第24走 妹にとって『お姉ちゃん』とは

 あのやまさちという刑事が官舎へやって来たのは午後四時頃だった。

 飛鳥はその時、随分と遅い昼食をとっていた。

 食べ始めたのは午後二時頃だったので、そこまで遅いというわけではなかった。だが飛鳥は、昼食にと作ったカップ麺を二時間経っても食べ切れずにいたのだ。冷めたスープの表面には油が白く固形化し始めている。ただでさえしょっぱいだけで美味しくもないカップ麺は、この世の物とは思えぬ不味さへと変貌していた。カップ麺の中身を割り箸でつつくだけで一向に口へ運ぼうとしない飛鳥を見て、幸は苦笑しながら口を開く。


「お姉さんが目を覚ましたの」


 だからお見舞いに行こう――そんなことを言った。

 是非もなかった。

 飛鳥はすぐさま席を立ち、残ったカップ麺を台所のシンクへぶちまける。すぐさま踵を返し、幸のそばへ。


「どこの病院ですか?」

「――《研究病院》の一般病棟。一緒に行きましょ」


 幸はそう笑って、車のキーを指でクルクルと回して見せる。それから「あ、携帯電話は電源切っておいてね。ちょっと厳戒態勢だから」と付け加えた。

 飛鳥はそれに従い、幸の後を追う。

 ふと『厳戒態勢』の意味が気になったが、飛鳥はそれ以上の思考をやめた。たぶん昨晩起きた《鬼憑き》の事件内容を第三者に伝えられては困るから、疑われるような真似もするなということだろう。

 そんな事よりも気になることがある。


「お姉は? 会いましたか?」

「うん、元気にしてたよ」


 後部座席からの問いかけに、幸は車のエンジンをかけながら答える。そして、ゆっくりと駐車場から一般道へと車を滑らせて「やっぱり心配?」とイタズラっぽい笑みを浮かべてきた。

 その見透かすような笑みに、少しだけ腹が立った。

 飛鳥は答えの代わりにバックミラー越しに幸の眼鏡を睨みつけた。そもそも『やっぱり』って何だ。家族の心配をして何が悪い。あたしが『本当は姉の事が心配なくせに素直になれない妹』だとでも言いたいのか。

 だとしたらまったくの誤解だ。

 だって、あたしはこんなにも腹を立てているのだから。

 そんな感情を込めてバックミラーを睨みつける。

 だが幸にその感情は伝わらなかったらしい。

 出来の悪い生徒を優しく諭すような苦笑いを浮かべて、幸は口を開く。


「元気な顔を見せてあげて。千隼ちゃん、すぅぅぅぅっごく心配してたんだから」


 ――チッ、

 思わず舌打ちが出た。


 途端、幸はギョッとした表情を浮かべたが、飛鳥にそれを気にする余裕はない。

 あの女はまた、あたしの心配をしてるのか。

 ちょっとは自分の心配をしろっての――。


「何か……気に入らないの?」


 幸は探るように、そんな事を訊いてくる。

 飛鳥は自身の中に抑えきれない何かが膨れ上がるのを感じた。

 何しろあたしはずっと腹を立てているのだ。今日、官舎で起きたときからずっと。お姉があたしを助けて、また病院送りになったと聞いたときからずっと。

 膨れ上がった激情は腹から上へと這い上がり、喉を震わせ口から溢れ出す。

 何か気に入らない?

 ああ。もちろん気に入らない。

 だって――


「お姉は、あたしを子供扱いし過ぎなんです。あたしはもう一人で生きてける」


 あたしはもう一人前だ。

 一人前の条件は、世界を生き抜く武器を持つことだと思う。

 多くの場合、それはお金を稼ぐ為の武器だ。

 あたしの武器はこの両脚。なにしろこの歳で五輪候補に選ばれる脚だ。短距離の日本女子記録だって持ってる。多少の才能があった事は認めるけど、はっきり言って体格に恵まれないあたしがここまで来るのは大変だった。血反吐なんてものが本当に出ることを知った後も、それでもまだ頑張ってここまで来た。

