KHM.6

 瞬時に喫煙室シガールームへと身をねじ込ませたのは、ある意味で本能だった。


 薄闇の中で、微かに煙草と埃の匂いが入り混じった匂いがする。耳の直ぐ隣で大きく脈打つ鼓動に気付かない振りをして、扉に耳をあて、そばだてる。


「……ゆうれ……やん……。ここ、ゆ……るで……」

 最初に聞こえたのは弱々しい男の声だった。


 煙を妨げるための厚い扉と鳴り止まぬ鼓動、更に焦燥感が相俟って断片的にしか聞こえないのがもどかしい。必死に声を拾い続けようとすれば、


「……どうして……かっ!」


 部屋を振るわす大声に思わず身を引いた。


「な、なんなの……?」

「アリス」

 間髪入れずにチェシャが耳元で囁く。

 視界に彼の細い指が四本、見えた。思考が回らない。これは一体なにを意味しているのか。


「四人いるよ、アリス」


 チェシャの腕がすっと伸ばされた。鋭い瞳が扉の向こうを睨めつける。アリスが目を見張るのもそこそこに、彼は訥々と続ける。


「あっちに、


 宙を水平に薙ぐように、チェシャの腕が右へ流れた。アリスの瞳がその軌跡を辿る。さながら発条仕掛けの人形のように、驚愕、躊躇、逡巡、あらゆる感情の歯車が互いに歯止めを掛けながら、しかし、その挙動を止めることを許してくれない。


 ある一点を指したとき、チェシャの手が止まった。


「そこに、一人」


 待ち望んでいたように闇に縁取られた輪郭が動いた。瞬時に距離を詰め、それはチェシャの指先に立つ。二つの光が、月が欠けるように細まった。

 我知らず、両手で口元を覆う。


「猫さん、みーつけた」

「いやああああああああ」

 およそ見合わぬ軽やかな声が発されると同時に、アリスは溜まらず悲鳴をあげた。


「うわああああああああ」


 予想外であったのは、それに呼応する声が上がったことだった。眼前に迫る影すらも忘れて、アリスの意識が声の発生源ーー遊戯室ビリヤードルームへと向かう。閑散とした空間へと、洪水のような音が流れ込んでくる。

 その中に、喫煙室シガールームへと駆ける粗野な足音があることを聞き逃しはしなかった。


 間違いなく存在を悟られた。焦燥感がアリスを駆り立て、床を弄る両手が棒状のものを捉えた。


「誰か、いるのか……?」


 扉越しに誰かが問う。しかし、返答は待ち望んでいなかったようだ。その証拠に取っ手が押し込まれ、暗闇の輪郭が変動した。


 刹那。


 アリスはやおら立ち上がると、その歪みにめがけて渾身の力で棒を振り下ろした。重くも軽くもない得物が宙を薙いで、ぶんっと鈍い音を立てる。精練されていない衝動的な所作では重心が振れた。時間が瞬間ごとに切り取られるような錯覚のなか、幸か不幸か、先端が隙間を縫って扉の向こうに見えた人影を捕捉した。


「っ! おい、ちょっと待てっ!」


 人影は咄嗟に身を逸らして殴打を回避する。勢いを殺せず振り下ろされた棒はアリスの手を離れ、虚空に舞って、落下した。


 瞬く暇もない時の中で、双方の瞳が交錯する。


 相手の双眸の位置が高い。偉丈夫。歴然とした体格差が目に焼き付いた。

 床に転がった棒を拾おうと瞬時にしゃがみこんでは手を伸ばす。


「おいおいおいおいおいっ!」


 慌てて大柄な男は後退る。隙が生まれた。咄嗟に棒を手繰り寄せた勢いで低い姿勢のままに足下を狙うーー間一髪で躱された。もはや躍起になって追撃を試みる。分が悪いと見たのか、防戦一方の男はじりじりと後退するのみ。


 しかし。


「で、でたでやんすーーっ!!」

 不意に、間抜けな声が二人の間を断ち切った。

 意表を突かれてアリスの追撃が止む。

「ハンス!」

 相手の注意は完全に逸れた。


「おじさん、だーれ?」


 畳みかけるのはじゃれつくような声。その声にアリスは冷水を浴びせられた。この声は喫煙室シガールームに現れた影のそれであり、そしてーー。


「グレーテル!?」


「うおっ!?」


 形振り構わず飛び出したアリスに男がたじろいだ。果たして、その視界に映ったのは小さな少女と襤褸切れ同然の衣裳を纏った線の細い男だった。少女の方は紛れもない、グレーテルだ。


