KHM.5

 背後で低い唸りをあげて扉が閉まれば、刺すような静寂が辺りを包む。

 扉の先は、廊下と思しき空間だった。しかし、設けられた窓は左手側に続く廊下にのみ。玻璃を通して青白い月の光が差し込み、廊下を淡く浮かび上がらせる。窓と反対の壁には扉が連なり、かろうじて、右手の突き当たりにも扉があるのを確認できた。

 等間隔で区切られた窓の前には採光の妨げにならないよう滑らかな乳白色の胸像、彫像が配置されている。その幅はおよそ二つ分。目視できる限りでは、右手の端から左の最奥まで、さながら廊下を見守るように、ともすれば監視するように所狭しと並べられている。しかし、その全てが完全な状態というわけではなかった。

 アリスは己の斜め前に佇む胸像を見た。

 この館の主の趣味なのであろうか。広間にあった意匠と勝るとも劣らない精巧さで作り込まれている。まるでそこに存在するかのように装束には微々たる皺が彫り込まれ、高い鼻梁は凛々しさを助長し、細やかな髪は風が吹けばふわりとそよぐとも思われる程に生き生きとした印象を受ける。そう。その顔の片側を抉る無惨な傷跡さえなければ。

 誤って落下させて作られたような傷では到底ない。まるで誰か拳を受けたかの如く、故意に穿たれた穴だ。窪んだ部分を中心に矮小なひびが走り、残された独眼が憂うように、責め立てるようにアリスを見つめている。

 その周囲の床には、大小入り交じった石膏の欠片が飛び散っていた。恐らく石像の、失った顔の名残だろう。誰かに片付けられることなく長い間放置されているようにも窺えた。

 そしてそれは、目の前の胸像だけに限ったことではなかった。

 至るところ、それこそ廊下の床を埋め尽くさんばかりに白色の欠片が散らばっている。この中で一体、どれだけの十全な像があるというのか。

 倒れた衝撃であろうか、中には全身像が胴体で割れ、腕がもげて遠くに転がっているものさえもあり、アリスは思わず目を背けた。

 その背に向かってチェシャは言う。

「怖がらないで、アリス」

 大丈夫、とチェシャはもう一度、呟いた。

 気味が悪いという言葉ではもはや、片付けられない。ここはーー異常だ。

 どういう理由わけで自分がここにいるのかは定かではないが、一刻も早くこの場所を離れるべきだと警鐘が鳴る。そして、それは広間に残る二人も、行方知らずのグレーテルも同じだ。

「ありがとう、チェシャ」

 アリスが不器用に微笑めば、チェシャは嬉しそうに頷いた。

 大丈夫。少し気が滅入ってしまっただけだ。

 深く息を吸い込んで気持ちを落ち着ける。アリスは出来る限り、彫像を目に入れないよう少しばかり上を向いた。

 蹴躓かないよう細心の注意を配りながら、まずは右最奥の扉から当たっていくことにした。窓が設置されていないため、先へ進めば進むほどに暗がりが大きくなるが、月明かりのお陰で広間に比べればまだ明るい方であった。

 最奥の扉のノブを軽く捻って手前に引く。がん、と何かが引っ掛かる衝撃が音を伴う。再度、手前に引き、そして、奥に押してみたが、いずれも引っ掛かるだけで扉は開かない。

「やっぱり、鍵がかかってる……」

 広間でもそうだったが、施錠されていない扉の方が少ないようだ。まるで誰かに誘導されているようで、アリスは殊更に気味悪さを感じざるを得ない。

 諦めて他の扉も試してみるが、やはり、結果はどれも同じであった。

 結局、先程の像の前まで戻ってきてしまった。月光のせいか、それとも、アリスの心持ちのせいか。独眼は冷ややかな輝きをたたえてアリスたちを姿を捉える。一文字に結ばれた口元が嘲笑しているようにも見えた。アリスは物憂げに瞳を閉じる。じっと背中を捉える視線を感じながら、胸像を通り過ぎた。


