第22走 お姉ちゃんと絶望と優しいお姉ちゃん

 ゴトリ、という音で千隼ちはやは目を覚ました。


 最初に目に入ったのは真っ白な壁紙が貼られた天井だった。加えて視界の端をふちどるようにクリーム色のカーテンが吊り下がっている。細長い蛍光灯の光はカーテンの向こう側にあって、そのせいで全体的に薄暗い印象を受けた。

 千隼は眉をひそめる。

 これと同じような景色を、これまでに二十三回ほど見たことがある。

 その既視感に従って左方向へ首を転がすと、そこには吊り下げられた点滴があった。そこから伸びる管は当然のように千隼の左腕へと伸びており、左腕は白い掛け布団の上に乗せられていた。そこでようやく千隼は全身を暖かく包むベッドの感触に気づく。

 病院。

 ぼんやりとした脳髄が、ようやっとの思いでその二文字を探り当てる。


「おはよ」


 柔らかい声がした。

 千隼は頭を右方向へと転がす。

 そこに、いつものパンツスーツに身を包んだやまさちが丸椅子に腰かけていた。

 幸は果物ナイフで、切り分けたリンゴの皮にウサギ耳を作りながら「起こしちゃったかしら」と微笑む。

 状況が呑み込めない。

 何故、私は病院のベッドで寝ているのだ。どうして幸が付き添っているのだろうか。

 更に眉をひそめた千隼を見て、幸も同様に眉をひそめた。

 幸は果物ナイフを物書き台に置いて問いかける。


「憶えてる?」


 何を、


もみじちゃんが助けてくれたのよ。――国立競技場から」


 国立競技場。

 その単語は、千隼の脳髄を覚醒させるのに充分な電圧を有していた。

 国立競技場。《おにき》となった飛鳥あすかを追って向かった場所。椛が現れ《鬼肢》の皮膚を身にまとい、飛鳥と戦った場所。そして、飛鳥に殺されかけた椛を助けようと――

 助けようと? 飛鳥を人殺しにしないため、ではなく?


「でも軽傷で良かったわね」


 千隼の顔つきの変化を見取って、幸はそう続けた。

 その声に千隼は思考を断ち切られる。もやもやとした何かが残ったが、それを探りだそうとするうちに『何か』は霧散してしまった。まだ脳が完全に覚醒しているわけではないらしい。そう他人事のように認識する。


「そりゃ十二時間も目を覚まさなくて軽傷って言うのは変だけどね。《鬼憑き》とやり合って軽い打撲と脳震盪で済むなんて、けっこうな奇跡よ?」


《鬼憑き》。

 そうだ。一番大切なことを忘れていた。


「あ、飛鳥は――!?」


 千隼は飛び起きようとして、途端、左脇腹から走った激痛に息が詰まる。思わず脇腹に手をあてたが、特に外傷のようなものはない。傷めているのは内側だけらしい。軽い打撲というやつか。

 ――と、そこまで考えて千隼はようやく気づく。

 なんで私は生きているんだ?

 確かに飛鳥の《鬼肢》が、左脇腹をえぐり、内臓を食い破り、背骨にまで達していたはずの傷痕が、跡形もなく消えている。まさか、全てが夢というわけではあるまい。

 しかし、全て夢でないのなら――。


「千隼ちゃん、少し落ち着こう。ね?」


 幸は千隼の背中をさすりながら、そっと再びベッドへと横にさせる。

 千隼もそれまでの思考から逃げるように、幸の腕へいざなわれるまま横になった。


「飛鳥ちゃんは官舎にいるわ」

「官舎って――あの?」

「そお。ずっと一緒にいた官舎」


 幸はそう言って微笑む。人を包み込むような優しい笑み。

 だが、何故だかその笑みに違和感を覚えた。

 どうして、笑みを浮かべるのだ。


「飛鳥ちゃんには、あなたが《左脚の鬼憑き》から飛鳥ちゃんを助けようとして怪我をしたって伝えてあるわ」

「……伝えて、ある?」


 違和感はますます膨れ上がる。

 いや、そうではない。

 これは脳の奥底では全て理解しているのに、自分自身がそれを認めたくないが故の違和感だ。あと少しで、全力で目を逸らしている事実へ辿りついてしまう。

 そして幸は、決定的なひと言を発した。


「――飛鳥ちゃんが、《左脚の鬼憑き》なのね?」


 何をバカなことを、と笑い飛ばしたかった。

 だが、実際には息を詰まらせただけだった。

 全てが夢ではなく、事実であるのなら。《SCT》は椛を通じて《左脚の鬼憑き》の正体を知っているということ。

 それが勘違いであればと、幸の笑顔に夢を見た。

 そんな千隼の様子を見て、幸の口元から笑みが消える。

 そして軽く深呼吸をしてから、口火を切った。


「未明に、左脚だけの遺体が見つかったの」


 被害者はまたも近隣の女子大生だったらしい。

《SCT》は遺体の発見状況やその手口から《左脚の鬼憑き》による犯行と判断。その時点で既にもみじから『水無瀬飛鳥が《左脚の鬼憑き》である』との報告が上がっていた為、水無瀬飛鳥を《特別捕縛》せよとの指示が下りた。


