きっと明日には咲くはずの

くすり

Carpe diem





Carpe diem, quam min今日咲いた花を摘みなさい、明日が来imum credula posteroるなんてちっともあてにならないから.


────"HoratiusホラティウスCarmina歌集』1-11"






      ◯


 必死になって走っていると、限界が近いとき、不意に目の前が真っ白になる。

 いまにも破裂しそうな心臓と血管。そのとき、あたしはどんなものより速い。男の子なんかよりずっと、きっと宇宙がぎゅんぎゅんふくらんでいくよりも速いんだ。

 視界は奇妙なほど明るくなって、きらきら光りだす。あたしはうれしくてたまらなくなる。

 身体はどんどん苦しくなるけれど、羽が生えたみたいな気分でどこまでも行けそうな気がした。

 限界まで、手を伸ばして──

 重さがなくなる。手から、足から、全身から、あたしを縛りつける重力が消え去る。いまなら空だって飛べそうだと思った。

 白い光の先をめざして、走る。あたしは走る。ずっと遠くへ行きたいのだ。誰も追いついてこられないような、ずっと、ずっと遠くへ。

 ──彼処あそこへ行きたい。


      ◯


 今日より明日へ。明日より明後日へ。あたしはそうやって生きてきた。

 毎日が楽しければそれがいちばんいい。明日がもっと明るければいい。明後日はもっと元気に、その次の日はもっともっと。そうすればあたしはいつか、最高に楽しい日に辿り着ける。

 つまらない日があっても、明日はもっと楽しくなるはずだって信じる。そうすればどんな日だって楽しめたし、じっさい毎日が楽しかった。

 小学校にいたころから走るのが好きだった。足が速かったから何度もリレーの選手に選ばれた。近所の公立中学に入ってからも当然、あたしは陸上部を選んだ。いつしか走ることは、ごく自然にあたしの一部になっていた。

 専門は百メートル。誰よりも速く、誰をも寄せつけない速さがもっとも求められる競技。総合的な筋持久力が必要な長距離や、至難のペース配分を必要とする中距離とはちがう。

 たった百メートルだ。ゆるく歩幅ストライドを二メートルに設定しても、地面を必死に蹴りつける瞬間はわずか五十回しか訪れない。そんな状況じゃペーシングも持久力もあったものじゃない。

 ただ、速ければそれでいい。あたしはシンプルなそれがいたく気に入っていた。

 今日より明日、明日より明後日。コンマ一秒でもタイムが縮むように無我夢中だった。気付けばあたしは部の中で誰よりも速くなっていた。

 あたしは──

「──美咲。このあとはどうする」

 冴えない花々の咲いた小さな花壇のレンガに腰掛けてぼんやりとグラウンドを眺めていた視界を遮ったのは、小柄な女の子のシルエット。

 短い髪を揺らして首を傾げる彼女は、逆光の中であたしを覗き込んでいる。

 思わず目を細めると、彼女は怪訝な顔をした。

「美咲?」

「……ああ、ごめん。ぼうっとしてた」

 彼女はため息をつくと、額にうっすらと浮かぶ汗を肩にかかったタオルで拭う。

「いちおう。部の予定では個人練習になってる。計測会もちかいから」

「あー、そっか」

 それを聞いてあたしは逡巡する、フリをした。

「じゃあ、あたしは帰るよ。課題も出てるし」

 なんでもないように言った。彼女は一瞬、何かを言いたそうな顔をして、

「……わかった。明日は来るのか」

「うん、行くよ。計測会も、ちかいしね」

 あたしは立ち上がると、汚れたお尻を払って、軽くなったバッグを肩にかける。彼女はいつものようにあたしを見送った。

「またな。美咲」

「うん……じゃあね、麻衣」

 あたしが手を振ると、麻衣は小さく、胸の前で手を振る。すぐにトラックに戻る麻衣を見送ってから、手で太陽を遮って、グラウンドの、ずっと向こう、乱立する団地もちっぽけな緑色の裏山も通り越した、その先の空をみつめた。

