Escape to...

「ほら、もっと早く走って!」

「そんな……こと、言われ、てもっ!」

「もうっ、そんなんでどうすんの! 逃げてるんだよ、わたしたち!」

 僕たちは逃げている。何から? 例えばそれは、彼女を圧し潰す悲哀や、僕の中に渦巻く不安や焦燥から。

 でも彼女は、楽しげに笑う。制服姿のまま、本来向かうべき通学路と真逆の方向に全力疾走して、今この瞬間が、永遠に続いたらいいって、そんな顔で、笑う。

「もたもたしてると、連れていかれちゃうよ!」

 陸上部だった彼女は、息切れひとつしないで、軽やかに跳ね回る。時折、必死で後ろをついていく僕の存在を確かめるように振り返りながら、人気の無い朝の裏通りを、駆け抜ける。

「連れていかれるって、誰に!」

「やつらは、空からやってくるの!」

「やつら! って!」

 僕と彼女の間には、距離にして5メートルの、静寂。今日一日が立ち上がる準備段階、その静けさ、だけ。

「この前聞かせたでしょ! わたしを狙う、悪いやつら!」

 そんなやつらが、果たして本当に、この世界にいるのだろうか。この、平凡で、凡庸で、代わり映えがなくて、誰かの悲しみを根っこから取り除くことなんてできなくて、妬みが誰かの足を引っ張って、嘘と責任逃れがうず高く積み上がっていて、それでもただ、清く、美しくあろうとする少女がどうにか笑っていられるような、こんな世界に。

 分からない。でも、僕は、彼女を信じる。信じてやろう。彼女の逃避行に乗っかって、――君の隣で、その細い手と、不器用なこの手を、いつか……重ねて。

「ねぇ! ところで! 僕たちは、どこへ向かっているの!」

 彼女にはいつも、振り回される。引っ張られていく。太陽の下に、引き摺り出される。でも僕は、それが嫌いじゃない。心地良いとすら思う。君と一緒に居られるなら。同じ景色が、見られるのなら。何処へだって行こう。どうなったって、いい。今持っているもの、抱えているもの、全部全部投げ捨てて、新しい自分になって――。

 そうだ、何処へだって行こう。知らない場所でも、遠い遠い場所でも、誰も足を踏み入れない場所でも、校舎の屋上でも、いつものコンビニでも、線路の上でも、誰も僕たちを見つけられない、ふたりだけの世界でも――

「んー!」

 彼女が、走りながらくるりと、こちらに振り向く。髪が流れて、スカートが揺れて、その一瞬がまるで永遠みたいに、コマ送りされて、

「世界の――――」

 そこまで言って、彼女は、言葉を止めた。僕の頭上を越えた先の空を、淡い水色の空を、一瞬だけぼんやりと捉えて、そしていつもの可愛い、素敵な、なんだか悪戯っぽい顔で微笑んで。

「江ノ島――――っ!」


     ◇


「うあー、やべ、二日酔いかも」

「飲むか? サイダー」

「おう」

 ぷしゅり、と、未開封の炭酸が音を立てる。ハセガワコウスケは眠い目を擦り、手渡されたサイダーを乾いた喉に流し込む。

「あー、潤う」

 コウスケの一服が、立ち昇る気泡のように、朝の静かな住宅街に小さく広がる。

「シュウショクカツドウってのは大変なんだな」

 隣を歩くヒラオカマサユキがボトルを受け取って、それを飲む。

「嫌になるよ、本当に」

「その点、院進は楽でいい」

 両側をブロック塀が囲む、住宅地。車が二台すれ違える程度の道の真ん中を、二人の青年が、最寄りの駅に向かって歩いていく。

「まぁ、その分お前は研究頑張ってきたんだろ? 文系はさ、意識しないと雑に学生生活送れちゃうから」

「ツケが回ってきたってことだな」

「そういうこと。……だから、マジ、2限遅刻するとやばい」

 スーツ姿のコウスケが、腕時計を確認する。

「一、単位は計画的に取れ。二、新幹線を使え」

「……一については御尤も。二についてだが、お前は、自分の家が裕福であることに、もう少し自覚を持った方がいい。嫌味だからな、これ」

「金かけて、時間かけて、面接しに行くとかアホらしいな。スカイプでやれよな~」

 マサユキがへらっと笑う。志望企業の面接を終えた後、家に来たコウスケの表情が思った以上に沈んでいたことは気がかりだったが、一緒になって深刻になるには、自分には経験が足りないと、そう思っている。

