第20走 お姉ちゃんと六角ボルトの鬼憑き

 柵を乗り越えると、すぐそばに警備員が二人倒れていた。

 千隼はそっと近づき脈を取る。生きてはいるようだ。 恐らく発報した防犯センサーを確認しに来た所で、何者かに襲われたのだろう。


 その何者かが誰かは、千隼が一番よく知っている。

 急がなくてはならない。


 千隼は正面ゲートの奧。沼のような暗闇へと足を踏み入れる。

 黒い視界の中で、ボウッと浮かぶ非常誘導灯の光を頼りに、国立競技場を奧へと進む。迷うことはない。こんな時の為に国立競技場内部の構造は頭に入れていた。千隼は目的地への最短ルートを進んだ。


 そして、千隼はグラウンドへと辿りつく。

 あわい月明かりを受けてグラウンドは青白く染まっていた。先週行われた《慰霊大会》の飾りつけは外され、代わりにグラウンド中央には大きな献花台が設けられていた。それは明日ーー八月二十二日に改めて行われる《慰霊祭》に向けて準備されたもの。既に《822事件》で家族や友人を失った人たちによって花束が山と積まれている。


 その献花台の向こうで《左脚の鬼憑き》が――飛鳥がトラックを駆け抜けていた。

 髪は足元まで伸び、額には二本のツノが光る。いつぞやと同じく一山いくらのブラとショーツ、そして黒いタイツを身に纏い、飛鳥は短距離トラックを駆けていた。


いつ見ても飛鳥の走りは美しい、と千隼は思う。

 完璧なのだ。飛鳥の肉体に許された最大速度を叩き出す。その為の最適な動き。飛鳥は飛鳥自身の肉体を完璧に使いこなしている。千隼はそれがとても美しいと思うのだ。

 飛鳥は11秒ほどで100メートルを駆け抜けると、軽やかな動作でスタート地点へと戻った。そして再びスタート位置につき、《徹甲弾》と評される走りを見せつける。ゴールを貫くと、またスタート位置へと戻る――それを繰り返していた。遠目から見ても、やはり夢遊病のように思える。やはり《鬼肢》に操られているのではないか。


「――?」


 そこまで見て、千隼はようやく異変に気づいた。

 飛鳥がいつも通りの走りをしている。


 つまりそれは、飛鳥の左脚に《鬼肢》がないということだった。


 千隼は慌てて目を凝らす。すぐに気づくべきだった。《左脚の鬼肢》は大きすぎて、擬態を解いている時にはまともに走れない。あの走りは人間の脚だからこそ出来るものだ。

 だが、それならば足元まで伸びた髪と額にある二本のツノは一体何なのか。千隼は他に異変が無いか、飛鳥の肢体を舐めるように見る。特売のブラとショーツ、そして黒いタイツを――


 黒いタイツ。

 そんなもの飛鳥は持っていただろうか。


 千隼はすぐさま飛鳥のチェストの中身を思い返す。しかし、黒いタイツの存在は思い当たらなかった。

 なら、あれは何だ。

 もしや、あれは《鬼肢》なのだろうか。

 ふと、千隼は口角を上げた。

 もしそうだとしたら、あの黒く薄い、皮膜のような何かは《鬼肢》が飛鳥を操る為に発生させていると考えられなくはないか。もしそうなら『飛鳥は《鬼肢》に操られている』という千隼の仮説を裏付けることが出来る。あんな夢遊病のような状態では、飛鳥が故意に《鬼肢》をあの状態に保っているという事もありえない。

 それに今の状態であれば、飛鳥を簡単に連れ帰ることができるのではないか。

 少なくとも、今の《鬼肢》は人と同じ力しか発揮していないように見える。見た目通りの力しか発揮できないのであれば、飛鳥が人間に戻るのを待たずとも力尽くで取り押さえることができる。


