間章

インターバル《生きたい》

 やはり、飛鳥あすかが《左脚の鬼憑き》だった。


 月は中天を過ぎ去り、ビルの山際へ沈み行こうとしている。街灯どころか星明かりすらないその場所は、黒い水の中に浸かっていると錯覚するほどに、暗い。

 そんな暗闇の中で《おにき》はわずかに口角をあげた。

 興奮を抑えきれず、黒い外骨格に包まれた左腕を握りしめる。

 途端、くぐもった悲鳴があがった。


おにき》は、悲鳴の主へと視線を下ろす。《おにき》の足元には、両手足を縛られ口にはさるぐつわを噛まされた女性が転がっていた。

おにき》が《》へ喰わせるために用意した女性である。

 ああそうだった、と《おにき》は《》を振りかぶった。

 そして女性の左脚を根元から切り落とす。

 途端、ひときわ大きな悲鳴があがる。だが《おにき》はそれを意に介することなく、無造作に切り落としたひだりあしを掲げ持った。その断面からしたたる血液を、自らの《》に吸わせはじめる。ごくり、ごくりと。《鬼肢》は左脚に残った血を吸い取っていく。

 そして《鬼憑き》は、左脚の血抜きが済んだことを確認すると、その場に放り捨てた。


 まったく面倒なことこの上ない。

 しかし、どうしても必要な行為だった。

 それは《SCT》を騙す為。

 この左脚が《左脚のおにき》の食べ残しであると誤解させるためである。


《SCT》が、遺体を《おにき》の食べ残しであると判断する基準に『遺体の中の血液量』がある。食べ残された死体の一部には、血液が殆ど残っていないからだ。恐らく《血液のおにき》がいるのだろうという話だが、まあ、それはどうでも良い。

 ともかく《左脚のおにき》が喰ったようにみせかけられれば良いのだ。

 二週間前に《SCT》が発見した左脚の遺体も、こうして《おにき》が用意したものだった。

 この偽装は捜査撹乱の為に行ったものである。少しで構わないから《SCT》の捜査を遅らせ、その間に本物の《左脚のおにき》を見つけ出し――そして喰らう。それが《おにき》の目的だった。

 本来、《》は他の《》を喰らう事を要求している。《おにき》が一般人を喰らうのは、他の《おにき》を見つけ出すのが困難であるからでしかない。だから、二週間ごとに一人ずつ喰わねばならないのだ。


 では《おにき》を見つけ出し、《おにき》を喰らう事が出来ればどうなるか。


 過去に《おにき》は、それを一度だけ成功させた事がある。その時は《》からの催促が一年ほど途絶えた。つまり一年間、人を喰わずに済んだ。

 本当に、幸せな一年間だった。

 たった一年だったが、人間に戻ることができた。

 もう一度、その一年がどうしても欲しいかった。

 その為に行った偽装は、今日まで上手くいっている。――だが、逆を言えば『本物の《左脚のおにき》は人を喰っていない』という事になる。《SCT》が見つけた遺体は、偽装されたものだけ。それ以前は確かめようもないが、人を喰っていればあの極度のシスコンであるはやが気づくだろう。


 つまり、水無瀬飛鳥は誰も喰らっていない、という事になる。

 とても不愉快な事実だった。


 既に《おにき》の口元に笑みはない。

 一刻も早く、水無瀬飛鳥を喰わねばならない。

 水無瀬飛鳥が《左脚のおにき》である事は《SCT》の知るところとなった。この数時間のうちに水無瀬飛鳥は《研究病院》へ収容されるだろう。つまり水無瀬飛鳥が『願い』を叶えていない事が判明し、これまで発見された死体が偽装されたものだとバレるという事。この自分に捜査の手が伸びるのも時間の問題。

 この五年間、警察と《SCT》を騙し続けてきた。

 ――が、もう潮時ということか。


「……た、すけて、」


 ふと、足元から声が聞こえた。

 地面に転がる女性がさるぐつわごしに助けを求めていた。既に目の焦点が合っていない。左脚を切り落とされた断面から血を流しすぎたせいだろう。保ってあと数十秒の命。

 だが、それでも女性は懸命に生きようとしていた。助けを求めていた。

 諦めなければ、助けが来ると信じたいのだろうか。

おにき》はしゃがみ込んで、その女性の頬をそっと撫でる。

 この女性の気持ちはよくわかる。かつて自分もそう信じ、そして差しのばされた手に――《》に助けを求めたのだから。待っていたのは生き地獄。五年前から今日まで百人以上の女性を喰らってきた。悲鳴と怒りと憎悪を全身に浴びてきた。日に日に、自分自身が鬼へ堕ちていくのを感じてきたのだ。

 本当はもう、こんなこと一刻も早くやめたい。

おにき》は黒い外骨格に覆われた《》を振りかぶる。


 だけど、

 それでも生きたいのだ。


 そして《おにき》は、また一人、女性を喰らった。

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