「でもさ、頑張ってんじゃん、今」

「……まぁ、それなりにな。やっぱり環境変えたくてさ。地元だけしか知らないで歳取るのも、なんかイヤだし」

「世界を知ろう、というわけだな! それは、素晴らしい意志だ!」

「そう言われると恥ずかしいからやめろ。……まぁ、でも、そういうことなのかもしれないよな」

 コウスケは俯き、どこか躊躇いがちに、口を開く。

「……詰まるところ、憧れちゃったんだよ、お前の都会暮らしにさ」

 どうにも可愛らしいその返答に、マサユキはニヤリと口角を上げる。

「だから、自宅と研究室の往復だって言ってんだろ」


 ふらふらと、のんびり歩いてゆく二人の間には、十代の頃から変わらない距離。距離にして、95センチ。それでいいと、互いが思う、距離。

「すいませーん! 真ん中通りまーすっ!」

「っ、うおっ!?」

 ぼんやりと駅までの道を進む二人の間を刹那、一人の少女が勢いよく駆け抜けていった。それはあまりにも一瞬の出来事で、二人は理解が追い付かなかった。

 そのすぐ後ろを、なんだかいまいちパッとしない少年が、必死で追いかけていく。少年はもちろん二人の間を通り抜けることなんてなく、恥ずかしそうに二人の左側を抜けていった。すれ違う際、小さな声で息絶え絶えに、「すいません」と彼は言った。