 試してみるか。

 千隼は飛鳥の注意を引くためその名を呼ぼうと、口を大きく開ける。

 だが結局、千隼は妹の名を呼ぶことはできなかった。


「やっパり、飛鳥クンか……」


 振り返る。

 そこには白髪の童女が立っていた。

 いつもと同じ黒に紅葉柄の振り袖とぼっくり下駄。唯一の違いはいちがさをかぶっていないことで、額に生えた二本の六角ボルトが月明かりを反射している。

 鬼無里椛。


「――いつから、」


 そう呟くのがやっとだった。

 何とか上手くいくかもしれない。そう期待していた矢先のこと。仏頂面は変わらないものの、千隼の脳内は狂騒状態に陥っていた。椛から逃げるべきか、周囲には《SCT》が隠れているのか、そもそも椛は何に対して『やっぱり』と口にしたのか。冷静に考えれば飛鳥が《鬼憑き》だという事を指したのだろうが、今の飛鳥は長く伸びた髪のお陰でパッと見では誰かわからないはずだ。そもそも顔が隠れてしまっているのだから。

 バレたわけではないと思いたい。千隼は僅かな可能性に縋る。

 だが、


「ふム」


 千隼の懇願するような視線を、椛は泰然と受け止めた。

 そして顎に細く白い指をあてて、小首を傾げてみせる。


「そのォ……『いつから』といウのは、いつ此処に来たのカという意味かノ? それトも――いツから水無瀬飛鳥が《鬼憑き》ダと疑っていタのかという意味かナ?」


 バレている。

 千隼は奥歯を噛みしめる。

 その様子を見て、椛は苦笑いを浮かべた。

 長い前髪の隙間から金色の瞳が千隼を見据え、薄桃色の唇が開かれる。


「後者なら、最初カらだヨ」

「……最初から?」

「千隼クン、考えてモみたマへ。こノ二週間、君タチ姉妹は本当に護衛されテいたと思うノかね? 監視さレているとハ少しも感じなかっタのかナ?」


 それは千隼が感じ取りながらも、あえて無視していたものだった。

 無論、最初から疑われている可能性も考えてはいた。官舎へ来たその日のうちに隠しカメラや盗聴器の類いが無いか調べたし、椛や幸、そして奧山の行動も警戒していた。


 だが、結局は無視することにした。

 理由は簡単で『飛鳥を疑っているなら無駄が多すぎる』と考えたからだ。

 もし飛鳥を疑っているなら、『護衛』だの『治療』だのと理由をつけて《研究病院》の地下に放り込んでしまえば良かったのだ。《鬼憑き》は二週間ごとに人間を襲わなくてはならないのだから、二週間待てば《鬼憑き》かどうか判明するしそのまま処分もできる。


 それをしないからには、奧山には何か別の思惑があると千隼は考えていた。

 例えば、千隼たちを『撒き餌』として扱うこと。


 官舎のように襲撃が容易な場所で生活させ、外出まで認める。『さあ、どうぞ襲ってください』とでも言わんばかりだ。そのくせ護衛に貴重な戦力であろう椛をつけているのは、『餌に仕込まれた釣り針』だから。《左脚の鬼憑き》を釣り上げるための釣り針。 つまり《SCT》の不審な行動は飛鳥を疑っての事ではない。そう千隼は判断していたのだ。


 だが実際には《SCT》は飛鳥を疑っていた。

 しかし、なら何故こんな回りくどいことをしたのか。千隼は答えを求めて椛を見やる。

 椛は押し黙る千隼を眺めて満足げな表情を浮かべるだけだ。

 代わりにとばかりに


「まア、この事を知ってオるのはわたしと奧山くらいだがネ」

 と呟く。


 聞き捨てならない。

 思わず千隼が目を見開くと、椛は己の失言に気づいたのか誤魔化すように「ともカく、そういうワけだ」と言って歩き始める。視線は既に千隼には向けられていない。その足取りは未だ競技場の奧で走り続けている飛鳥を目指している。

