第43話

  四

 濛々とした湯気に水虎の像は聳えている。

 昼間の光に見る水虎の像は、ただの岩の塊にしか見えない。

 雪崩れ落ちる瀑布に、像の足下から湧き上がる湯気が加わり、あたりにはむっと咽せるほどの熱気が籠もっていた。

 たちまち河童たちの全身は、びしょ濡れになってしまう。

 しかし、水に濡れることは河童は平気である。閉口するのは、熱気と硫黄の匂いのほうだ。居心地が悪そうに、河童たちはもじもじとしていた。

 長老は水虎像を見上げた。それから、ゆっくり目を閉じる。

 河童たちは息を呑み、しんと静まりかえっている。

 ゆっくりと長老は両腕を上げた。

「お〝声〟をお聞かせ下され……水虎さま……」

 そのまま、じっと立ち尽くす。

 どうどうという水飛沫の音だけが響いている。

 周りで見ている河童たちの目は、疑い深そうに時太郎に集中していた。

(こんな奴に、水虎さまが話し掛けられたはずがない……)

 と、河童たちは、びくりと飛び上がった。

 ──時太郎よ……旅立つのだ……

 深い、水の底から湧き上がるあぶくのような、ぼこりとした〝声〟が頭の中に響く。

 河童たちは一斉に水虎像を見上げた。

「み……見ろ……水虎さまが……!」

 そこには、もはや岩の塊はなかった。

 ざあざあと滝の飛沫を浴びる、巨大な河童が立っている。灰色がかった緑色――錆青磁さびせいじ色の皮膚、ぺたりと頭の皿を取り巻く髪の毛、ゆっくりと巨大な河童は、その場にいる河童たちを眺めていた。

 河童たちは次々に跪き、手を合わせ拝んでいる。

 長老は目を見開いた。

「おお……! 水虎さまがお姿をお現し下さった! なんと言うことじゃ……」

 ──苦楽魔くらまへ行くが良い……天狗に会うのだ。そして、仲間を探せ……

 そこで、ふっつり気配は消えた。水虎像は元の岩の塊に戻った。

 あまりの驚きに、河童たちは全員、ぼけっと突っ立っているだけだった。口がぽかんと、阿呆病デメンティア罹患りかんしたかのように開いている者もいる。

 さっと長老は、時太郎に向き直った。長老の目は真剣である。

「聞いたであろう。時太郎よ、お前は苦楽魔くらまへ行かねばならぬ!」

「苦楽魔……?」

 時太郎は聞き返した。初めて聞く地名である。長老は、確固としてうなずいた。

「そうじゃ、苦楽魔には天狗の一族が住み着いておる。天狗と我ら河童は、古い盟友なのじゃ! 水虎さまの仰せに従い、お前は、そこへ行かねばならぬぞ」

 髭をなでる。考え深そうな表情が浮かんでいる。

「それにしても今度のことといい、何事か我ら河童の……いや、もしかしたら、この世の総てが変わり行く兆しなのかもしれんな。そしてその中心にいるのが、お前なのかもしれぬ」

「おれが?」と時太郎は自分を指さした。

 とても信じられないことだった。

 時太郎は父親の三郎太を見た。

 三郎太は、なにか自分だけの考え事に浸っているようで、全く時太郎を見てはいない。

 また父親が遠ざかったみたいだった。

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