ずっーと電話中」
「誰? テラさん?」
「とかあと、謎の人物Kさんとか」
「謎の人物って誰それ」
「だから謎なんだってば」
「えでも、Kってイニシャルはわかってるよね?」
「それは、電話来たとき、たまたま見ちゃったサブディスプレーにKって表示されてたから。そのときルシの携帯、テーブルに置いてあったから」
「へー、でも誰だろ。遂に彼女ができちゃったとか?」
「だとしたら相当な熟女かもね。なんかしゃべり方妙にかしこまってたし」
「ルシならありえるかもね。ってゆうかテラさん関係ならわっるーい仕事がまた入っちゃうってことかな」
「知んない」
「ですよねえ」
そこで異常に嫌がるアメリカンショートヘアーのデブ猫ミッキーを超強引に抱いた太一が、玄関側のドアからリビングに入ってきた。それを見たミクが手を止めて太一を怒鳴りつける。「太一っ!」
「あーにー?」
「降ろしなよ、めちゃくちゃ嫌がってるじゃん」
あくまでも降ろすつもりはないらしく、太一は両腕の中で捕れたての鰹みたいにじたばたと暴れているミッキーを一度肩にしがみつかせてからしっかりと片腕で支え、自由になった方の手のひらを、猛スピードでさまざまな形に変化させ始める。その動きから判断するに、一般的なジェスチャータイプではなく、五十音の一字一字を正確に伝えることのできる『指文字』が行なわれていることだけはわかったものの、何を言っているかまではぼくのレベルではわからなかった。動きがちょっと速すぎるのだ。
「なんて言ったの?」ぼくとは違って完璧に手話を操れるミクに訊ねる。
「ミッキーはぼくと同じで真性のMなのだ、だってさ。あほくさ」
「はは」
馬鹿じゃないのあんた、そんなわけ、ないでしょうが、いいから早く、降ろしなさい、と大きめの声で手話を交えながら言ったミクの言葉を聞き終えてから、と言うか見終えてから、ミッキーの前足の爪が肩の肉に強力にめり込んでいるのをものともせずに、また太一が猛スピードで手のひらを動かし始める。
「今度はなんて?」
「じゃあSなの? だって」つまらなそうにミクが答える。それから太一に向かい、知らないよそんなの、馬鹿! とまた手話を交えながら言った。
ミッキーを強引に抱いたままの太一が口を丸く開けながら、頭を少しだけ下げ、一本だけ立てた両手の人差し指を、上下に交互に動かした。今回はゆっくりだからぼくにも理解できた。これはジェスチャータイプの方の手話で、じゃあどっちですか? という意味だ。
ミクがテーブルを叩いた。「コラッ、太一っ!」
まるでコントのように肩をビクつかせてわざとらしく驚いたあと、太一は意外にも素直にミッキーを降ろそうとしたのだけど、やはりそれはふりだけだった。降ろしてくれーとフローリングをカシャカシャと引っかき続けるミッキーの姿をどう見ても心から愉しんでいる。ミクが立ち上がり、またコラッと怒鳴りつけた。それでようやくミッキーを放した太一だったが、またしてもそれはふりだけだった。終いには部屋の隅に常時置かれている、細長いビニール袋に入れられた謎のロール紙のてっぺんにミッキーを乗せ、そのロール紙をなんと上向けた自らのあご先に載せ、ミッキーが降りられないように前後左右に素早く動き回りながらも巧みにバランスを取るという曲芸まがいのことをしだす始末だった。気の毒なミッキー。猫なのにミッキー。その前に雌なのに。むろん彼女の名付け親は言うまでもなく太一なのだけど。
とは言え今から二ヶ月くらい前の真夜中に、みんなで悪ノリして首吊り死体を捜しに行こうと富士の樹海までドライブへ行ったとき、天津飯並みの視力の持ち主である太一に奇跡的に発見されたことを鑑みると、ミッキーも文句は言えないのかもしれない。なぜならミッキーが閉じ込められていたキャリーバッグにはしっかりと鍵がかけられていて、道路からは見えない木陰に置かれていたのだから。
