第60話

  六

 ふらふらと上体を浮かせるようにして、関白は御所の廊下を歩いている。歩いている、と言うより彷徨さまよっている、と表現したほうが当たっている。

 関白の目は何も見ず、虚ろである。

 顔の白化粧はすっかり剥げ、流れた天眉の痕が顔に斑模様を作っていた。失禁したためか、下半身の布地には、べっとりと黄色い染みが不規則模様と化して残っていた。

「関白殿……義明殿……」

 遠慮がちな声が掛けられ、関白は立ち止まった。

 ひょこひょことした動作で、一人の小柄な公卿が近づいてきた。公卿の常として、顔は白化粧に染め、鉄漿で歯を黒く染めているのは、関白と同じである。

 関白に比べれば、頭一つ分ほど背が低い。関白の体からは失禁の際の悪臭が漂っていたが、気にする様子も一切なく、低い背を精一杯伸び上がらせ、公卿は話しかけた。

「関白殿は〈御門〉さまに、謁見なされてきたのでおじゃろう? で、〈御門〉は、なんとお話しになられたのかの?」

 ぼんやりと、関白は、話しかけてきた公卿を見下ろした。

 その声を聞きつけたのか、あちこちから同じような衣装を纏った公卿たちが集まってくる。みな、一様に不安そうな表情をしている。

 関白は呟いた。

「お怒りじゃ!」

 はっ、と公卿たちは身を引いた。

 関白は叫んだ。

「お怒りになられておる! 麻呂は〈御門〉直々に問い詰められたのじゃ! それを、なんじゃ……おぬしらは……」

 喋っているうち激昂してきたのか、関白の両手がわなわなと震えた。

「麻呂一人じゃぞ……麻呂一人〈御門〉の詰問に耐え、責めを負い……それなのに……それなのに……!」

「し、しかし、それが関白殿のお役目でおじゃろう?」

「代わってくれると申すのかっ?」

 話しかけてきた相手に関白は「きっ」と鋭い視線を投げかけた。相手は、たちまち萎れるように顔を俯かせる。

「代わりを務めてくれるとほざくなら、ただちに麻呂は関白を辞職するわいっ! さあ、この中で誰か麻呂と代わってくれりょう、奇特な御仁はおじゃらぬか?」

 誰も答えようとはしない。みな目を逸らし、あるいは俯いている。

「〈御門〉は、こうおっしゃられた……」

 関白の言葉に全員、注目した。

「な、なんと?」

「このまま各地の領主の勝手気儘な振る舞いを許すようなら、麻呂らを取って換えるつもりじゃと……つまり麻呂ら公卿全員、お払い箱にするつもりじゃと仰られた!」

 ざわざわと公卿たちから私語が漏れた。みな落ち着き無く、顔を見合わせている。

「し、しかし、そうなれば、誰が麻呂らの代わりをすると言うのじゃろう?」

 その声に関白は首を振った。

「〈御門〉は直々にご自身で御所を動かす、と申されておる……。もし、そのようなことが実現の運びになれば……麻呂らは終わりじゃ!」

 よた、よた……と関白は酒精濫用者アルちゅうのような覚束ない足取りで歩き出す。

「関白殿……どちらへ渡られるつもりじゃ?」

「屋敷へ帰る……」

 ぼそり、と関白は答えた。ゆるゆると首を振り、がっくりと肩を落とす。

「麻呂にはもう、何も判らぬ。何もできぬ……屋敷へ帰り、家族の顔でも見ることにするわい……」

 公卿たちは言葉もなく、呆然と関白を見送った。

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