 あそこまで走っていけるかな、と思ったけれど、すぐに諦めてしまった。

「あ────あっつい、な!」

 日陰から出た途端に汗が噴き出す。屈むと大粒の汗がぽたりと落ちて、乾いた地面に一滴のしみをつくって、すぐ消えた。

 太陽はまだまだ高くて、蝉がうるさいくらいにわめき散らして、空はどこまでも青い。

 ──どうしようもないほど、夏だった。


      ◯


「……あ。忘れもの」

 シューズを履き替える必要もないのに、一度部室に向かって、引き返すときに気が付いた。

 そういえば、進路の課題があるのに、提出用のレポート用紙を教科書に挟みっぱなしで、教室に置いたままだ。

「めんどくさい……けど。提出期限、明日だ」

 仕方ないから昇降口で靴を履き替えて教室まで戻る。三年生の教室は三階。どの教室より遠い。

 のろのろ階段を登って、ようやく教室に着く。国語の教科書はすぐに見つかった。そこに挟まれていた進路希望調査も。

 その白紙を睨みつける。睨んだところで答えは浮かび上がってこないから、早々にやめにする。教科書をバッグに放り込んで、誰もいない教室を少しのあいだ独り占めにした。

 それにしても、今日はとびきり陽射しが強い。

「……あついな。もうっ」

 窓をがらりと開けると、グラウンドの音が飛び込んできた。走り込みする野球部の謎言語。ぱかぱかと気持ちいいテニス部の打球音。競争路トラックの陸上部員が掛け声にあわせて一斉に走り出して蹴り出された砂が立てる音。

 まるで音楽だ、と思う。音楽なんてろくに聴いたこともないけど。

 手許の進路希望調査票に目をやる。清々しいくらいに真っ白だ。とりあえず名前ぐらい書いておこうか、と思ってシャーペンを出して、三年A組仁村にむら美咲みさきと書きつけた。

 ──ぱんっ。

 不意にグラウンドから鋭い破裂音が響く。走り出す合図。スターター・ピストル。

「……っ、はあ」

 無意識に息を止めていてそんな自分に呆れた。この音を聞くと反射的にこうなってしまうのは、もはやただ煩わしい。

 たまらなくなって立ち上がると、教室の中を所在なく歩いてみる。独り言もする。

「もう帰ろうかな……でも、あんまりに早いのもつまんないなあ」

 どうせ何をしてもつまらないくせに、あたしは何かすることを探してしまう。そうしていないと落ち着かないなのだ。

 休日に何もしないで寝転がって過ごすなんてこと、あたしにはまるで、できそうもない。

 すること。すべきこと。

 あたしがいま、本当にしなきゃならないこと。

「……はあ。課題、やらなきゃ」

 さしあたって、あたしはらしくもなく図書室に寄って、ぼんやりした薄霧に包まれたみたいな、将来なんてあやふやなものに、思いを馳せてみることにした。

 それはきっと、前を向いていることなのだと、あたしは信じたかったのだ。


      ◯


 ──もしも、もしもがあったとしても。

 あたしの未来で、あたしが走ることを仕事にしているかどうかといえば、たとえばプロになって企業のチームに所属しながら競技大会に出たり、指導者として選手を育てるような、そんな仕事に就いているかといえば、きっとそうはなっていないだろうと、ぼんやり思うのだ。

 未来なんて不確実で、どんなに考えを巡らせたとしても、簡単に予想を裏切る。あたしはそれを身をもって知らされたばかりだから、もう未来なんてものに期待する気には、到底なれやしない。

 棚に整然と並べられた本たちはきっと、誰かの過去の集成だ。誰かが享受してきた未来がやがて過去になって、ひとつの本になる。

 いまでは確かな質量として、確固たるものとして感じられるこの本だって、かつては誰かの曖昧な未来だったのかもしれない。そう考えると、なんだか不思議な気持ちになる。

 埃をかぶった本を適当に手に取ったりしながら、あたしは図書室をぐるっと回ってみた。たくさん読まれたような本、あまり読まれなかった本。くたびれかたで、なんとなくわかる。

 それに飽きると、あたしは少しでも涼しいように窓際の席に座って、希望票を広げた。いくら記名しても誤魔化せない、相変わらずの真っ白だ。

 図書室の閲覧用の座席には、あたし以外の利用者なんていなくて、ここも独り占めだった。

「やっぱ、つまんないや……」

 ぼそっとつぶやいて、机に突っ伏した。

 本当は最初から、進路希望調査あてにならない明日のことなんて、考える気になんかなれなかったのだから。


「……ん、んぅ……」

 ふと、目を開けた。

 そんなつもりはなかったのに、どうやら少しのあいだうとうとしてしまったらしい。机についていた肘がちょっと痛い。

 顔を起こす前に横目に窓を見やるとすでに陽は赤く、夕暮れの空が静かに燃え残っていた。あたしはため息をついた。

「あーあ、結局課題終わらなかったし。明日提出なのに……どうしよう」

「まだ書いてなかったの? 配られたの、たしかずっと前じゃないか」

 どうしようもこうしようもない。家に帰ったからってやる気にはなれないし、明日はとりあえず用紙を忘れてきた、って言ってやり過ごそう。

 あたしはとりあえず、そう決めて──

「……って、あれ」

 ようやく、目の前の席に向かい合って、いつの間にか座っていた男子生徒に気がついた。いま、あたしに話しかけてたよね。

 いちおう、記憶のなかを探ってみるけれど、一向に知らない顔だ。クラスメートでは、たぶんないはず。そう思って学ランにつけられたクラス章を確認すると、Bと書かれてある。あたしたちのA組の隣の教室だ。

