KHM.4

 しばしの沈黙が訪れる。居心地の悪さがひたすらにアリスを襲う。早くグレーテルを探さなければいけないのに、なんと言葉をかければいいのか分からず、静寂が辺りを支配するばかり。時折ヘンゼルと視線が噛み合うがお互いに密やかに肩を竦めることしかできなかった。

 仕方なしに改めて玄関扉を背にして辺りを見回す。

 壁に沿うようにして左右には階段があった。

 アリスが一歩踏み出せば、そのすぐ後ろを一拍遅れてチェシャが倣う。急に動き出したアリスに、はっ、とシンデレラの息を飲む気配がしたが、特に声はかけられなかった。


 階段には手摺がついていた。

 丁寧に仮漆ワニスが塗り込められているのだろうか、つっと指が滑らかにその表面をなぞる。手摺の端には不思議な形の意匠デザイン。よくよく見れば植物の葉だ。素人目にも精巧に彫られたものだと解る。手摺支柱もまた同様であった。こちらは蔦だろうか。一段ごとに意匠が変化していて、どれほどの時間をかけて作り込まれたのか想像に難くない。

 その先を目で追うが、シャンデリアに灯るわずかな光では暗黒に呑まれた階上は視認することは叶わない。それどころか、闇に沈んだ向こう側から何か得体の知れぬものが這い出てくる、そんな風景が脳裏に浮かび、アリスは慌てて首を振った。背中を嫌な汗が伝う。

(二階は……後で探そう)

 そう決めて階段から目を逸らした。階段に沿って裏手に回る。玄関扉の丁度対面に二つの扉があるのは気付いていた。次に確認するべきはそこだろう。

 しかし。

「……っ!?」

 数歩も歩かないうちにアリスはびくり、と身体を強張らせた。不意に肌を撫でる冷気。一瞬だったが確かにアリスの右から左へと何か、ひんやりとした何かが過った感覚。

 どうしたの、と言わんばかりにチェシャが首を傾げる。その様子に落ち着きを取り戻す。

 改めて恐る恐るそちらに目をやれば、階段のちょうど裏側、薄闇に紛れるようにしてーー扉があった。少しばかり、開いているようにも見える。警戒を解かないまま、アリスはその扉へと近づいた。確かに、完全には閉まっていなかった。その僅かな隙間から冷気が流れ込んできている。

 慌ててアリスは反対の階下も確認した。こちらはーー開いていない。他の二つも確認するが、やはりしっかりと閉まっている。

 とするとーー。

 アリスの中で確信が生まれる。恐らくグレーテルはあの扉の先へ行ったのだろう。ならば探しに行かなくては。

 そうして、忙しなく駆け回っていたアリスを怪訝に見ていたシンデレラへと声をかける。

「シンデレラ、あの……」

「わたくしは行きませんわよ」

 用件を伝える暇もなく一蹴された。鋭い眼光が向けられる。もしかしたら、アリスの背後に立つチェシャに向いているのかもしれない。

「わたくしはここにいますわ」

 改めてシンデレラは言い切った。

 唖然とした。それはアリスだけではないようでヘンゼルもあわあわと身振りが落ち着かない。しかし、気にした風もなく、相変わらずその双眸はアリスの後方をとらえ続ける。

 沈黙の中、シンデレラは再び口を開いた。

「グレーテルが戻ってきた時に誰もいないのは困りますから」

 取ってつけたような理由。そうして、ふん、とお決まりのようにそっぽを向く。気丈に振舞っているようで、その実、四肢が震えているのをアリスは見落とさなかった。

 ーーやはり。

 随分と深い溝を生んでしまったのだとアリスは唇を噛んだ。チェシャは彼女の首を絞め、あまつさえそのまま息の根を止めようとした。誰だってそんなことをされて普通でいられるわけがない。

 幸か不幸か、アリスの言葉は忠実に聞いてくれているが、もし仮にそうでなかったらと考えると、背後に立たれているだけで竦みあがるだろう。事実、一緒にいてくれることで心の拠り所と感じているが、アリスも彼に心を許したとは未だいえない部分がある。シンデレラに為したように、いつアリスが彼の神経を逆なでするかも分からない。

 少し、シンデレラとは距離を開けおくのが最善だろう。

「私……他の部屋探してくるね」

「お好きになさって頂戴」

 早く行け、とばかりにシンデレラが返す。その声を背に、アリスは扉に手をかけた。金属製の取っ手ドアノブは恐ろしいほどに冷たく、手から温もりを奪ってゆく。僅かな隙間からでは扉の向こう側は伺えない。ただ暗闇だけが占めていた。アリスは背後を確認する。アリスより背の高いチェシャが穏やかな瞳で此方を見下ろしている。一人よりは彼がいるだけで幾分か恐怖は薄れた気がした。シンデレラの心の平穏のためにも、グレーテルの身の安全のためにも、今はこの扉の向こうに行くしかない。アリスは覚悟を決めて取っ手ドアノブを引く。

 冷気が身体を包む。体のしんから熱を奪っていく、そんな冷たさ。闇の中へといざなわれる感覚。

 そうして、アリスは闇の広がる向こう側へと一歩、足を踏み出した。

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