ミクがもう一度怒鳴って太一がバランスを崩した隙に、ミッキーはようやく逃げだすことができた。
「猫はね、かまわれるのが嫌なの。一体あんた、何回言えばわかんのよ」
太一が左右にぶんぶんと首を振り振り、右の眉尻に五つも付けられているリングピアスをじゃらじゃらと鳴らした。それを見て座りかけていたミクがさっきぼくの丸めたアルミホイルを太一目がけ、華麗なるサイドスローで投げつけた。でも太一はなんなく口で受け止めて、そのままミクの隣り、つまりはぼくの右側に落下するようにどすんと腰を下ろし、ぼくにでもわかるくらいのゆったりとしたジェスチャータイプの手話で言った。
(さっきはどうもっす、コウヘイくん)
ところでこの、〜っす、という言葉遣いは実際に太一が手話で言っているわけではなくて、ぼくが太一に抱いているイメージの現れに過ぎなかったりするのだけれどそれはさておき、気にしてないよ、と手話をしない代わりに、太一にわかりやすいように唇の動きをいく分大げさにしてぼくは言った。
(いいパンチだったっす)
「気持ちよかった?」
(最高だったっす)
「この変態!」とテーブルの前に座り、再びアルミホイルのしわを延ばしにかかりながらミク。「てかあんた、いつまでアルミ食ってんのよ。見てて不愉快だからね、いい加減にやめときなよ」
太一が咥えていたアルミホイルをぼとりとテーブルに落としつつ、痺れたようにへらへらと笑った。変態と言われて感じているのだ。
「汚いよ、馬鹿っ!」
太一は応える代わりに、ミクに施術してもらったという先端が二つに裂けているご自慢の舌先を、これでもか、というくらいミクに向かって突き出して、器用にも遺伝子モデルのようならせん状にしてみせた。はいはいわかったからもー、と言ったミクに続いて、あいかわらず痛そうだよねそれ、とぼくが訊くと、太一が無駄に敏捷なる動きでこっちを向いた。
「おれれうら? れーんれんいあうらんれらいれるよ」
これですか? ぜーんぜん痛くなんてないですよ、と言ったのだ。そのあとでなぜか必死になって、舌先を球のピアスが二つも付いた鼻頭につけようとし始める。
太一はぼくと同い年なのだけど、こんな風に、敬語で話す。それは何もぼくに限っての話じゃなくて、彼はたとえ相手が老人だろうが乳幼児だろうが関係なく敬語を使う、ちょっと変わった男だったりする。
何が何でも舌先を鼻に付けようとして、不安になるほどの寄り目になっている太一をちら見してミクが言った。「なんとかしてよコウヘイ。こいつ、今度ちんこも同じようにしてって言うんだよ?」
煙草を灰皿で消しながらぼく。「え? ちんこを? ちんこを同じようにするって何それ」
「だから、ちんこの先っぽを二つに裂くんだって」
「なんでまたそんなこと」
「Hの感度が増すんだってさ」
「ほんとに?」
舌先を鼻につけるのをいともあっさりとあきらめた太一が、スティックでてんこ盛りにすくった瓶内の結晶を直接鼻で吸い込んでから、顔の前で立てた手のひらの人差し指側で、あごをとんとんと二回叩く。それから肩幅で立てた両手の人差し指を胸の前で一度合わせたあと、開いた右手の人差し指を顔の横でちっちっと左右に二回振ったあとで、ぼくに向かって手のひらを差し出した。どうやら、コウヘイくんも一緒にどうっすか? と誘っているらしい。
「やめとくよー、ぼくは」
ぼくが言うと、太一は本気で残念そうな顔をしながらもう一度、今度は逆の鼻の孔でさっきと同じくらいのスピードを吸った。
「ちょっとあんた、そういうもったいない吸い方やめてよね」