 初対面のはずのあたしに話しかけてきたくせに彼は視線を手許の本においたまま。あたしのことなんてどうでもいいみたい。

 なんとなく、それがむかついた。

「なによ……なんか、文句でもあるわけっ」

「いやべつに。でも提出物は、期日を守って出したほうがいいよ。特に進路関係は、生徒全体にも関わることだし」

「うっさいっ。あんたには関係ないでしょ?」

「そうだった。ごめん」

 あたしがカッとなってまくし立てようとすると急に手応えがなくなって戸惑う。

 これじゃまるで暖簾に腕押しだ。どうしてこんなにつかみどころがないんだろう。素直に謝られるというのはこんなにも、変な気持ちにさせられることだったっけ。

 ぐぬぬ、と唇を噛んでいると、彼が思い出したようにつけたす。

「そういえば、図書室の中ではもう少し声を落としたほうがいいと思う。他の利用者の迷惑になるかもしれない」

 確かに、そうだ。いくら突然話しかけられたからと言って突然怒鳴りつけるのはよくなかった。それでもあたしは自分の非を認めがたくて、苦し紛れに言い訳をした。

「……他の利用者なんて、いないじゃない」

 あっさり反論されるかと思えば、彼は図書室のなかをぐるりと見回して、何気なく言う。

「ごめん。それなら大丈夫だね」

「…………いや、あんたね」

 あたしのほうが負けてしまって、ひとつため息をつくけれど、彼は奇妙なものを見たような顔で、首を傾げる。

 そんな顔をしたいのはこっちのほうよ。

「まあ、いいや……ていうか、あんた誰」

「図書委員」

 即答だった。道理で、貸し出しカウンターに誰もいないわけだ。こいつがサボってるから。

 あたしはカウンターの空席を指差して言った。

「あんたね、あそこにいなきゃだめでしょ。それが図書委員あんた仕事やるべきことなんだから」

 また彼は首を傾げて、

「……どうして?」

 当然のことを聞いてくる。あたしは呆れ返って少し口調をとがらせた。

「どうして、って。当番でしょうがっ」

 そう言うと、あたしはふたつ目のため息をつきそうになって──

「だけど、利用者なんて君以外にいないよ」

 彼は変わらない飄々とした顔で、そう言った。

「…………っ」

 急にお腹の奥が沸騰して、すぐに熱が抜けるような感覚だった。怒鳴る間もなく、あたしは気が抜けてしまったのだ。

 普段のあたしなら怒っていたかもしれない。けれど彼は、ちっとも悪気があるわけじゃなかったから。たった数度の会話で、それがわかってしまうような、変な人だったから。

 そのあとはお腹の空隙に奇妙なおかしさがこみ上げてきた。あたしは何故だか少しだけすっきりしていたのかもしれない。

「……あははっ、そうね。たしかに、そうだわ」

 あたしがくすくす笑うのを見ても、彼は相変わらずの仏頂面だったけど、少しぐらいは一緒に笑ってくれているような、そんな気がした。

「……よしっ。あたし、もう帰る」

 バッグをひっつかんで立ち上がると、彼はまたあたしに話しかける前と同じように、分厚いハードカバーを開いた。目はすっかり本の上に戻ってしまって、あたしには一瞥もくれない。

 立ち上がったあたしを、見ているのに。

 さよならのひとつもないのか、と思ってムッとしたけれど、べつに友達でもないのだから、そんな挨拶は望むべくもない。

「……じゃあ、ね」

 あたしがぼそっとつぶやいて図書室から出ようとすると、不意に彼はすぐにまた視線を上げる。あたしはどうしてか少しの期待と、また妙なことを言われるのではないかという身構えとともに、じっと彼の目を見た。

