第58話

 御所の奥深く、大極殿の大屋根の下には、誰も知らない空間が広がっている。大極殿そのものは厳しい警護が敷かれ、辻々には検非違使パトロール・マンが、目を光らせていた。

 ひそひそと足音を忍ばせ、そこに藤原義明が通りかかった。顔色はやや青ざめ、明らかに場違いであることを自覚している様子であった。検非違使たちは背中にえびら、腰には大刀を提げ、油断無く関白太政大臣の動向を見守っている。

 検非違使たちは顔に奇妙な面を被っていた。雅楽の稜王面に似ているが、はるかに非人間的で、どうやらある種の機械でできているらしい。

 顔を動かすと、面の双つの目玉がぐりぐりと動いて、かなり気味が悪い。関白はその双つの目玉に見つめられ、思わず立ち竦んでいた。

 と、廊下の向こうから女官が一人、両手に三宝を掲げ、渡ってくる。それを見て義明は、ほっとしたように肩の力を抜いた。

 ちょこちょこと、小走りに女官の前へと近づく。女官の捧げている三宝には、食事の用意がされてあった。

「これ! そこの……わしじゃ、関白であるぞ!」

 声を掛けられ、女官は立ち止まった。

 関白である、という名乗りにも、まるで表情を変えない。魚のような目で、冷ややかに関白の顔を見つめている。

「おぬし、もしや、あの娘の係りであるのかの?」

「どの娘のことを仰っておられるのでしょう? ここには娘と呼ばれる者は、いくらでもおりますゆえ」

 女官の答に、関白は苦い顔になった。辺りを見回し、誰も聞き耳を立てていないことを確認して、口を扇子で隠すようにして話しかけた。

「ほれ、時姫とか申す娘よ。いや、今では娘と呼ぶ年頃でもないのかの? 信太従三位の娘、時子という女じゃ!」

 女官は、ゆっくりと頷いた。

「はい、わたくし、確かに時子さまのお食事係を承っております」

 関白は、ほっと溜息をついた。

 いつの間にか関白の顔には玉のような汗が浮かび、せっかくの白粉が筋となって流れ落ちて、奇怪な面相を形作っている。

 貴族は人前では決して汗を掻くことはしない。という常識からすると、関白のこの様子は、きわめて珍しいことである。

 副腎交感興奮物質アドレナリンの匂いが、きつく漂う。関白は恐怖を隠せないでいた。

「それで、どうじゃの? ん?」

「どう、とは?」

 女官の反問に、関白は苛々と足踏みをして、両手を戦慄おののかせた。

「時子の様子じゃよ! 〈御門〉さまのお機嫌を損ねては、おらんであろうな?」

 女官は悠長に首を振った。

「わかりませぬ。〈御門〉さまのお機嫌斜めならずかどうか、わたくしの知るところではござりませぬゆえ。お知りになりたくば、関白殿ご自身でお確かめになればよろしいのではありませぬか?」

 きらり、と女官の目が光る。関白は「うっ!」と肩を竦めた。

 さっと一礼し、女官はその場を離れた。それを見送り、関白はがっくりと頭を垂れた。

 そうなのだ、これから関白は〈御門〉と対面しなくてはならないのだ。それを考えると、途轍もなく気が重い。

 いや、重いどころか、込み上げる恐怖と戦うだけで精一杯だ。

 大極殿の大屋根を見上げる。

 つんつん、と袂を引く感触に目を落とすと、そこに一人の童子が立っていた。

 髪は角髪みずらにし、水干を身につけている。首からは勾玉の飾りを下げ、腰には細身の脇差を佩いている。年齢は十歳前後か、探るような目付きで関白を見上げている。

「関白太政大臣、藤原義明殿でござりまするな?」

 童子は、いやに大人っぽい口調で尋ねた。

 がくがくと関白は人形のような仕草で頷いた。両目は飛び出んばかりに見開かれている。毛穴が開き、両足は細かく震えていた。

 禿かむろだ!

 六波羅蜜探題の、童子たちにより構成されている特殊な一団で〈御門〉直属の監察組織である。この禿たちに目をつけられた公卿は、密かに闇から闇に葬られる運命にあると囁かれている。

「〈御門〉さまがお待ちかねでございます。お急ぎになられますよう……」

「わ、判っておる!」

 関白は屠所に引かれる豚のような足取りで大極殿に向かった。

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