 だが結局、《特別捕縛》はなされていない。

 実は、つい今朝方まで飛鳥は行方知れずだったのである。

 椛の報告によれば飛鳥は千隼を叩きのめした後、国立競技場から跳び去ったのだと言う。意識を失った千隼を置いていくわけにもいかず、椛はすぐさま《SCT》指揮所へ状況を報告。飛鳥の捜索を要請する。しかし、闇夜に紛れた《左脚の鬼憑き》の行方を《SCT》が見つけ出すことはついぞ叶わなかった。

 結局SCTが飛鳥を見つけたのは、飛鳥自身が《SCT》の官舎へ戻ってきた時のことだったらしい。《左脚の鬼憑き》の状態のまま、飛鳥は自身が飛び出した窓から舞い戻ってきたのだという。そしてそのまま自身のベッドへと戻り、何事もなかったかのように眠りについていたとのこと。


 ともかく、そうして飛鳥は発見された。

 しかし、すぐさま《研究病院》へ移送ということにはならなかった。

 というのも今回は、飛鳥が《鬼憑き》へ変貌した瞬間の記録が無いため、首を落としてから《てっかん》――《鬼憑き》移送用の拘束具――に詰めて運ぶという安全な手段が取れなかったからだ。通常逮捕するには証拠が揃っておらず、任意同行するにしても下手に刺激して無意識に《》を解放されてはかなわない。《SCT》が刀剣を使用するにも、法が定める《特別捕縛》の条件が揃わねばならない。


 結局、飛鳥が起きてから『姉のお見舞いに行く』と説明し、騙すかたちで《研究病院》へ移送するという手筈になった。

 そして、それはもう間もなく行われる予定だという。

 そこまで一気に話すと、幸は千隼の言葉を待った。

 しかし千隼の頭の中は空白のままだった。

 ただ条件反射のように、


「飛鳥を助ける方法はないんですか?」


 幸は腰を浮かして、千隼のベッドの端へと腰を下ろす。

 そして優しく千隼の頭を撫でた。


「ごめんなさい」


 その言葉は聞きたくない。

 思わず身を起こした千隼を、幸は、やはり優しく受け止める。

 両腕を千隼の背中へと回し、そっと抱きしめる。幸の頬が、千隼の頬へと触れる。その仄かに熱を帯びた肌に、言い知れない安堵を覚えた。

 そして幸は小さな子供をあやすように、ポンポンと千隼の背中を叩いた。


「……あなたたち姉妹がしたことは、少なくとも二人の命を奪ったわ」


 耳元で罪状が告げられる。だから千隼と飛鳥は罪を償わなくてはならない、と。

 しかし、幸は「でもね」と続けた。


「わたしはあなたたち二人を責められない。……だって、どうしようもないことだもの。飛鳥ちゃんは何も知らない。千隼ちゃんは飛鳥ちゃんを失いたくなかっただけ」


 幸の声音は相変わらず優しかった。


「全部、《鬼肢》のせいだわ。世界中のみんながあなたたち姉妹を責めたとしても、わたしだけは千隼ちゃんと飛鳥ちゃんの味方。わたしだけは、あなたを責めたりしない」


 思わず、身を預けたくなる温かさだった。

 いつだったか、幸が『教師を目指していた』と話した時の事を思い出す。

 もし、この世に《鬼肢》なんてものが存在しなければ、深山幸という女性は多くの少年少女を導く教師になっていたのだろう。

 それこそ『お姉ちゃん』のような。


 そうして暫く千隼を抱きしめたあと、幸は「もういかなくちゃ」と呟く。


「最期に、二人が会えるように室長にかけ合ってみる」


 そう言って幸は千隼から離れると、再び眼鏡を直してから立ち上がった。

 カーテンの向こう側へ姿を消す直前、


「だから、ここで待ってて」


 そう言い残す幸の背中を、千隼は見送ることしかできなかった。

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