 彼は、ゆっくりと口を開いて──

「……何か、借りていきますか?」

 何でもない顔で、ふと思い出したことのように、図書委員らしいことを嘯くのだった。


      ◯


「……ああいうことがあったから、消化するのに時間も掛かるよな。だけど、みんなそうやって成長するんだ。いつかきっと、これもいい経験だったと思えるような日が来るさ」

 あたしは黙って、目線を下げたまま、先生の話から意識を逸らしていた。さっきからずっとそうしているから、さすがに疲れてきた。

 先生はあたしの様子にちっとも気がついていない様子で、無神経に話を続ける。あたしは内心でうんざりしていた。

 ──いつか、きっと。

 それは、いつのことなんですか。先生。

「ま、それはともかく、進路希望調査はきちんと明日持ってきて、提出するんだぞ。本当にどうしてもきまっていないなら、先生が相談に乗ってやるから。仁村の成績なら、あそこなんかどうだろうな……確か、届いていた資料があるはずだから、まとめておく。必要なら取りに来なさい……いや、俺から届けるよ。大変だろうから」


 なんと返事したかは覚えていないけど、あたしはとにかくはやく話が終わるようにと息を殺して、解放されるなり早足で教室に戻った。

 戻ってきた教室には昨日と同じ、誰もいない。律儀に戸締りをした日直の誰かが窓を閉め切ったせいで、教室の中の空気は茹だるように暑い。

 だけど、今日は窓を開ける気分じゃなかった。あたしは冷房の効いた職員室からの急激な温度の変化に嫌な汗と悪寒を催すのにも構わず、自分の席に俯せた。そうしていないと、自分の中のどす黒い何かが、胸や喉を食い破って、温かい血にまみれて噴き出してきて、なりふり構わず暴れまわりそうだと思ったから。

 じっ、と熱い空気の中に身を潜めた。やがて熱気は水のようにあたしの身体に馴染んで、手も足もどんどん重力にとらえられていく。いつもの何倍も身体が重かった。まるで鎖につながれたみたいだとあたしは思った。

 じっとりとにじむ冷や汗がシャツに沁みていくたびに心は深くふかくへ沈んでいく。あたしは、海の底に落ちていく。あたしの足じゃ、もう陸にあがることなんて、できないのかもしれない。

 熱い空気を吸って、あえぐみたいに息をする。苦しいよ。あたしはどうして──

「……美咲、美咲っ!」

「へ? ……なんで、ま、い?」

 身体を強く揺すられて跳ね起きると、目の前に麻衣がいた。あたしは混乱して、妙な声を出してしまう。麻衣は、いつも仏頂面の顔をめずらしく怒ったように歪めていて、ますます戸惑った。

「お前。と、とりあえずこれっ、飲め! すごい汗だ、馬鹿。この馬鹿っ」

 ふだんはこんなふうに慌てるような子じゃないのに、と他人事のようにぼんやり思う。いつも冷静な麻衣だからこそ、前年度の部長に今年の部長として選ばれたのだから。そんな彼女がこんなに取り乱すなんて──

 と、差し出されたものに気がつく。それは水の滴るペットボトルだった。目に入った途端に猛烈なまでに喉の渇きを感じて、あたしはそれをなかばひったくるようにしてあおった。

「おいっ、こういうときはゆっくり飲め! 聞いてるかお前……」

 隣で麻衣がやかましく口を出すのにも構わずに喉を鳴らして一気にボトルの中の水を飲み干すとさっきまでのだるさが嘘みたいに楽になった。

「ぷは……生き返ったっ」

 ペットボトルを机に置くと軽くひしゃげて小気味いい音が響いた。そのあいだに麻衣は窓を開け放っている。

「助かったよ、麻衣」

「お前。いい加減にしろよっ……この気温で締め切った部屋にこもってたら死ぬ!」

「…………ごめん」

「大変かもしれないけどっ。こういうときはちゃんと窓開けろ、心配させるなよ……」

 麻衣は目に見えて怒っていた。あたしは流石に申し訳ない気持ちになる。

「保健室行くか?」

「ううん、大丈夫。たいしたことないし、水飲んだら楽になったから」

「……わかった」

 麻衣はようやくほっとしたようで、大きなため息をひとつ吐いた。それから、あたしの座る席の隣の机に、軽く腰掛けた。

 それから麻衣は、静かに、独り言のように話し始める。視線は前の、黒板のずっと先。

「お前。部活にいなくて……大変だ」

 あたしは何も言えない。木の机についた傷を、じっと眺めているだけ。

「下級生はメンタルが不安定になって記録も伸び悩んでる。三年なんかもっと酷い。みんないつも通りを装ってはいるけど、ちっとも隠せてない」

 麻衣の声は、絶望していなかった。どんな苦境にあっても諦めない。それが麻衣だ。あたしは、それをよく知ってる。麻衣は本当にすごい子だ。

 ──だけど、そこには確かに失意があった。

「みんな戦ってる。誰のせいでもないってことに耐えられないんだ、あたしだってそう。あんなの全部あたしのせいだって、はっきり自分を責められるなら。そのほうがずっと楽なんだ」

