第55話

  御所

  一

 京の御所、まわりの公卿の屋敷が桧皮葺ひわだぶきなのに対し、ここだけは燦然と輝く灰青色の瓦葺きの屋根が連なっている。庭には松、梅、桃などの大樹が葉を茂らせ、町屋の喧騒は欠片かけらも届かない静寂が支配している。

 高名な庭園家の設計した庭を眺める渡り廊下を、衣冠束帯に身を正した公卿の一人がゆったりと歩いている。顔にはべっとりと白化粧を塗りたくり、天眉を描き、歯は鉄漿おはぐろに黒くしていた。背後には供回りの小者を引き連れ、どこから見ても堂々とした貴族の姿であった。

 と、貴族の顔が微かに顰められた。足が止まり、くるりと背を向け、今やって来たばかりの道を、せかせか戻り始めようとする。

「お待ちあれ!」

 廊下を甲高い声が響いた。ついで辺りも憚らない、どすどすという不作法な足音。

 萌黄色の烏帽子直衣が目に入る。公卿の眉が顰められた。

「お待ちあれ! 関白殿! 拙者でござる。上総ノ介にて候……」

 名前を呼ばれ、関白と呼ばれた公卿は立ち止まった。声の方向を振り向いた時には、拭ったように不機嫌な表情は消え、代わりに、滴るような笑顔が貼り付いている。

 関白太政大臣、藤原義明である。御所の政争により各地を放浪中、緒方上総ノ介に拾われ、京の政界に返り咲くことができた。いわば上総ノ介は大恩人であるが、近ごろはなるべく関わらないよう避けている。

 しかし宮廷人の常として、決して自分が疎んじているとは露にはしない。

「これは上総ノ介殿……よいお日和でおじゃる!」

 ほほほほ……、と鳥のような笑い声が弾けた。

 向かい合うのは緒方上総ノ介である。こちらは思い切り険しい表情を隠そうともしない。足を急がしてきたのか、息を弾ませている。

 上総ノ介の背後には、鼠のような顔つきの供が、やや上目遣いになって控えていた。

「関白殿! 拙者、何度も奏上申し上げたはず! いつになったら〈御門みかど〉とのご面会が叶うのでござるか?」

 上総ノ介の口調は詰問になっていた。

「ああ」と関白は顔を仰向けた。

「その儀でおじゃるか! 麻呂まろも上総ノ介殿には、非常なる迷惑をお掛けして、心苦しいしだいでおじゃるが、中々これがどうして……ま、もう暫くお待ちあれ」

 怒りが上総ノ介の顔を赤く染めた。眉を上げ、ぐいと一歩、関白に近づく。思わず関白は「ひっ」と身を竦ませた。

「暫く、暫くと、もう三月になり申す! なぜ謁見が叶いませぬ? 理由をお聞かせ頂きたい!」

 一瞬、関白の面上に微かに不快な表情が浮かんだが、すぐそれを消し、袂から扇子を取り出して口を覆って隠した。

「それ、その儀でおじゃるよ! 何しろ、前例がないので……麻呂の同輩も過去の記録を引っくり返して見比べておりますところで、なにか良い前例がないかと……。その内、良いお返事をお耳に入れまする。でおじゃるから、お待ちをと申し上げておる」

「うぬぬぬ……!」と、上総ノ介は怒りを露にしたが、それでも関白の言葉を拳拳服膺けんけんふくようするかのように頷いた。

「とにかく、お頼み申し上げる!」

 くるりと背を向け、どすどすと足音を荒げ遠ざかる。後から鼠のような供が、ちょこちょこと小走りに従っていく。

 すっかり上総ノ介の姿が視界から消えると、関白は顔を渋面にした。

「ふん! 田舎侍めが! 〈御門〉が早々に謁見が叶うと思うてか!」

 呟くと、背後の小者を振り返った。

「よいか! 先ほどの緒方上総ノ介の背後に控えておった鼠のような面相の小者を覚えておれ。あれは木本藤四郎と言う、素性も定かでない成りあがり者よ。あやつ、上総ノ介の代理としてちょくちょく御所に参内してくるが、麻呂の屋敷に伺候しても決して上げてはならぬぞ。あのような者、目にするのは穢れよ! わかったの?」

 背後の供は「へへっ」と頷いた。

 ふっと息を吐き、関白は廊下から屋根を見上げた。

 御所の屋根から〈御船みふね〉のすらりとした優美な姿が青空に突き刺さるように聳えている。

 見上げる関白の顔が綻んだ。

「いくら田舎侍が力んだとしても、この御所と〈御門〉さまに指一本、触れることすらできぬ道理よ!」

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