 千隼の脳裏に、首を落とされた《舌の鬼憑き》の姿がよぎった。


「待ってくれ鬼無里ッ」


 椛は相手にしない。追いすがる千隼を無視して歩き続ける。

 だが諦めるわけにはいかなかった。


「見ろ鬼無里、飛鳥の今の状態を。どう見たって《鬼肢》に操られてる。飛鳥は自分の意思で《鬼肢》を扱えていない」

「……」

「つまり普通の《鬼憑き》とは違う! 《鬼肢》に願いを叶えて貰った普通の《鬼憑き》とは別物なんだよ。きっと願いを叶えていないんだ。だから、きっと、飛鳥はきっと人を喰ったりなんて――」

「それハ違う」


 唐突に椛は立ち止まり、千隼を見上げた。

 長い前髪が目元を隠しているはずなのに、千隼は椛の鋭い視線を痛いほど感じる。


「確カに、あノ状態は《鬼肢》に願いヲ叶えて貰う"前"の状態ダ。宿主ガ《鬼肢》の存在を認知していナいが故に、《鬼肢》が無理矢理にでモ願いを叶えさせようとしてオる。《鬼肢》にハ人間の願いを正確に理解できないからナ。あんなオかしなことになル」


 椛は親指で、ひたすら走り続ける飛鳥を指差す。


「だがノ、それハ人を喰っておらン根拠にはならん」

「いや、だって、鬼無里は人を喰わないんだろ? 鬼無里は――」


 失言だった。

 しかしもう遅い。

 椛は「やハり聞いておッたか」と苦笑する。


「教えたのは幸あたりだろ。なら教えテやる。わたしは確かに人ハ喰わん。だがナ、願いヲ叶えておらんだけでハ、わたしと同じにはなれンのヨ」


 ニイッ、と椛は笑ってみせた。

 猛獣が牙をくように。

 千隼が思わず一歩下がってしまうほどの気迫だった。


「だが、鬼無里――」

「黙レ。もう終わリだ」


 既に椛は千隼を見ていない。怯えた相手など歯牙にもかけないという事だろう。その視線は、スタートラインで聞こえぬ合図を待つ飛鳥へ向けられている。


 ふと、椛は着ていた振り袖の帯を解きはじめた。

 しゅるりしゅるりと、帯を外す。そのまま振り袖も脱ぎ捨てる。

 見れば、椛は振り袖の下には何も着ていなかった。地面まで届く絹糸のような髪だけが、椛の裸体を覆っている。

 一糸纏わぬ童女の裸身。

 そして椛は、次に額の六角ボルトに手を伸ばす。

 キュルキュルと、右側の六角ボルトを回し抜いた。

 途端に額の穴から、真っ黒な何かが溢れ出す。

 ――小蜘蛛だ。

 小指の爪にも満たないサイズの蜘蛛。おびただしい量のそれが、額の穴から一斉に這い出してきたのだ。まるで椛の脳髄に産みつけられていた卵から孵化ふかするように。子蜘蛛が栄養を求めて椛の身体をまさぐるように。這って這って這いずり回り、やがて、蜘蛛の群れは椛の全身を覆い尽くす。その姿はまるで、うごめく蜘蛛が折り重なって偶然にも人の形を成したようだった。

 そして、


「――《運営》ヲ開始スル」


 蜘蛛の塊が、若くしわがれた声を発した。

 途端、慌ただしくうごめいていた蜘蛛の群れがピタリと動きを止める。

 一瞬の静寂ののち、一匹の蜘蛛が「ピチャ」と音を立てて潰れて椛の身体へへばりつく。それが合図だったのだろうか。椛の全身を覆う蜘蛛が、見えない蠅叩きに押し潰されたように一斉に潰れ始める。