ミクの言葉を受けて、『すいません』という手話をやけに大げさに使った太一を二人してスルーしたそのとき、隣りの部屋へと続く洋式のふすまが開き、ルシが姿を現した。くっきりと割れた腹筋が浮き彫りになるほどにぴっちりとしたナイロン製の黒いノースリーブに、細身の濃いブルーデニム。まるでギリシャ彫刻のように端麗な顔を覆う、肩まで伸びた黒髪がさらりと揺れる。
「おう、来てたかコウヘイ」ほんの少しだけ癖のある髪の毛と同様の、しなやかに低い声でルシが言った。
「ついさっきね」
ルシがぼくの左隣り、太一の向かい側に座り、立て膝をついた。「で、未来の作家先生はいつになったらおれらの仕事を手伝ってくれるんだ?」
「その冗談もう聞き飽きたから」
ルシは目の前にあったショートホープを
「冗談なんかじゃねえさ」ルシはライターを丁寧に元の場所へ戻した。「この仕事には、お前みたいに堅気まるだしの人間がいるんだよ」
ルシの言う『この仕事』というのはドラッグの売人のことで、ルシはツバサと太一と共に、この地域一帯を仕切っているドラッグの売人たちの、元締め的な存在だったりする。とそうは言っても本当の元締めなわけじゃなくて、真の元締めはルシたちの更にもう一つ上のポジションにいて、ルシたちはその人間から定期的に品物を仕入れ、下の売人に卸すという寸法だ。そしてその売人は自分よりも更に下の売人に卸し、その下の売人が街に出て末端の客に売りさばく。
「ぼくには無理だよ、売人なんて。ポルノ作家がせいぜいってとこ」
「ポルノ作家で売人、いいじゃねえかクズのエリートっぽくて」
そう言うとルシは煙草を灰皿に置き、目の前の白い壺状の陶器製嗅ぎ煙草入れ──龍の絵柄が青と金を主体にした水墨画のそれのような筆致にて描かれている──の中から片栗粉のような純白の粉末を、右手甲側の親指の付け根に振り出して、両方の鼻孔から一度ずつ吸った。それはルシ専用のドラッグ、つまりはコカインの入った容れ物で、無防備に置いてある割りに、ルシの了解無しに他の人間が触ることは絶対に許されていない、禁断の壺だ。以前太一がこっそりと吸っていたのがばれて、顔全体がぶどうみたいになるまでしこたまに殴られたことがある。それ以来太一の前歯はルビーやサファイア並みの強度を持つと言われている、ジルコニア製でインプラント式のものになった。ルシが慰謝料代りにと、最高級の歯を入れてやったのだ。とそれはともかく、ルシはコカインだけを吸う日本人にしては珍しいタイプのジャンキーだったりもする。
つーかさっきから売人売人って言わないでほしいっす、と太一が横から手話で口を挟んだ。脇に置いた箱の中から何かを取り出してはボリボリと食べている。
「じゃあ一体なんて言うのよ」とあいかわらずアルミホイルのしわを延ばしながらミク。延々とアルミの板を作り続けるのが、『決まってる』ときのミクのお気に入りの行為なのだ。
(ちゃんとディーラーって言ってほしいっす)と手話で太一。
「そんなのただ英語にしただけじゃん」とミク。
(えっ、そうなんすか?)と太一。
「ああそうだぞ」とルシ。それはそうとルシもミクと同じくらい完璧に手話を操れる人間だ。そしてそれはツバサにも同じことが言える。中学生のとき、ざっとでいいからこれで勉強してやってくれ、と言って手話の本を仲間内の一人一人に配って回っていたルシのことを思い出した。
(そうなんすか?)ともう一度太一。
「そうだよ」とぼく。
「んえ〜」と今度は声で太一。「あいっあー」
まいっかーと言ったのだ。そしてまた箱から何かを取り出してぼりぼりと食べた。
「はい出た、太一お得意のまいっか。てかあんた、自分が何食べてんのかわかってんでしょうね」
(? お菓子っすけど?)
