第38話

  二

 藤四郎の危惧した通り、河童淵に到着したのは、夕刻近くだった。

 空気はひんやりと冷たく湿り、聳え立つように生えている海岸紅杉セコイアが暗い影を投げかけている。

 遠くから、どうどうと滝の音が聞こえている。

「この辺りでございます……」

 微かに震え声で作蔵が甚左衛門に話しかけた。甚左衛門は無言で頷いた。

 河童淵攻略の使命は甚左衛門が請けているので、手には軍配を持っている。藤四郎は投石器と、軍鑑の役目である。

 二輪車からひらりと地面に足を降ろし、甚左衛門は軽い足取りで滝壺を目指した。藤四郎も慌てて、その後を追う。

 岩がちの獣道を辿ると、不意に眼前が開け、滝壺が視界に入ってきた。

「これは……!」と、思わず藤四郎は声を上げていた。

 滝壺に巨大な河童の像が刻まれている。高さは、約十丈。見上げるほど巨大な石像は、滝の水飛沫を浴び、静かにこの場所を守っているようだ。

 甚左衛門は腰に手を当て、いきなり声を張り上げた。

「この辺りの河童に物申す! 先日、我らの配下の山師三名、うぬらによって幻術を掛けられしと聞く。そのような怪しの術、この木戸甚左衛門には通用せぬと知れ! 直ちに降伏して余の下知に従えばよし、もし逆らうなら、後悔することになろう!」

 なろう……

 なろう……

 甚左衛門の語尾が、滝壺に木霊した。

 藤四郎は伸び上がって甚左衛門に話しかけた。

「さて、河童どもが聞いておるのかのう……」

「聞いている。近づいた辺りから、気配がびんびんと感じられたわい!」

 おぬしには感じ取れなんだか? という意味が言外に籠められている。

 藤四郎は面白くない。武芸は、藤四郎の苦手であった。

 それに、甚左衛門のざっかけない口調も。かつては自分に対し、へりくだった言葉遣いであったのが、同格になると、途端にこれだ!

 と、滝壺から声が響いた。

 ここは水虎さまの聖域じゃ──!

 性懲りも無しに、またぞろ、やって来おった──

 水虎さまの恐ろしさを知れ──

 藤四郎が背後を振り返ると、作蔵ががたがたと震えている。

「霧が……」

 作蔵が呟いた。

 藤四郎が辺りを見回すと、その言葉どおり、濃密な霧が立ち込めている。

 さっと甚左衛門は、軍配を上げた。

「構えよ! 油断するでない!」

 しかし、兵たちは甚左衛門の命令を聞いていない。みな、青ざめた顔で、辺りをきょろきょろと見回すだけだ。

 甚左衛門は、苛立った声を上げた。

「ええい、みな何を臆しておるか! ただの霧ではないか!」

 一人の兵が震える指先を甚左衛門の背後に突き立てた。

「あ、あれ……!」

「何?」と、甚左衛門と藤四郎は振り返る。

 まじまじと二人の目が見開かれた。

 霧の中から、滝壺の河童像が、ゆったりとした歩みで現れる。霧を掻き分け、巨大な河童は、ずしり……と重々しい足音を立てた。

 ひえええ……と、兵たちは悲鳴を上げていた。

 わっ、とばかりに浮き足出す。今にも背を向け、逃げ出しそうだ。

 口許を引き結び、甚左衛門は素早く兵たちの前に回り、すらりと腰の刀を抜き放った。

「もし、逃げる者があれば、この場で切り捨てる!」

 口調は真剣だった。

 兵たちの、足がひたっと止まった。

 しかし目は巨大な河童に向けられている。

 ずしり……また一歩、河童は近づく。

 甚左衛門は大声を上げた。

「みな、弓を持て!」

 兵たちは顔を見合わせた。おずおずと弓を手にすると、矢をつがえる。

 甚左衛門は首を振った。

「そうではない! 矢弦やつるを鳴らせ!」

 堪らず、藤四郎は声を掛けた。

「甚左衛門、何を言うておる?」

 甚左衛門は怒りに満ちた顔を藤四郎に向けた。

「幻術破りには、これが一番なのじゃ!」

 兵の一人から弓を奪い取ると、自ら弦を引き絞り、びいんと弾いた。

「さあ、同じようにせんか!」

 兵たちは、さっぱり訳が分からないまま、見様見真似に甚左衛門の仕草を真似る。

 びいん!

 びいん!

 びいん!