 大量のヌメる死骸は互いに絡み合い――やがて椛の全身を覆う皮膜と化した。

 両腕の蜘蛛は甲殻のような外骨格を成し、同様のものが頭部を覆ってかぶとの形をとる。

 そして、


「――ふム、こんナものカ」


 気づくと、そこには全身を黒い皮膚で覆われた椛が立っていた。

 千隼は息を呑んだ。

 これが鬼無里椛の《鬼肢》。

 だが、これは一体、何の《鬼肢》なのだ。

 遠目からはヘッドギアをつけた黒いボクサーにも見える。しかし頭部を覆うのは黒と黄色のまだらようをした兜。その左側からは六角ボルトが、右側には白いツノが突き出ていた。更に絹糸のような髪は二本に分けてまとめられ、兜の隙間から触覚のように後方へ流されている。顔はほおてで隠され、唯一、こんじきそうぼうだけが見て取れた。

 そして目を引くのは、外骨格で覆われた両手だった。アンバランスに大きくボクサーグローブにも見える。しかし、それは鋼鉄のように硬い《鬼肢》である。ならば安全を確保する為のものではなく、人の身体を確実に破壊するためのものだろう。

 破壊するのは、誰の身体か。


 そして、椛は大きく息を吸い込んだ。


「水無瀬飛鳥ァッ!!」


 椛の叫び声が、すり鉢状のスタジアムに反響する。

 今まさに駆け出そうとしていた飛鳥がこちらへと顔を向けた。長く伸びた前髪のせいで視線も表情も判らない。飛鳥は千隼とも椛を認めると、すっくと立ち上がる。いくら《鬼肢》に操られているとはいえ、目の前に《鬼憑き》が現れては一人きりの短距離走を続けられないということか。いや《鬼肢》に操られているからこそ、《鬼憑き》は見過ごせないということなのか。

 飛鳥がゆっくりと、椛と千隼のいる方向へ歩き出す。

 椛は飛鳥を迎え撃とうと身構え、


「さァ、来ぶッ――」


 その椛を、千隼は後ろから押し倒した。

 飛鳥を殺させるわけにはいかない。時間を稼ぐ。

 押し倒した椛の身体は思ったよりもずっと軽い。これならイケると地面に突っ伏した椛を抑え込もうとする。が、上手くいかない。体重は無いが筋力が強すぎるのだ。間接をキメようにも、手首を掴んだそばから振り払われる。こちらの指が飛びかねないほどの勢いだ。ここまで体格差があっても子供のようにあしらわれる。隙を突いたとは言え押し倒せたのは奇跡だった。

 仕方なく、千隼はその細い胴回りに腕を回して抱きつくことに専念する。

 それもあまり長くは保ちそうにない。


「貴様、こんナ時に――ッ!!」

「鬼無里、待て。待ってくれ。せめて《研究病院》へ連れてけ。戦うのは、」

「いいから離れろおっぱいオバケッ!!」

「え? いや、そんなおっきくない。ほんと、おっきくないし! 幸さんの方が大きい!」

「なに言ってんだ貴様!?」

「おっぱい揉みたいならいくらでも揉ますから、待ってくれ!」

「マジもんだな貴様ッ!! ――ああもう、離せ! 《鬼憑き》の目の前で、」


 ズン、と大地が揺れた。

 上から降ってきた何かが、グラウンドに突き立ったのだ。

 千隼と椛は争うのをやめて、その何かを見上げる。

 そこには予想通り、黒と黄色のまだらようの《鬼肢》があった。

 だが、


「あ、すか」


《鬼肢》は目の前に二本あった。

 飛鳥の左脚だけにあったはずの《鬼肢》が、両脚にあるのだ。


「鬼無里」

「何ダ」

「《鬼憑き》の症状が進行すると、全身に《鬼肢》が広がったりするのか? お前みたいに」

「いヤ……それハない。いや、だがそれなら――」


 椛の声色が変わる。余裕を無くしている証拠だ。椛が考え込むような雰囲気が伝わってくる。

 だが、状況は待ってくれなかった。


「鬼無里ッ!!」


 千隼は拘束していた腕を解き、横へ転がりながら椛を突き飛ばす。

 その一瞬の後、椛と千隼がいた場所に飛鳥の《鬼肢》が深々と突き刺さった。

 血の気が引いた。飛鳥の《左脚》は、グラウンドにすねまでめり込んでいる。あの脚力からすれば、人間の身体など障子紙とさして代わりないだろう。いや《鬼憑き》ですらも無傷ではいられないのではないか。