「ミッキーの餌じゃんそれ」
(えっ、ミッキーってポリンキーが好きなんすか?)
「じゃなくてフリスキーだよそれ」とぼく。
(まじっすか)
「大マジよ、馬鹿」
「いわっ!」と太一。「あいっあー」
「よくないでしょうが」
「いや、いいんだぞ」とルシ。
「んえ〜」と嬉しそうに太一。それからまたフリスキーをボリボリと食べた。
「けどスピードやってんのに、よくもの食べれるね」ぼくは訊いた。スピードをやるとまったくと言っていいほどに、食欲がなくなるものなのだ。
手話で答えたあとにぐっと突き立てた親指を太一がぼくに向ける。(だって草も吸ってるっすから!)
その逆で、マリファナをやると異常なほど食欲が湧いてくる。
「いばる意味がまったくわかんない……」
ミクが首を振りながら新しいアルミホイルを引き出したとき、ルシの携帯が鳴った。電話に出ながら隣りの部屋に戻ったルシと入れ違うように玄関側のドアが開き、ツバサがリビングに入ってきた。真ん中分けでサラサラな坊ちゃん刈りの髪は濃いめのブロンドで、身長も女子の平均にさえ届かないくらいで、上下黄緑色のスウェットを着ているために、遠目でみればピーター・パンのコスプレをしているように見えなくもない。でも近くに来ると、軟骨をいじって両耳の先端を尖らせていることもあってか、ティンカー・ベルのコスプレと言うよりは、もうティンカー・ベル本人のように見える。おまけに肩甲骨に二枚の妖精の羽のブランディング──火傷による刻印。これもミクにしてもらった──をしているために、上半身裸になると、余計妖精じみて見える。と言っても羽のデザインは普通と少し違っていて、飛ぶことができそうにないひび割れた柄なのだけど。あとツバサは上あごの犬歯を二本とも削って尖らせていたりもするのだけれど、これはビジュアル的な効果よりも、実用性を重視したということらしい。つまりSMプレイ用にということだ。
「んあー、ツアサうんあー」と言ったあとに、(あの人、もう帰ったんすか?)と手話で太一が訊いた。
ツバサは無言のままにぼくの隣り、さっきまでルシが座っていた場所にとんと腰を下ろす。
「おすツバサ」
「? コヘイか」
たった今気が付いたように、いつまでも覗き込んでいたくなるまでに澄んでいる青と灰色のオッドアイでぼくを見て、バイリンガルならではのイントネーションでツバサが言った。タイ語がまったく駄目な太一とは対照的に、その気になれば流暢に母国語である英語を操れるツバサ。イギリス人の母親に徹底的に仕込まれたらしい。本人いわくイギリスじゃなくて『スコットランド』らしいのだけど、違いがぼくにはよくわからない。黙って道具を手に取ると、淡々とした手つきで気化させたスピードを吸い始めた。
「何よ暗い顔して。どうしたん?」と、ぼくが言おうとしていたのとほぼ同じ内容のことをミクが言った。
すぐに煙を吐き出したあとで、ベツニ、と言葉とは裏腹に、あきらかに元気のない声でツバサが応える。
「別にってあんた、平気? 顔色がよくないぽいけど」
「元からだもん」
「つまんないから」
即ミクがそう返したのは、ツバサが肌の色を気にしてよく言う冗談を、今回も言ったと思ったからだ。それにしてもツバサの顔色が、いつもよりもずっと白いと言うよりは青白い気がしてぼくは訊いた。「大丈夫なの? なんか真面目に顔色悪いみたいだけど」
「ダイジ」
「だったらいいけど」
短小とでも言われちゃったとか? と真顔でミク。「てかあの人は? まだ寝室にいるんだよね?」
ツバサが返事をする前に、(えっ、短小なんすかツバサくんって)と太一が手話で訊ねてくる。
