第1章
1-1
Ⅰ
桜上水の自宅アパートを飛び出してようやくタクシーに乗り込んだときには既に午前0時を回っていた。慌てて運転手に行き先を告げる──笹塚まで。むろんタクシーで移動できるほどの余裕なんてぼくにはない。ないのだけれど、月に一度のこの日だけは迷わずに使うと決めている。なぜならどうしてもそうしなければいけない『わけ』が今のこの瞬間のぼくにはある。
甲州街道沿いの目的のマンションに近づくにつれて、いつものように下っ腹が強烈に引きつり始める。猛烈な便意と共に、すさまじい吐き気がのど元を襲う──何度も。このエネルギーの流れを言葉ではなく式で表すならば、こういう感じだ。
◇←E→*
「そこで停めてください」
絞り出した声で運転手に伝える。そろそろ限界が近い。また吐き気。便意。
◇←E→*
「釣りはいいですから」
用意しておいたしわくちゃの二千円札を金受けに置いて、ドアが開くと同時にアスファルトへと転げ落ちた。左右からびゅんびゅんと行き交う車の隙間をまるでマトリックスのように身を翻しつつ向かいの歩道まで辿り着くと、少しだけ奥まった場所に建っているマンションのオートロックドアをくぐり抜けて病人のような足どりで階段をのぼり始める。三階へ。一段踏みしめる度に背骨がきしむ。額にはきっと玉の汗。背中には多分世界地図が出現しているだろうけど、それは何もいまだに続いている残暑のせいだけじゃない。こんなときに限って故障中のエレベーターに対する憎悪を募らせ募らせやっとの思いで303号室のドア前に辿り着くと、冗談みたいに震えている指先でインターホンのボタンを押した数秒後、ひぃーという太一のいつもの気の抜けた声が聞こえてきた。
「ぼくだよ」
「たあれー?」
「コウヘイだよ」
「コォヘー? い、なあいよー?」
仕方がない。太一は
「あのね、ぼくがね、コウヘイなんだよ?」
「? コォへー? い、なーいな、いなー」
「なんでもいいからさあ、はよ開けてくんねえかなあ」
「んえ〜」
「いやんえ〜じゃなくて」
「んえ〜」
「お前さ、絶対それわざとだろ。つか普通にモニターで見えてるだろ」
「んえ〜」
「……おい、いいから早く開けろって!」
腹を押さえて唸るようにぼくは言った。そうしていなければ、胃袋が脱ぎ捨てた靴下みたいにひっくり返りそうな気がするからだ。にもかかわらず太一はもう一度、んえ〜と言った。愉しんでいるのだ。
「のやろうてめえ、絶対あとで、ぶっっっ、飛ばすからな!」
手話を交えつつぼくが言うと太一は、「ん〜、え〜っ!」と同じ調子で言い返してきた。
「……………………」
周りに誰もいないことを一度確かめたあとで、丸めた手のひらをインターホンのスピーカーに添え、可能な限り低い声でぼくは怒鳴った。「おい、いいか太一、ぼくはな、お前をあとで、『ぜっっったい』に──」
◇←E→*
はっはー、と思わずぼくは快活に笑った。
「……あの、すみません太一さん、大至急鍵を開けてください。でなければもう……うわ〜い」
「ん、んえ〜?」
「いえ、今のはその……それよりも早く、お願いしま………………」
永遠とも思える沈黙のあとに、にゃ、にゃぐにゃーにゃい? と太一が訊いた。それじゃ、殴らないよね? と念を押しているのだ。
「殴るわけないじゃありませんか〜」
上体を仰け反らし、カメラに向かってにっかりと笑いかける。いや殴るけど。
「……ふぉんふぉーい?」
「本当ですよ〜」絶対に殴るけど。
「いあう?」
「誓います誓います」殴るのをね。
「ふぉ──」
「ち・か・い・ま・す!」早く殴りてー。
ぶっという鈍い音がした数秒後、ガチャッという音と共に少しだけ開いたドアの隙間から、まんまラーメンマンみたいな弁髪の太一がぬっと顔を覗かせる。その毛先には赤いリボンまでもがちゃんと付けられていて、頭皮を含んだ全身には鯉だとか麒麟だとかトライバルだとか聖母マリア様だとかミッキー・マウスだとかのカラフルな入れ墨たちが、隈なくびっしりと彫られている。その上顔のピアスとボディピアスだけじゃもはや飽き足りないのか、それぞれの眉尻の上に小さな鋼鉄製の『角』までをも埋め込んでいるにもかかわらず、なぜか子供とおっさんが穿くような真っ白い前開きのブリーフにタンクトップなどとは間違っても呼びたくはないかの山下清画伯の着ているようなランニングシャツの一枚のみ、という出で立ちでおまけにタイ人とのハーフときていたりするものだから、当然のごとくに日本人どころかもうほとんど地球人にさえも見えなかったりする。左耳にかけている白い補聴器が最新式の『スカウター』みたいに見える。こっちは今やもう全身汗だくでちょっとでも気を抜こうものならばいよいよ人生で初の直立脱糞をしてしまいそうなほどのぎりぎりマックスな状態だったけれど、まだドアガードがしっかりとかけられたままだったからここはひとつ死に物狂いでぐいっと我慢してとびっきりの笑顔をお見舞いしてやろうと思い実際にそうしてやった。その笑顔が効いたのか、ほどなくして一度ゆっくりとドアが閉まり、すちゃっというガードを外す音がして、ようやく完全にドアが開いた、その、直後。ぼくは予定していた通りに一歩大きく踏み込むと、相手の顔の真ん中を一発、思いっ切り殴りつけた。とびっきりの笑顔はそのままに。殴られた鼻っ柱を痛いと言うよりはむしろ気持ちよさそうに手のひらで押さえながら、ふんがあ、と呻き声を発しつつ下駄箱へとしなだれかかった太一を横目にジャックパーセルを脱ぎ捨ててとりあえずトイレへと駆け込むと、急いでジーンズを膝元まで引きずり下ろした。
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