 あたしはただ、悲しかった。

 いつも明るくて、元気で、真面目で、しっかり者の麻衣が、こんなにつらそうにしているのが。

 それがどうしようもなく、誰のせいでもないあたしのせいだ、ってことが。

「はは……お前に言っても仕方ないことだよな。でもひどいんだ。毎年のように大会準備が忙しいのに、顧問はちっとも手伝ってくれないし。あげくグラウンドの花壇の整理を手伝ってくれ、とか言うんだ。そんな暇ないってのに、無責任」

 そう言うと、麻衣はようやく笑った。

 いつもの不器用で、だけど暖かい笑顔に比べたら、ちっとも元気がなかったけれど。

「……うん」

 私が頷いたのを見て、最後についた麻衣の二度目のため息は、さっきのよりもずっと、憑き物が落ちたようにすっきりしているような気がした。


      ◯


 適当に仕上げた進路希望調査を突き出して職員室を出た私は、二階から三階に戻る階段をゆっくりのぼっていた。そのとき、二階の二年生の教室前の廊下から、ひそひそ話す声が聞こえた。

「……あっ、あの人」

 わずかな声だった。普段のあたしなら気がつかなかったかもしれない、小さな声。

「やめなよ、聞こえちゃう……」

 階段はすこし、音が響くから。聞こえなかったふりをすればいいのに、あたしは足を止めた。

「……、だよね」

「やめなって……」

 バスケ部の二年生、だと思う。二人はお互いの話に夢中で、あたしが立ち止まったことには気がついていないみたいだった。

「ユカも聞いたでしょ……」

「……聞いたけど。陰口は……」

 わかっては、いた。けれどこうして直接、見てしまうと、さすがにこたえる。

 あたしはじっとこらえて彼女たちの前から立ち去ろうとした。

 仕方ないことだ。あたしのことは一時期大きなニュースになったみたいだし、第一みればわかってしまうのだから。

 そっと、次の階段に足をかけて──

「せっかく、夏の大会前だったのに……」

 不注意で段の隅にぶつけてわずかな音が鳴る。階段は音が響くから──

「…………っ!」

 向こうの二年生の二人組が、はねるみたいにびくりとうろたえた。陰口が当の本人にすべて聞かれていたとなれば、そうなるのも当然だ。

 あたしは仕方なく彼女たちのほうへ向き直って、手を振った。ちょっとぎこちないかもしれないけど、軽く笑いかけてもみる、けれど。

「……ほ、ほらっ、ミズキ行くよっ」

 固まってしまった子を慌てた様子のもう一人が無理やり引っ張って、いそいそと二年生の教室に戻ってしまった。

「…………っ、はぁ」

 仕方ないこと、仕方ないこと。

 もう一度ゆっくり階段に足をかけると、あたしはいつも通り、のろのろと階段を登る。

 気が付けば、自然と足が図書室に向いていた。


「あ、ちょうどいいところに来た。本棚の整理をしなきゃなんだけど、人手が足りないんだ」

 あたしを見るなりそいつは呑気な声を出した。手伝え、とでも言いたいのか。このあたしに。

 前回が初対面なのに、あまつさえあたしは、こんな有様なのに、それでも遠慮なくあたしに力仕事なんか、させようとするのか。この男は。

「……はあ。よりによって、あたしに頼む?」

 恨みがましく言ってみても首をかしげるばかりで、これ以上は無駄だとわからされる。

 逆に手伝ってやろうか、という気分になった。負けず嫌いなのは、あたしの悪いところだ。

 適当に新刊らしき本を手にとって、ジャンルのコーナーを探しながら言う。

「……まあいいけど。他の委員はどうしたのよ」

「頼まれた。用事があるんだって、みんなさっき帰っていったよ」

 何でもないことのように言って、山積みにされた本に向き直る。一人でこなせる量じゃない。こんなの押し付けられて黙ってるのは、しょうじき言ってばかだ。

「ばかじゃないの」

 だから、しょうじきに言うことにした。

 あたしの率直な罵倒を聞いて、図書委員は一瞬だけ手を止めて。

「……そうかな?」

 呆れてため息をつく。そうかな、じゃないよ。そう言おうとしたら、ぼそっと付け足された。

「そうかもしれない」

 相変わらずの気の抜けた言葉。今日も静かな図書室には利用者なんかいなかった。

 やっぱりこいつは、ばかだと思う。


 新刊本をぜんぶ本棚に収めて、新刊コーナーをつくって、そうこうしていたらとっくに日が暮れてしまっていた。一人でやっていたら今日中にはまるで終わらなかったと思う。