「まさか。ツバサの超でかいよ?」と拳を口の前で動かしてぼく。「あと『これ』すっごくうまいし」
(まじっすか)
「今度お願いしてみなよ」
(ほんとっすか)
ぽつりとツバサ。「太一タイプじゃないから、ヤ」
「んえっ?!」
再びアルミの板を作り始めながらミク。「っていうかほんと暗いよ? どしたのあんた」
「……あのね、実はね──」
そこまでツバサが言ったとき、ルシが勢いよくドアを開けた。「おい、今週沖縄行くぞ」
直後、んえ〜っ! と太一が歓声を上げる。いきなりなんでよ? とミクが訊ねる。ツバサとぼくは各々一口スピードを吸った。
「決まってんだろ、仕事だよ仕事」と火種を指先で揉み落とす、独特の方法で煙草を消しながらルシ。それからまたさっきと同じようにしてコカインを一口鼻で吸った。「今回のはな、でっけえぞお」
「そんなに大きいの?」思わずぼくは訊いた。
「ああ、とびっきりだ。この稼ぎだけで、三年はみんなで遊べるってレベルのな。しかも超棚ボタ案件ときてる」
きっと日頃の行いが報われたに違いねえな、と独りごちているルシにぼくは訊ねる。
「それってやっぱり、薬の取り引きなの?」
「あ? まあ、だな。なんだよ、取材のつもりか?」
「まさか。企業秘密なら別にいいけど」
ルシはにやりと笑いながら、簡単に説明してくれた。地元の不良高校生たちが浜辺で拾った密輸船の落し物=㎏単位の覚醒剤をルシたちの『上司』であるテラさんが買い叩くから、ルシと太一とツバサも立ち会えという話だった。その理由はいろいろとあるものの、どうやらメインは『脅し』のようで、後々高校生たちが変な気を起こさないように、三人の姿を直接見せておきたいということらしい。それを聞いてぼくは心から納得した。彼らとは中学時代からの友だちだからこそこうして普通にしゃべることができるのだけど、もしもそうじゃなかったら、絶対に関わり合いたくはない人種なこと請け合いだからだ。写真や画像等で見る分には笑って済ませられるけれど、ここまで好き放題に人体改造を施した三人が実際に目の前へ並んだときのインパクトと恐怖はちょっと言葉では表現しきれないものがある。仲の良かったぼくでさえ初めて見たときはそうだったのだから、粋がることが仕事と言ってもいいような不良高校生らが相手なら効果てきめんに違いない。そもそもルシなんてきたら、格闘家以外の職業が想像できないくらいにいかつい体格ときているのだ。
とそれはさておきミクから言わせると、一年中ユニクロしか着ない一般人の代表選手かのようなこのぼくこそが、実は仲間内で最も変わっていて怖いということなんだけど。ミクだって脱げば腰一面に蓮の華の鮮やかな入れ墨が彫られているなかなかの暗黒系ビッチのくせにだ。と、言うのも……
「コウヘイ、お前も行くか?」ルシが言った。「手伝えなんて言わねえし、旅費も全額出してやるぞ? ──おい、どうした?」
ぼくは目をつぶり、こめかみをさすった。「大丈夫、何でもない」
「あれ、まーたご神託降りてきちゃった?」とミク。
そう、ミクいわくなにげにぼくが一番変わっていて怖いという理由は、こうしてたまにやって来る、ごくごくささやかな予感にあったりする。コウヘイがこめかみをさすると近いうちに誰かが死ぬ、といつからかミク(だけ)が言い出して、勝手に統計を取っているのだ。どうやら彼女いわく、的中率は四割五分くらいらしい。半分以上外れるってことはただの山勘だね、と言ったぼくに対し、でも野球で言ったらあのイチローを余裕で超えちゃうんだよ? と返してきたいつかのミクとのやり取りを思い出した。