「クソっ」


 状況を理解した椛は転がっていた身体を無理矢理四つん這いになって地面に繋ぎとめ、顔を上げた。


 その顔面に、飛鳥の《左脚》が迫る。


 その瞬間、千隼は椛が殺されたと思った。実際、椛の身体は飛鳥の《左脚》を受け止めて宙に浮き上がり、逆袈裟に振り抜かれた《左脚》のつま先にへばりついている。《左脚》に串刺しにされたかに見えた。

 だが、


「ほッ」


 軽いかけ声と共に、椛は立ち上がる。

  頂点に掲げられた飛鳥の《左脚》の上に、椛は一本足で佇んでいた。

《鬼肢》で出来た黒い皮膜が艶めかしく光る。

 椛の身体のどこにも傷は見えない。

 からかわれたと感じたのか、飛鳥は身体を旋回させて椛を振り払う。そのまま軸足を《左脚》へと変えて、《右脚》の回し蹴りを放った。残像が見えるほどの速度。離れた場所にいる千隼にまで風が吹きつけ、肌を切る。


 しかし、それすらも椛は軽々とかわしてみせた。

 驚異的な身体能力。まるで羽でもついているようにしか思えない。

 が、よくよく見ればそれが単なる体重移動の産物だと判った。判った所で信じられるものではない。物理法則から逸脱せずに宙を舞うなど尋常なことではない。椛は放たれた蹴りを避け、逆に飛鳥の脚を蹴りつけて距離を取った。


 ようやく立ち上がった千隼は息を呑む。

 これが――《鬼憑き》同士の戦い。

 介入する事など叶いそうもない。千隼にはただ、舞い上がる土埃の中で眼を凝らし見つめることしかできなかった。

 グラウンドに降り立った椛が人差し指を立てる。

 そして、飛鳥を小馬鹿にするように――チョイチョイと人差し指で手招き。

 爆音と共に、飛鳥が椛へ突進する。

《鬼肢》が両脚そろった事で『跳ぶ』だけでなく『走る』ことができるようになった飛鳥は、まさに《徹甲弾》の名に相応しい動きを見せた。

 ただ蹴り抜けるだけで、地面が割れ破片を周囲へ撒き散らす。駆け出した瞬間に最高速度へ達し、巻き上がる風が献花台を土台から吹き飛ばす。《徹甲弾》と化した飛鳥は、椛を貫こうと一直線に跳ぶと国立競技場の観客席へと突き刺さった。観客席に隕石でも落ちたかのようなクレーターが穿たれる。

