第23走 お姉ちゃんの希望はバイブレーション

 ここは《研究病院》の一般病棟なの。

 そう教えてくれたのは、いつぞやのニューハーフ医師だった。

 千隼が目を覚まして暫くすると、幸から連絡を受けたのか、浅黒い肌にきんこつりゅうりゅうの女医が「あらあら」と頬に手をあてながら病室へやって来た。女医は、どう考えても筋肉で百キロは有りそうな肉体を音も立てずに滑らせて、ベッド脇の丸椅子に腰かける。それから聴診器で心音を聞き、簡単な触診をしていった。


 千隼はただされるがままに診察を受けた。

 未だ、脳髄が状況の理解を拒み続けている。

 飛鳥が《鬼憑き》だと《SCT》に知られてしまった。そして、これから飛鳥は《研究病院》へと移送される。様子がおかしいと思いながらも飛鳥はそれに従い、地下五階の隔離区画へと向かう。監獄のような病室に辿りつくと、その額にいかめしい《かんなわ》と取り付けられ「君が《左脚の鬼憑き》だったんだよ」と告げられるのだ。それからの事は判らない。願いを叶えていない《鬼憑き》であるならば、二週間後に《鬼肢》に喰われてしまうという事はないのだろう。だが逆に言えば『死』という解放すら与えられることなく、その生涯をコンクリートに囲まれた地下で過ごすのかもしれない。いや、そもそも《鬼憑き》が本当に不老不死というならば、未来永劫――。


 それはどうにかして避けなければならない。

 だが、今の私に何ができるというのだろう。


 なにしろ、この《研究病院》は《SCT》の本部施設も兼ねている。千隼のいる一般病棟は普通の病院と同程度の警備しかないないようだから、逃げ出すことも可能だろう。しかし、これから飛鳥が移送される隔離区画は《鬼憑き》を閉じ込める為の施設なのだ。地上階は《SCT》の本部施設で、地下は何重ものてっに阻まれている。必要とあらば本部施設を爆破して《鬼憑き》を生き埋めにする事もできると奧山は言っていた。そんな場所から私ごときが、飛鳥を助け出すことが出来るだろうか。いや、仮にできたとしてもどうなる。飛鳥が《鬼憑き》だと《SCT》に知られてしまった以上は、もう日常生活を送ることはできない。


 もちろん、私は飛鳥以外の人間などどうなってもいい。

 必要とあらば人を攫って、飛鳥に食事として振る舞おう。

 だが、飛鳥がそこまでして『生きたい』と願うだろうか。『自由』を欲するだろうか。


 飛鳥は私とは違う。まっとうな人間だ。

 ただ少し直情的な、優しい子なのだ。

 飛鳥はきっと《研究病院》の地下で永久に過ごすことを選んでしまうだろう。

 五年間ずっと続けてきた準備も、全て、無駄に――


「それにしても水無瀬さん良い身体してるわねぇ」


 唐突に、触診をしていた女医が野太い声で呟いた。

 丁度、千隼が飛鳥の《鬼肢》に貫かれたはずの左脇腹を触診している。

 そういえば、どうしてあの怪我は跡形もなく消え去っているのだろうか。

 疑問に眉をひそめる千隼に気づくことなく、女医は「鍛えてるの?」と訊いてくる。


「まあ、それなりには」

「へえ……。アタシも昔、海外にいた頃は鍛えてたから判るけど、ここまで鍛えるの大変だったでしょう。お腹まわりってどうしても脂肪ついちゃうし」


 言いながら、女医は千隼の腹直筋や腹斜筋をなでていく。その指は下半身へと伸びていき、千隼の丸太のごとき大腿四頭筋をつまみ始める。


「義足なのによくこの筋肉維持してるわね。まだスポーツ続けてるの?」

「ええ」

「じゃあ退屈でしょう。こんなとこでジッとしてたら」

「そうありませんよ。慣れてますから」

「慣れてるって――」


 不意に、女医が言葉を止める。

 何かがせわしなくうごめくような、そんな音が聞こえてきたのだ。

 女医は周囲を見回し、ベッドの脇に置かれた屑カゴで視線を止めた。そして躊躇ためらうことなくその中へ手を突っ込み、紙くずの奧から何かを取り出す。

 携帯電話だった。

 液晶に『アラーム01』と表示したまま、せわしなく震えている。


「これ、貴女の?」


 女医はアラームのスイッチを切ると、そう言って携帯電話を掲げてみせる。

 千隼は答えなかった。


「あれ? でも、そういえば水無瀬さんの携帯電話って確かこっちで預かってたはずだけど、どうしてここにあるのかしら。太郎ちゃんが持ってきたの? ダメだって言ったのに。……太郎ちゃん、ちょっとだけお馬鹿さんなのよね」


 千隼は答えなかった。

 そんな場合ではなかったのだ。


 今、千隼の脳髄は完全に覚醒していた。バラバラに混ざり合っていた思考が携帯電話のアラームに導かれ、秩序だった一つの仮説を組み立てる。仮説はある結論へと達するものであり、その結論は次に千隼が取るべき行動を指し示している。

 千隼は口を開いた。


慶子よしこちゃんさん」

「源氏名に『さん』付けはやめて。……それで、どうしたの?」

「私の髪留めありますか?」

「髪留め――って、これかしら」


 千隼は女医から薄汚れた白い布を受け取ると、それを使って長い髪を器用にポニーテールへとまとめていく。


「え、ちょっと、え? 水無瀬さん、どうしたの急に?」

「杖は?」

「杖? 貴女の荷物なら、少しはそこにあるけど……」


 女医の指し示したカゴの中に義足と、その横に杖が立て掛けられているのを確認し、千隼は「よし」と呟く。


「あ、あの水無瀬さん? 言っとくけど外には出られ――」

「すみません、ちょっと耳を貸してください」


 問答無用で女医を手招き。女医は怪訝けげんそうに眉をひそめながらも、自身の耳を千隼の口元へと寄せる。

 そして千隼は――

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