 一人前になる為に、人一倍努力したのだ。

 一人前になって、お姉と対等になるために努力したのだ。


「はっきり言って、お節介もいいとこ」


 なのに、水無瀬千隼はあたしを『妹』扱いする。

 いつまでも、あたしに世話を焼く。

 いつまでも、あたしを守ろうとする。

 いつまでも、あたしの為に命を賭ける。


「アイツはね、『姉』っていう立場に酔ってるんです。ごちゃごちゃ言っても、結局はあたしを『妹』だって見下したいだけ」


 あたしはお姉に何度も助けられた。

 何度も何度も何度も何度も何度も助けられて、

 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、お姉は死にかけた。

 もうやめて欲しい。

 あたしの為に命を賭けないで欲しい。

 もう、対等になったでしょ?

 もう、あたしは一人前でしょ?

 もう、あたしを『妹』扱いしないで。


「それで死にかけてるんだから、世話ないです」


 もう、あたしのせいで死にかけて欲しくないのに。

 

 そう一気に吐き出して、飛鳥はようやく自分がどこにいるのかを思い出した。一気に現実の風景が戻ってくる。深山幸の運転する自動車の中。その後部座席。車内には飛鳥と幸の二人しかいないが、それすらも意識の彼方に追いやって、ひたすら自分の想いを吐き出してしまった。

 バックミラー越しに、幸と目が合う。

 飛鳥は恥ずかしくなり、取り繕おうと口を開くが「え、あ。いやその――」と意味のない音しか紡げない。

 その様子を眺めて幸は「なるほどね」と、大きく頷く。

 何が『なるほどね』だ、と反駁しかけた口を飛鳥は慌てて抑えた。いけない。お姉へ向けるべき怒りを他人に向けちゃいけない。そんなスジが通らないことしちゃダメだ。

 飛鳥は幸に悟られないよう、小さく深呼吸する。

 それから少しの間、車内に沈黙が流れた。

 恐らくその間に、幸は語るべき言葉を探していたのだろう。唐突に、少しだけ息を吸い込んでから意を決したように「わたしね」と口火を切った。

 飛鳥がバックミラーを見たのを確認してから、幸は語り出す。


「実は教師を目指してたの。中学校のね」





 同時刻。

《研究病院》のリノリウムの廊下に、ガラコロンという足音が響く。

 音の主はもみじだった。

 椛は土足厳禁の院内を、ぼっくり下駄を履いたまま進んでいる。ただでさえかんさんとしている《研究病院》だ。椛のぼっくり下駄のやかましい音は、一般病棟の隅々に染み渡った。その上本人が苛立っているのか、一歩一歩が親のかたきを踏みつけるかのように鋭い。

 当然、すぐに人がやって来た。


「ちょ、ちょちょちょっ! どうしたんスか。鬼無里のアネさん!?」


 現れたのは、看護服の胸元をはだけさせた若い男の看護師だった。

 看護師はネックレスやピアスをじゃらじゃらと鳴らしながら椛の行く手を阻む。


「太郎クンか」

「アネさん、靴のまま入っちゃダメッスよ。オレのサンダルン貸すんで早く脱いで――」

はやクンの病室ハこっちカ?」

「ちはや? ……あ~、ミズナイセさんの?」

「そウだ、『み・な・せ』千隼ダ」

「それなら上の階――って、ちょ、ちょいちょいちょい! アネさん、どこ行くんすか」

「千隼クンの部屋ダ」

「ダメっす、ダメっす。よしちゃんセンセーに怒られますって」


 看護師は椛を止めようと両手を広げるが、椛はその脇をスルリとすり抜けてしまう。仕方なく後を追う看護師は「まだ、ミズナイセさんは安静にしなきゃいけないってセンセーが」と繰り返すが、それで椛の足が止まることはなかった。


「アネさん、困りますって――」

「とこロで、そノ慶子クンハ、今は診察中か?」

「そっすよ、診察してるんで。だから、勝手に入ったら怒られますって、」

「入っテからドれくらい経ッた?」

「え、」看護師は腕時計を見て「一時間くらいッすかね」


 能天気。

 未だ何も気づく様子のない看護師に、椛はため息を吐いた。


「慶子クンは、普段、たダの診察に一時間もかかルのか?」

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