「く、くるなでやんすっ!」

「ねえねえ、おじさんだーれ?」


 さながら足下で戯れようと飛びかかる子犬を必死で追い払うように男が腕を振り回す。しかし、当のグレーテルは怯むことなく、むしろそれを楽しむかのように、くるくると彼の周囲を駆け回っては悲鳴をあげさせた。


「ひぃいいいっ!」


 死角に回り込んでは、服を引っ張り、大仰に驚愕する男の声が轟く。無邪気に笑うグレーテルと相反を描き、酷く超現実的シュールだ。


 一見こそ予期せぬ人物の出現に度肝を抜かれ唖然としたアリスだが、さすがに見ていられなくなって、咎めるように彼女の名を呼んだ。ふわりと豊かな髪を揺らして、少女が振り向く。可愛げに首を傾げるのも忘れない。


「アリス! どうしたの?」

 場違いな笑顔が向けられる。アリスは内心で溜息を吐いた。

「急にいなくなったから……」

 努めて冷静に返す。グレーテルはえへへ、と悪びれずに笑った。

「かくれんぼしてたの!」


「こんなの全然隠れん坊じゃないでやんす! 幽霊かと思ったざんす!」

 言葉を失ったアリスの後方から、裏返った声で援護射撃がされる。

 あの弱々しい男の声だ。

 いつの間に移動したのか、大柄な男の背後に隠れている。グレーテルがにぃ、と笑うと、呼応するように蛙を潰したような声を出して、俊敏な動きで引っ込んだ。

 と、同時にその反対側でも影が動いた。アリスと大して変わらぬ背丈。頭巾フードのようなものが見え隠れしている。


「そうか、四人……」

 アリスが呟くのを尻目に、大柄な男はぼそり、と提案した。


「あー。とりあえず、状況を把握したいんだが」

 突然の低音にびくり、とアリスは身体を震わせたが、逡巡ののち、ゆっくりと頷いたのだった。




「まずは、驚かせてすまなかった。俺はチルチルという」


 適当な椅子にアリスが座るのを待ってから、チルチルと名乗った男は手近に引き寄せた長椅子カウチに浅く腰掛けた。右に頭巾フードを目深に被った小柄な少女、左に襤褸切れを纏った男が倣う。


「他に人がいるとは思っていなくてな」

 アリスは即座に首を振る。むしろ強襲した此方に非があった。

「こちらこそ……。ごめんなさい」

「いや、双方に怪我が無くて幸いだった。……名前を聞いても?」


 アリスは頷いた。


「私はアリス」視線を後方へとずらす。さながら主人に控える執事のように背後に控えた長躯が目に入った。「こっちがチェシャ」


「お……、おいらはハンスでやんす」

 線の細い男ーーハンスは相も変わらず裏返った声でそう名乗った。アリスと視線が合うなり、ひぃっと情けない声をあげる。顔の前で擦り合わせている両手は忙しない。何とも頼りなさが拭えない男だ。

「おじさん、ハンスっていうの?」

 すかさずグレーテルが食い付く。長椅子カウチの裏から顔を出し、衝撃でハンスが飛び上がり、床に倒れた。無邪気さがハンスを容赦なくいたぶる。


「えーっと、その子がーー」


「グレーテルだよ!」


 紹介もそこそこに名乗りを上げた。補足がてらにアリスは彼女を探していた経緯を伝える。玄関口ロビーで待つシンデレラとヘンゼルの存在も告げた。


 チルチルは時折、相槌を打って話を聞いていた。そして、話題はチルチルの右隣に座った少女へと移る。

 真っ赤に染まった頭巾フードの向こうに素顔を潜め、俯く少女。自分に話題が振られようと、彼女が口を開くことはついぞ無い。

 代弁してチルチルが口を開く。


「この子は赤頭巾。……といっても、本人は名前を覚えていないらしくてな。かといって呼び名が無いのも不便だから、代わりにそう呼んでいるという次第だ」


 こくり、と赤頭巾が頷いた。アリスは成る程、と納得したことにする。これだけ不可解な館だ。何かの衝撃で自分の名前が分からなくなることも十二分に有り得る。そう、納得できてしまう程度には怪奇にあてられた。


「俺たちはこの部屋で目を覚ました」

 そう切り出して、チルチルは訥々と経緯を語り始めた。

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