 霧の中に、兵たちの矢弦を鳴らす音が響いた。

 藤四郎は迫り来る河童像を見つめていた。

 呟く。

「河童の石像が消えるわ……!」

 信じられぬ、と首を振る。

 巨大な河童の石像が、じわりと空中に溶け込んでいった。同時に、あれほど立ち込めていた霧も、急速に薄れていく。

 藤四郎は甚左衛門に振り返った。

「甚左衛門、どういう訳じゃ? いったい、何が起きた?」

追儺ついなの行事に、京の公卿どもが啼弦めいげんの法というのを、やっていてな。それで、思いついたのよ。破魔矢と申すではないか。昔から、弓には魔を払うという言い伝えがあったので、もしやと考えたのだ」

 甚左衛門は、にたりと、勝ち誇った笑いを浮かべた。

 理由は矢弦の震動が、河童たちの〈水話)の音波に干渉したためである。矢弦の振動数は、河童の音波の倍数の周波数に相当し、両方が打ち消し合う形となったのだ。

 がさがさがさ……

 滝壺近くの山笹が掻き分けられる音がして、二人は、はっとその方向を見た。

 すると……。

 見よ! あちこちから河童たちが、うようよと夕闇の中から湧き出してくる!

 河童たちは怒りの表情を顕わにしていた。

 そのうちの一人が素早く地面から小石を拾うと、ひゅっと投げつけてきた。

 びしっ!

 つぶてをまともに受けた兵が、呻き声を上げ、倒れた。怖ろしいほどの威力がこもった、河童の礫であった。

 けえ────っ!

 河童の甲高い叫び声が、長く尾を引き、それをきっかけに「わあっ!」とばかりに襲い掛かってくる。ぴょんぴょんと跳ねるような動きで、人間離れした跳躍だった。

「者ども、何をしておるっ! 矢を番えよ、槍を構えるのだ!」

 甚左衛門が軍配を手に喚いた。

 兵たちは叱咤の声に、ようやく我に帰ったようであった。

 日ごろの訓練通りに体が動き、気がつくとすでに、矢弦に矢を番えていた。

「討て──っ!」

 さっと甚左衛門が軍配を振ると、兵たちは一斉に矢を放った。

 ざあっ、と怖ろしい音を立て、矢は向かってくる河童たちに放たれていく。

 ぎゃっ!

 ぐえっ!

 短い悲鳴を上げ、河童たちは次々に矢に貫かれ、地面に倒れた。

 それを見た河童たちに、恐慌が起きた。

「槍、構え──っ! 掛かれ──っ!」

 甚左衛門の命令に、槍兵たちが穂先を並べ、突っ込んでいく。

 きゃあ──っという絹を引き裂くような細い鳴き声を上げ、河童たちは退却した。

「藤四郎、何をしておる! 投石器はどうした?」

 甚左衛門に呼びかけられ、藤四郎は「あっ!」と我に帰った。

「傀儡ども! 投石器を!」

 喚いた藤四郎に、ぼけっと突っ立っていた傀儡たちは、ようやく動き出す。ぎりぎりぎりと綱を引き絞り、投石器の腕を倒した。

 腕の先の受け皿に、傀儡の一人が巨大な岩を持ち上げ、載せる。

「射てーっ!」

 がくん、と掛け金が引かれ、ぐるんと投石器の腕が回転した。

 空中を飛ぶ大岩は、いやにゆっくりと放物線を描いていた。藤四郎は唾を呑みこんだ。

 滝壺に、岩は吸い込まれるように消える。

 そして──

 凄まじい水飛沫が上がった。

 その場にいた河童たちは、水飛沫に掬われ、薙ぎ倒される。しかし蛙の面になんとかで、まったく応えていない。

 大波に攫われる感じが面白いのか、けっ、けっ、けっというような奇妙な笑い声が聞こえていた。

「次じゃっ! 次を射てっ!」

 苛々と足踏みをして、藤四郎は叫ぶ。傀儡たちが同じ作業を繰り返す。

 ぶうん、と音を立て、大岩が飛んだ。

 今度は岩は滝壺の、水虎像の足許に命中した。

 衝突した瞬間、岩は四方に砕け散った。衝撃で水虎像が微かに揺れたように見える。

 藤四郎は歯噛みした。

「くそっ、役に立たん……」

「いや……」

 いつの間にか、甚左衛門が横に来ていた。

「そうでもないようだ」

「なに?」

 あれを、と甚左衛門が水虎の像を指さしていた。

 水虎像の足許から白い煙が湧き上がっている。

 どどどどど……

 微かな震動が足下から伝わってくる。藤四郎の額に汗が噴き出した。

「こ、これは、地震か……?」

 甚左衛門は地面に跪く。手を地面に押し当てた。

「藤四郎、触ってみよ」

 言われて、藤四郎も地面に手を押し当てた。

 はっ、と顔を挙げ、甚左衛門の顔を見つめる。

「暖かい……」

 水虎像の足下から、もくもくと白い蒸気が噴き上がった。

 ずばあああん……!

 怖ろしい爆発音とともに、熱風が藤四郎と甚佐ェ門の顔に吹き付けてくる。

 わあっ、と二人は思わず腹這いになっていた。目の前の草を掴み、藤四郎は我知らず念仏を唱えていた。

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