第57話
三
同時刻、
十数年前、時姫が逃走してからは住む人とてもなく、荒れ果てている。世話する者もなく、庭は雑草が生い茂り、庭木は鬱蒼として茂り、辺りは湿け、じめじめとしていた。
屋敷の塀を、一人の武将姿の男がゆっくりと回っている。木戸甚左衛門である。
真っ赤な皮製の陣羽織、伊賀袴。鮫皮の柄に白に金を施した派手な鞘の太刀を腰に佩き、ゆったりと歩く
辺りの気配を探っていた甚左衛門は、人目が途絶えたのを確認して、さっと塀の軒に手を掛けた。
次の瞬間、甚左衛門の姿は掻き消えていた。
単に塀の上に飛び上がり、その内側に位置を変えただけなのだが、あまりに素早い動きに、消えたように見えたのだ。
庭を甚左衛門は、ゆっくりと歩き出した。
そう広い屋敷ではない。
もともと信太従三位は陰陽師であり、それほど多くの配下を従えるというような職掌ではない。時折、御所の求めに応じ、
屋敷の雨戸はすべて開け放たれ、雨風にさらされた内部は、埃が積もっている。時姫が出奔してから無住となった屋敷内のお宝を狙って、盗賊が何度となく忍び込んだ結果である。
もっとも、狙ったところで、盗賊は奪える物のあまりの少なさに、げんなり幻滅したであろうが。
ふと、南天の茂みに隠れている空井戸に、甚左衛門の足が止まった。
井戸には蓋が掛けられている。甚左衛門は小柄を取り出し、南天の茂みを切り払い、蓋を持ち上げた。
井戸を覗き込み、にやりと笑う。頬の傷跡が笑いに邪悪な陰を与える。
明らかに抜け道である。時姫はここから屋敷を脱出したのだ。おそらく源二が掘り抜いた抜け穴なのだ。
屋敷内を一巡りし、甚左衛門は濡れ縁に腰かけた。
予想した通り、収穫は全然ない。
まあ、それは判っていたことである。しかし、まだ手はある。
時姫を発見し、知る
誰とも〈御門〉は謁見しないという朝廷の基本方針を知るのに、時間はかからなかかった。なぜか〈御門〉の周囲には、謎の霧が立ち込めていたのである。
甚左衛門もまた、御所に立ち込めるこの謎に首を捻っていた一人であった。
懐に手をやり、
素っ裸に、ぼさぼさの蓬髪。意志の強そうな顎に、鋭い目付き。しかも目元に、はっきりと目立つ痣があった。
河童淵を襲撃したとき、甚左衛門は群れを成した河童の中に少年の姿を見つけ、すかさず無線行動電話の、
後で地元の百姓たちに聞いて回った結果、時太郎という名前も判明した。この時太郎という少年は、自分が河童であると自称しているらしい。
時太郎! 明らかに時姫の息子である。
目元の痣は、信太一族の特徴であり、甚左衛門は、時姫の父親、信太従三位の目元の痣を見知っていた。
甚左衛門の胸に、山中での出来事が思い起こされた。
炎の中に崩れ落ちる廃寺、胸に槍を受け、絶命する源二。泣き叫ぶ時姫。
道理であの時、時姫は自害せず、従容と縛についたはずだ。自分があの時、もしも自害したら、捜査は別の場所に移り、もしかしたら赤ん坊の息子に手が伸びると思ったのだろう。それより大人しく虜囚となり、目を逸らせるほうがましと判断したのだ。
甚左衛門は配下の者を河童淵に潜ませ、少年の動向を探っていた。それによると、数日前、河童淵を出て旅に出たらしい。
となると、時太郎は母親に会いに京を目指すかもしれぬ。いずれは、この信太屋敷に来ることも、大いに考えられた。
それで甚左衛門は、わざわざ出向いて来たのだ。
もう一度そっと懐に手をやる。
取り出したのは、一つの玉である。玉には黒くて光沢のある鼠の尻尾のような物がぐるぐるに巻きついている。甚左衛門は手にした玉に、そっと声を掛けた。
「甚左衛門じゃ。目覚めよ!」
ぴくん、と甚左衛門の手の平で玉が動いた。
びゅるびゅるびゅるっ! と、巻き付いた尻尾がほどける。尻尾は三本ある。
尻尾は触手でもあるようだ。その三本の触手を使って、玉はぴょんと持ち上がった。
ぐっと甚左衛門の顔の前に玉が持ち上がって、かぱっとばかりに蓋が開くと、そこにぎょろりとした目玉があった。
これは生き物か
甚左衛門は頷き、再び口を開いた。
「わしは、木戸甚左衛門、おぬしの持ち主じゃ。おぬしは、わしの命令だけに従う。それは判っておるな?」
理解したのか、目玉は「うんうんうん!」とばかりに素早く頷く──もしもそれが頷きならば──と、聞き耳を立てるように緊張した様子を見せた。
甚左衛門は無線行動電話を取り出した。画面をよく見せるように翳す。
「この子供の姿が見えたら、わしに知らせよ。この無線行動電話に
目玉は、まじまじと甚左衛門の手にある無線行動電話の画面に見入った。
「直接交信をするか?」
目玉は三本の触手のうち、一本を甚左衛門の無線行動電話に近づけた。甚左衛門の無線行動電話の差込口に触手が接触し、一瞬の間に、大量の
「よし、行け!」
甚左衛門の声に、目玉はぴょんと手の平から跳ねて地面に落ちた。
とととと……と、三本の触手を器用に使って庭から正門へ向かうと、柱によじ登り、崩れかけた屋根へと登っていく。
触手をがしっ、とばかりに屋根に突き立て、動かなくなる。目はぱっちりと見開かせ、正門前の道路を見張っている。
それを見た甚左衛門は、満足して立ち上がった。
正門の陰に潜み、人通りが途絶えるのを確認して、悠然と外へ出る。正門屋根の目玉は、遠ざかる甚左衛門の背中をじっと見送っていた。
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