「はぁああ……つかれたっ」

 あたしは椅子にどっかり座りこんで思わず大きなため息をついた。

「手伝ってくれてありがとう。助かったよ」

 図書委員はあたしの前の席に座ると、キンキンに冷えて結露した缶ジュースを一本、あたしの前に置いた。

「……おごり?」

 恐るおそるあたしが訊くと、

「じゃあ、代金おかねもらおうかな」

 いじわるを言うから、あたしは冷たいスチール缶をひっつかんでプルタブを思い切り開けた。

 ぐいっとあおって喉を鳴らす。エアコンの効いた図書室でも本の山を運べば暑くて、ガツンと冷えたオレンジ果汁はあたしの喉に染み渡る。

 けれど──

「図書室で飲食なんていいの、図書委員さん?」

 マンゴージュースとかいうやたらとトロピカルなものをちびちび飲んでいる図書委員は、とぼけるような顔をした。

「……がんばったぼくたちには、相応の報いがあるべきだと思わない? たとえば、ちょっとしたルールをやぶっても咎められないぐらいの」

 そして、初めてにやりと笑って、その顔はどこかいたずらっぽくて、あたしはつられて笑った。

「……えへへ。賛成っ」

 ──誰もいない図書室で、二人きり。

 ──名前も知らない男の子。

 ──甘酸っぱい、柑橘の香り。

 あたしの心の中に巣食う、どす黒い何かが、すっかり消え去ってしまったのだとは、到底思えないけれど。それでも、

「……ねえ。本の片付け、手伝ってあげたんだからさ。代わりにちょっと、つきあってよ」

「何? ぼくにできることならいいけど」

 あたしは残ったジュースを置いて話し出す。どうしようもなくどうしようもない、あたしの話。

「……人生相談、ってとこかな」

 明け色の光が、みえた気がしたんだ。


      ○


 むかしむかし、あるところに、ばかな女の子がいました。

 女の子は何より走るのが大好きで、子供の頃からずっと、誰よりもはやく走れるように、なんて夢みて、ばかみたいに走ってたの。

 いま思えば、だからだったのかもしれない。

 その子は休まず走り続けてたんだ。いつまでも走り続けられるって、疑いもしなかった。

 ほんと、ばかだよね。足を休めずに走りつづけてたら、馬だって脚が折れちゃう。疲労骨折って知ってるよね。競走馬とか、そんなふうに走れなくなっちゃう子はたくさんいるんだ。

 走って、走ればどこまでも行けるなんてのは、幻想でしかなかった。それなのに、いつか走れなくなることに気付けなかったばかな子には、前しかみえてなかったんだよ。

 かわいそうだと思う?

 あたしは、思わない。

 女の子はある日、初めて感じたのは二年の夏の大会前だったかな、その足に、違和感を感じるようになったんだ。少しずつひびが入るみたいな、そんなわずかな痛み。

 けれど、その年の夏の大会は、女の子にとってとっても大切な大会だったの。だって女の子は一年生のときに、その大会に出られるだけの実力があったのに、それだけの記録タイムを出せていたはずなのに、当時の陸上部の部長の方針で、出場を許してもらえなかったから。

 おかしいよね、年功序列で大会の出場者を決めるなんて。速い人が走るべきなのに、女の子は何度もそう言って、出してもらえるように頼んだのに、部長は聞き入れてくれなかった。

 副部長には何度も、こうやって諭されたの。

『あなたには来年もあるの。今年は、残念だけど仕方ないのよ』

 女の子は歯を食いしばって耐えた。そしてようやく、嫌いだった三年生が引退して女の子は二年生になった。

 新しく部長になったのは、一年生のときに女の子を諭した副部長だった。義理を果たすみたいにその子をきっちり選抜した部長は、全力で彼女をサポートしてくれた。

 女の子はぐんぐんタイムを伸ばしていった。もともとやる気があったし、素質もあったと思う。毎日血の滲むような練習をして、とうとう大会を迎えようとする矢先の、足の不調だった。

 だからきっと、自分でも認めたくなかったんだと思う。女の子は意固地になって走り続けた。

 夏の大会の結果は、努力の甲斐あって、彼女は出場選手の中でいちばん優秀な記録を残したよ。誰よりも速かった。ほんとに、速かったんだ──

 白い光の、その先へ。初めて辿り着けたような気がした。何度も何度も気が遠くなるほど走り続けていると、目の前が真っ白になることがあるの。彼女はずっと、その先へ行きたかった。そのときの彼女には、それが目の前に見えたの。