 二人はしばし立ち止まり、その光景を黙って見送った。

「……朝から元気な少年少女」

 マサユキが、感嘆を漏らす。

「なんか、いいよなぁ」

「瑞々しい情景だったな」

 コウスケも、どこか溜め息に似た声を、溢した。

「あの制服の高校って、逆方向だった気がするけどな」

 うーん、と唸り、マサユキは思案。そして、結論づける。

「ありゃきっと、逃避行に違いない」

「おさぼり?」

「ちげーよ、ちげー。TO・U・HI・KO・U」

「……その割には前の女の子、めちゃめちゃ楽しそうだったけど」

「そりゃ楽しいだろうよ、逃避行。なんたって好きな男の子と一緒なんだぜ」

 何故だか断言調のマサユキを、コウスケは呆れ顔で流す。


「あんな風に駆けたかったな、青春」

 その声を発したのは、マサユキか、コウスケか。二人自身にもそれは曖昧だった。何故なら彼らのどちらもが、全く同じ事を心中呟いたからで。

「決して悪い日々ではなかったけど」

「ああいうのは、なかったけどな」

「なかったね」

 束の間の静寂。

「……なんか、虚しくなるからやめてくれ」

 ややあってコウスケが項垂れる。

「来年には社会人だもんなぁ、お前。あとは打算と妥協しかねぇもんな~恋愛」

「お前のその極端な純愛思考はいい加減どうにかした方がいいぞ。だから童貞なんだろ、今でも」

「ああ!? 言ったな!? これでもなぁ、多少は声かけられたりすんだぞ!」

「え、マジ? なんで言わねぇの」

「いや、なんか……みんな変なヤツでな……関係を進展させたいと思えなかったんだよ」

「変なヤツ好きの代名詞かと思ってた、ヒラオカマサユキ」

「どんな偏見だよ」

「だってホラ、高校ん時もさ、屋上のナントカちゃん」

「あ――――っ! やめろ! その名を口にするな! 胸がはち切れて死んじゃうから!」

 唐突にマサユキが叫ぶ。通りに人の気配は、ない。

「なんだよ」

「ずっと、ずっと、想い続けてきた! なんであの時声をかけなかったんだろうって!」

「……まーだ言ってんのか」

「確信できるよ、彼女以上の女性はいないよ」

「……どうだか」

 その断言はどこから来るのか。なんとなく絵になった、あの夏の屋上の一幕が、いつまでも心に引っ掛かって剥がれないのだろうなと、コウスケは思う。

「結局どこにいるかも分かんねぇしなぁ。成人式も同窓会にもいなかったし、聞くところによると連絡先知ってる人もいないらしい」

「へぇ……」

「でもさ、そういうところがいいじゃん、ますますよくね? ミステリアス!」

 それ、結局容姿が良かったからでは? とは口にせず、返事をするコウスケ。

「どんだけミステリアスでも、結局社会に出て、社交性とかいうモンの中でやってかなくちゃならないんじゃねぇの? 黙々と事務員とかやってそうじゃん、知らんけど」

 それは自身の、ここ最近の就職活動を踏まえた、イメージ映像。

「事務員………………」

 マサユキは呆けた顔で空を見上げ、何かを想像しているらしい。その横顔から発される次の言葉を、コウスケはなんとなく待つ。

「ギャップはアリだな」

「そう言うと思った」

 二人は笑う。


「――なぁ」

 手元のサイダーのボトルをなんとなく眺めながら、マサユキがぼやく。その目に、かつてと変わらない透明を捉えながら。

「あの時、屋上で、今日は何の日かって訊いてさ」

「うん?」

「そのままあの手を引いて、どこかへ駆け出していたら、何かが違ったかな」

「手を引いて駆け出す理由が本当に分からん」

 妙にセンチメンタルになった空気を、コウスケは無慈悲にも断裁する。

「取り憑かれてんなぁ、相変わらず」

「だって理系、男ばっかりだし……」

「その想像力は是非とも研究に用いてくれ」

「貴様~っ、馬鹿にしやがって」


「……でも」

 そう言って、でも実は、と、コウスケもぽつりと、本音を零す。

「結局さ、引き摺ってんだよな、17とか、18の頃のことをさ」

 意外な返答に、マサユキは顔を上げ、コウスケを見た。

「……なんとなくだけど、俺はこのまま、17や18の頃の精神のまま、歳を取っていくんだろうってさ、思うよ、最近」

「……そうか」

「背伸びして、シャカイジンなんかになろうとしたってさ、本質、変わってねぇよ、しょーもないことで笑ってた、あの頃からさ」

「……案外、そんなもんなんじゃねぇの」

「そうかなぁ」

「俺なんてもう確信してるよ。〝自分〟なんてもう、そんなに変えられそうにもないし、オトナだなんてやつになれそうもないって。出来上がってんだよ、ほとんどさ」

「……あとはすり減らすだけ?」

「馬鹿言え」

 存外ネガティブなコウスケに、色々堪えているんだろうなと、マサユキは思う。

「……正直な話。未だに時折、夢を見るよ。校舎の屋上で、俺たち二人で、こんな風にサイダー回し飲みして、街並みがあって、空がすげぇ青くて」

 そう言って、急に言葉を切るコウスケ。いつかと同じように、のっそりと顔を上げ、淡い空を見上げる。

「……俺も案外、囚われてんのかもしれないな」

 マサユキの手からサイダーを引ったくり、酒の代わりを求めるように、勢いよく、呷った。

「手にできなかった可能性、みたいな、そういうモンにさぁ」


「……よし、じゃあ、今からやるか」

 再び訪れた重めの静寂を貫くように、マサユキが呟く。

「何を」

「全力疾走」

「は?」

 マサユキを見れば、もう既に体勢を低く屈め、これから向かう先をじっと見据えていた。

「世界の果てまで、レッツ……ゴー!」

 マサユキは叫び、勢いよく駆け出した。

「あぁっ、おい! 俺二日酔――」

 遅れて飛び出すコウスケ。運動なんてもう長いことしていない。同じ境遇のはずなのに、全力でぶっ飛ばすマサユキにどうにか追い縋る。

 二人は駆ける。世界の果てに向かいなどしない、駅までの道を。

 この先の日々がどうなるのかをいつも憂いている、そんな自分を置いていくように、のびのびと夢に向かうマサユキを、コウスケは羨ましく思う。大人になれない、なんて言うなよ。お前はそのままでいいんだ。子供っぽい理想のままで、無邪気なままで、くだらないしがらみに縛られないで、やりたいように生きてほしい。それは嫉妬、清い嫉妬。彼の友人であることを誇りたくなるような、そんな感情。

 コウスケも、全身に力を込める。もう何年も使っていないような筋肉をフル稼働させて、地面を蹴る。うおぉ、うあぁ、なんて、まるで高校生みたいに奇声を上げながら、二人は走っていく。

 空は青い。マサユキの手の中のサイダーが、音を立てて揺れる。


「いや、もうムリ死ぬ……」

 25秒で息切れした。




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