 窓の外には中庭が広がっていた。

 しかし、はたして目に映るその光景を庭と称していいのだろうか、とアリスは思い悩む。

 敷き詰められた石畳から方々に雑草がせめぎ合い、庭師を失った脆弱な花々を食い散らしては版図を広げる。中央にはレリーフの美しい噴水が据えられているが、およそ彫像の掲げる水瓶の水は枯れ、荒廃の一途を辿るばかり。

 アリスは絞り出すように溜息をついた。館の内外問わず酷い有り様だ。

 庭へと続く扉は一つだけ。その位置から、おそらく玄関口ロビーの先にあった部屋から続くものだと見当をつける。

 噴水を挟んで真向かいには同様に廊下と思しき建物があった。煉瓦造りの壁には蛇のように蔦が這い、過ぎ去りし年月を見る者に思わせる。視線に合わせて、アリスの指が窓を追った。

 一つ、二つ、三つ。

(……三階建て、かな)

 アリスは目を閉じた。

 暗闇の中でペンを振るうように館の構造を描いていく。

 噴水を囲う四角い造りの三階建ての古洋館。

 未知の空間は想像で補った。試せど試せど一向に開く気配を見せない扉のおかげで空白部分ブランクが埋まるのは随分先になりそうだ。

 窓が途切れる。アリスは突き当たりを左に曲がった。

 薄闇の廊下に、散らばる石膏。その点に変わりはない。だが、その合間を縫うように怏々おうおうとして異質な扉は存していた。その前には直立したままの二対の石像。

(また、この感じ……)

 いざなわれ、引き込まれる。取っ手ドアノブに触れた。

 そこで躊躇いが生じた。すかさず手を引っ込める。

(大丈夫)

 アリスはしきりに己に言い聞かせた。導き手がいるのならば、それに従順になるのもまた一つの策。

 一つ、息を吐く。胸に抱いた右手を押し出す。

 はたして。

 扉はぎぎぎ、と唸りを上げて、その口を開けた。


 そこは、空間を一切合切くり貫いたような大部屋だった。正面の壁を埋め尽くすのは連なった窓。その向こうには鬱蒼と茂った木々が見える。窓掛カーテンは窓枠に合わせて窓掛紐タッセルで小綺麗に括られ、上飾りバランスとの合わせ色で引き締まった雰囲気を醸し出す。

 アリスの脳裏を“遊戯室ビリヤードルーム”という言葉が過ぎった。それを裏付けるように、中央には象徴たる撞球台ビリヤードボードが認められる。

 部屋の至る所には長椅子カウチが据えられている。深い緋色の落ち着いた色調だが、布地の上には埃が被っており、やはり手入れはなされていないようだ。その近くには小さな洋酒棚カクテルキャビネット卓台テーブルがあり、また、卓上遊戯ボードゲームができるよう向き合った椅子もあった。

 探索するようにアリスは室内を巡る。この荒んだ館で唯一とも思えるほどに整った調度品の数々。

 あるべき場所にあるべき物があるーーそのことがアリスを余計に警戒させた。

 部屋の隅には暖炉が配備されており、新しい薪木が規則正しく折り重なっている。火種さえくべれば今にも室内を暖めてくれるだろう。

 そうしてアリスは室内を一周していると、隣室に続く扉を見つけた。遊戯室ビリヤードルームに続くのは喫煙室シガールームだろう。くゆる煙草の煙が紳士の社交場に入り込まないよう設置されているのが一般的だ。

 アリスは警戒を解かずに、次なるその扉へと手をかける。

 閑散とした室内に響く、蝶番レンジの呻き。


「え……?」

 刹那。張り詰めた声色の、言葉が漏れた。

 弾かれたようにアリスは恐々と己が右手へと視線を落とす。目を見開いた。

 いかづちに身体を貫かれるような感覚が襲う。手が震えた。

 取っ手ドアノブに触れただけの、眼前に迫る扉は開いていない。

 ならば何故、蝶番の音がするというのだ。

 一瞬のうちにアリスは振り返った。


「ーーっ!?」

 視線を向けた先でアリスは目を見張る。声ならない声が悲鳴をあげた。

 聴覚をつく、ぎぎぎ、と軋むあの扉の音。開いた扉の向こうから射し込む青白い光。その輪郭が歪む。


 そうして、アリスの瞳は確かに捉えたーー室内にゆっくりと伸びる影を。

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