 だけど、それが彼女の限界だった。

 三年生になってからきちんとケアしたら膝の痛みはおさまって、なんでもなかったのかなって、病院にも行かなかった。

 そのときにはもう、あたしの足は終わってた。

 膝靭帯損傷、っていうんだって。名前の通り、膝の靭帯が傷付いて、腫れたり不安定感があったり、初期はそういう症状があるの。でもしばらくすると炎症はおさまって、違和感もごく軽微になるから、治ったんじゃないかって勘違いする人は多いみたい。だけど、そんなのちっとも治ってなかった。はやく気付けばよかったのに、あたしも部活の誰も、気付けなかった。

 三度目の、あたしにとっては二度目の夏の大会の直前になって、あたしは走れなくなった。

 半月板損傷っていって、膝靭帯損傷を治療せずに放置しておくと、悪化してこうなるらしい。

 ──ほんと、あっけない、ものよね。

 誰よりも速かったはずの陸上部のエース様が、たった一瞬で、足がもつれて倒れこんだその一レースで、松葉杖がなきゃ歩けないような障害者になっちゃった。

 あたしが悪い。自業自得なんだよ。でも、でもね、どうして走れないんですか、あたしの何がいけなかったんですかって、神様に文句でも言ってやりたいの。

 言ってやらなきゃ、気が済まない。そうでもしなきゃ、つらくてつらくて、やりきれない。

 走れなくなっちゃった競走馬は、精肉所に送られて、あっさり殺されちゃうんだ。

 あたしもそうなっちゃえば、いいのに。

 そうすれば、ずっとずっと楽なのに。

 ねえ、あたしはどうしたらいいと思う?

 楽になりたいの。もう、苦しいのは嫌なの。

 何もしないでいるのが嫌なの。何もできないでいるのがつらいの。

 死んじゃえ、あたし、って思うのは、いけないことなのかな。

 これがあたしの、くだらなくて、どうしようもなくて、どこにでもある、あたしだけの悩み。何もしなくたってもう終わってしまった話。

 ──あなたは、どう思う?


      ○


 あたしの長い話を聞いて、図書委員はじっと、少しの間身を縮めて、黙っていた。

 仕方のないことだ。こんな話、しかも初対面に等しいような人にされる内容じゃない話をされて、どんな反応をしろというのか。

 あたしは仕方なく、図書室の壁に立てかけておいた松葉杖をとって、ゆっくりと立ち上がった。

「ごめん……気まぐれで話してみただけだから。特に答えにも、期待してないし。そもそもこんな話、答えようがないよね……だからあたしも困ってるんだしっ」

 無理に明るい声色をつくって、一歩ずつ図書室を出ようと出口に近付く。前と同じだ。図書委員はひとこともくれようとしない。

 あたしはそれが寂しくて、だけど今度こそは、彼から何の返事もないだろう。

 仕方ない、仕方ないと言い聞かせて、図書室のドアに手をかけて──

「……あの、話してくれてありがとう」

 その声が背中を撫でた。

「は……?」

 優しい声だった。ありがとう、って。どうしてお礼を言われなくちゃならないんだろう。

「ぼくには、こうすればいいよ、なんて立派な答えは出せそうにない。だけど、ぼくにこうやって話してくれたことは、ありがとう。きっと話すのもつらいような、ことだろうから……」

 ──胸の奥のほうが、ずきりと痛んだ。

「走れなくなっちゃったその子が、もう何もできないって、そういうふうに思うのはわかる。……いや、ちがくて、わかるような気がする。わかってあげたいと思う? ええと、うん……だけどさ、その子には他にもできることが、いいところが、たくさんあると思うんだ」

「……そんなの」

「ちがわないよ」

 あたしが否定する前に、そいつは言った。

「ぼくは、いつも変なやつだって言われる。自分でもそう思うよ。他の人とちがう、変わってる、好きでそうしてるわけじゃ、ないのに。でもさ、それで自分を嫌いになっちゃうのは、もっと変なんじゃないかって思うんだ」

 彼は一生懸命言葉を探しているみたいだった。あたしはじっと、彼を待った。

「今日は昨日の未来で、明日は今日の未来だ。ぼくたちには今日しかないんだよ。明日があるかどうかなんて、今のぼくたちにはわからない」

 ──あたしはこれから、何をすべきなのか。

 ──あたしはいまさら、何をすればいいのか。

「だから、今できることを精一杯やってみるしかないんじゃないかって思うんだ。今日咲いた花は明日枯れているかもしれない。だから今日摘まなきゃいけないんだよ……きっと」

 あたしは──

「へへ……っ、ふへ……あははっ、あはははっ」

 思わず笑い出してしまって目の前の男の子がきょとんとした顔になった。あたしは慌てて謝る。

「……っは、ふふ、くふ……ごめん、ごめんっ」

 でも笑いはどうにもとまらなくて、ひとしきり笑ってから、ようやくため息をついた。

 ──あれ、なんか、むっとした顔になってる?