「ご神託なんて大げさすぎるから。予感ってのが精一杯ってとこ」ぼくは言った。
「あ、やっぱそうだったんだ」
「……まあ、ね」
太一が大げさに二回も十字を切って、自分の左太ももに彫られた聖母マリア様の入れ墨にではなく、なぜか右の太もものミッキー・マウスに向かって両手を握り合わせた、直後だった。さめざめとした感じではあるものの、ツバサがはっきりと声に出して泣き始めた。
「ちょっ、なんでよツバサちゃん」
反射的にミクが言って笑ったけれど、ある意味でそれは当然のことだった。なぜならツバサの視線はTVにではなく、裏DVDが再生されている、PCの方に釘付けになっていたからだ。見ると、画面の中では性器を結合させた白人の男女が互いにゆっくりと腰を振りながら、恍惚の表情を浮かべていた。
(ホームシックじゃないっすかね)と、どうやら真剣に手話で言った太一の額の角と角の中央を手のひらでぺちんと叩いたミクが、心配そうな顔でツバサの肩に手を置いた、瞬間だった。突然ツバサが身体を折り曲げながら床へと顔を突っ伏して、わっと声を上げて泣き始めた。「ヤだよ、行きたくないもん、行きたくないもんツバサ」
本気で驚いたらしい太一が「んえっ」と短い声を上げて、後ろへすとんと尻もちをついた。ぼくを含めた他の三人はどちらかと言うとあっけに取られたという感じで黙ったままツバサのことを見つめている。
「ちょっとツバサー、何も泣くことなんてないじゃないよー」とツバサの脇へ移動してしゃがみ込み、黄緑色の背中をさすりつつミクが言った。「だったらミッキーと留守番してなよ、ね? わたしも行くつもりだったけど、一緒にいてあげるから。ルシ、いいでしょ?」
「ったく、しょうがねえな」とルシ。「おいツバサ、そんなに嫌ならお前、行かなくていいぞ」
(まじっすか)と複雑そうな顔で太一。太一はとにかく賑やかなのが大好きな男なのだ。
違うの、違うの、とツバサが泣いて言いながら、震える指で玄関の方を指さした。
「向こうがどうかしたの?」
ぼくが訊くと、ツバサは少しだけ床から顔を上げて、玄関の方を指さしたまま一言、寝室、としゃくり上げ気味に言った。寝室? その言葉にはっとぼくは思い当たった。そしてツバサが何を言おうとしているのかを一瞬のうちに悟ってしまった。と同時に、さっきの予感が当たってしまったことも……。
「……おい太一、お前ちょっと寝室行って様子見てこい」ルシに言われた太一が、んえ〜っ! と言って跳ねるように立ち上がって気をつけと敬礼のポーズをしたあとで、なぜか欽ちゃん走りをして寝室の様子を見に行く──見てみると、ルシもミクも、似たような硬い顔つきでツバサの小さな背中を見つめている。その表情から、二人がぼくとまったく同じことを考えているのが見て取れた。ほどなくして今度はなぜか、やたらと上手な見えないロープを引っ張りながら歩くというパントマイムで戻ってきた太一が、ルシの前でまた気をつけと敬礼のポーズをとってから手話で言った。(見てきたっすよ、隊長)
「おう、何があった」
(裸の女が一人死んでて、ミッキーがその上で『ふみふみ』してたっす)
言い終えた太一が左腕を上げて、今度はなぜか招き猫のポーズを真似た。
ルシが泣き続けているツバサに視線を戻す。「そうか……ツバサ、お前が殺ったのか?」
床に額をこすりつけるようにしながら大きく一度頷いたあとで、さっきよりもいっそう激しい泣き声と共にツバサが答える。「けど行きたくない、行きたくないもんツバサ……刑務所なんて絶対に行きたくないもん!」
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