「……そんな顔もできるんだ、あんた」

 あたしがそう言うと、そいつは自分の顔をぺたぺた触りだした。やっぱり変なやつだ、けど、あたしは嫌いじゃない、かな。

「……そんな変な顔、してたかな」

 そのとぼけた顔も、わるくないって。

 はじめて、そう思えた。

 あの日から何もかもが嫌になって、ぜんぶ捨ててしまいたかった。昨日から目をそらして、今日を直視できなくなって、明日を見失った。

 だけど、ようやく、今がみえてきた。

 自分の立ってる新しいスタートラインが、今はまだガタガタに荒れ放題で、足元もおぼつかないような不整地だけど──

 みせてくれたのは、この人なんだ。

「……ねえ、あんた」

 彼は、黙って聞いている。あたしの目をじっと見つめて、相変わらずの何を考えているのかわからないような、その目で。

「あたしと一緒に、摘んでくれる?」

 いままでは花になんて目もくれずに走ってきたあたしだから、足元の花だってひとりじゃ見つけられないから。

 この人と一緒なら、綺麗な花を見つけられるんじゃないかって、そう思ったから。

 あたしは黙って答えを待った。やがて、彼は所在なげに頭をかいて──

「……ええと、ぼくなんかでよければ?」

 あたしの松葉杖をとって、控えめに差し出しながら、そう言った。

 閉館時間はとっくに過ぎていて、はじめて二人で帰った通学路は、いつもよりひどく暗かった。


      ○


「そういえば、どうして美咲は園芸学部志望にしたんだっけ?」

 ぼくが何気なく尋ねると、美咲はむっとした顔になって、すぐにため息をついた。

「……あの頃からそういう奴だった、あんたは」

「は?」

 呆れた顔の美咲は、一瞬手を止めた花壇の手入れを再開してしまう。ぼくの質問には答える気ゼロですか。そうですか。

 もう夏本番だ。温室の中は茹だるような暑さで参ってしまう。ぼくたちは交代で休憩をとりながら、蒸発がはやい夏の、いつもよりたっぷりと必要な水やりに精を出していた。

 もう何も言ってくれないのか、と思えば美咲はぼそりと続きをつぶやく。

「あたしがはじめて花壇の手入れしたとき、あんたも一緒だったでしょ」

「……そうだっけ?」

 まったく記憶にない。案の定、美咲はますます大きなため息をついてしまった。

「中学んときっ! 陸上部のっ! 花壇っ!」

 さすがに申し訳なくなっていると、ようやく、少しだけ思い出してきた。あれは確か、ぼくと美咲が知り合ったばかりの頃の──

「あんたのせいであたしはこんなブラック学部に入るはめになったのよっ」

 美咲の怒声が耳に響く。ぼくは謝ることしかできなくて、へこへこしながら美咲に冷たい水を献上するのだ。あと冷やしたタオルも。

「……もう。責任、とりなさいよねっ」

「はあ……はいはい、なんなりと。美咲さま」

「〜〜〜っ!!」

 何故かますます怒る美咲に頭をぺしぺしはたかれながら、ぼくは過去のことを思い出していた。

 過去は、それだけで確固としている。人間の記憶はあやふやですぐに歪められてしまうし、ひどいことに忘れられてしまったりもする。

 だけど、思い出すという行為それ自体には、何にも歪められない強い力がある。

 未来を想像するよりずっと確かなものがある。

 だからこそ人は過去にとらわれる。そしてその過去を失ったときに、何も見えなくなってしまうのだ。未来に何があるのか、そんなことは初めからわからない。だけど確固たる過去があるからこそ、ぼくたちは未来がわからなくても生きていける。その足場がなくなれば戸惑うのは当然だ。

 だからこそ、そんなときは今をみつめてみるのがいいのかもしれない。

 過去がみえなくても、未来がわからなくても、今はずっとここにある。手に届くそこに、花があるのだ。それに手を伸ばすことさえできれば、人は生きていけるはずなんだ。

 だから──今日の花Carpeを摘めdiem

 そうして必死に今日を生きていれば、いつかみえてくるものがある。

 ぼくたちはそうやって、懸命に生きていく。

 たとえ明日が、そこになくても。

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きっと明日には咲くはずの くすり @9sr

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