 しかし、そこに椛の姿はない。

 椛はいまだグラウンドに立っている。黒い皮膚にかかった土埃を払いながらため息を、


「やれや――」


 そのため息を《左脚》が切り裂く。

 クレーターから跳ね戻った飛鳥が蹴りを放ったのだ。

 だが逆に言えば、切り裂けたのは『ため息』だけだった。

 椛はやはり、最小限の動きで飛鳥の蹴りを避けていた。かまわず飛鳥は蹴りを放ち続ける。千隼の目には飛鳥の《鬼肢》が幾本にも分裂しているようにすら見えた。

 だが、それら全てを椛は躱してみせる。

 まるで決めたれた《型》を演じているようだった。

 そして――ついに椛が反撃へ転じる。


「ふッ」


 飛鳥が見せた隙。蹴りを放つ直前の、溜めの動作に生まれた一瞬の間隙。

 それをついて椛は踏み込んだ。

 黒い外骨格に覆われた拳を握り込み、腰の回転と共に拳型の杭を打ち込む。黒い《鬼肢》で守られた拳は正に鬼を貫く杭そのもの。防ぐことなど出来はしない。

 ――はずである。


「な、」


 飛鳥の《左脚》が、椛の拳を受け止めていた。

 椛は完璧な隙を突いたはずだった。それは幾つかの武道を習得した千隼にも判る。加えて椛の動きは踏み込みも、捻りも、はっけいすらも見て取れるほど。飛鳥の蹴りと同様に《鬼肢》を利用して放たれるそれは、飛鳥の蹴りと同等の《徹甲弾》と呼べるものだったはずだ。


 しかし、飛鳥の《左脚》には傷一つない。

 椛が悔しげに歯を食いしばったのが、千隼にもわかった。

 そこからは一方的な展開。確かに椛は、いまだ飛鳥の蹴りを全て避け続けている。隙を見て拳を放ち続けている。しかしその全てが飛鳥の《鬼肢》に阻まれてしまうのだ。椛の表情は絹糸のような前髪が隠しているものの、千隼は椛の動きから焦りを感じ取った。

 椛では飛鳥に勝てない。

 椛が飛鳥の蹴りを避け続けるのは、あの《鬼肢》の皮膚が飛鳥の蹴りを受け止めきれないからだろう。防御が出来るのなら、両腕を覆う外骨格を全身に纏えば良い話。それをしないのはそこまでの強度は無いから。敵の弱い部分を打撃するのがせいぜいなのだ。

 恐らくあの《鬼肢》の能力は身を守ることではなく《鬼肢》の皮膜によって自身の身体能力の底上げすることにあるのだろう。いわば『パワードスーツ』。《鬼肢》が飛鳥を操るように、椛の肉体を《鬼肢》が効率的に操ることであの身体能力を得ているのかもしれない。

 つまり椛は『攻撃』と『回避』に重点を置いた戦い方をしている。

 しかし、対する飛鳥は椛の拳を正面から受け止めることができる。

 つまり椛は『攻撃』という手段が潰されているのだ。

 加えて、


「ッ!! くそ、」


 椛が悪態をつく。

 飛鳥が、椛の動きに慣れてきていた。

 椛の《鬼肢》の皮膚は所々から煙をあげている。それは《鬼肢》が修復される際の煙。先ほどまでは掠りもしなかった飛鳥の蹴りが、徐々に椛を追い詰めていた。

 たまらず椛は、後方へステップを踏み飛鳥から距離を取る。

 すかさず飛鳥はそこへ突進。椛はその肩を足で受け止め、そのまま蹴り飛ばす。飛鳥の突進と椛の蹴りの運動エネルギーが合わさり、椛の軽い肢体を二階の観客席にまで吹き飛ばした。

 そして、飛鳥は逃げるように距離を取った椛を追い――――かけなかった。


「?」


 遠目からでも椛が戸惑ったのがわかった。

 飛鳥は二階の観客席で拳を構える椛を、ただ見つめて佇んでいる。

 そして椛に動きがないのを認めると、フラフラとした足取りで100メートルトラックのスタート位置へと向かう。その両脚の《鬼肢》は節足動物のソレではなく、最初に見た時のような黒いタイツ状に変化していた。トラックは飛鳥自身の足で無残に引き裂かれていたが、特に飛鳥は気にする様子もなく両手足をスタートラインへつく。


「なんなんだ、一体――」


 椛が呟き、グラウンドへ近づこうとする。

 途端、飛鳥は顔を上げて椛を見た。

 椛はビクリと動きを止め、身構える。だが飛鳥はそれ以上のことは何もしない。ふと千隼と椛を見比べ、何かを納得したように再び視線を100メートル先へと戻した。


 ――考えろ。

 千隼は好機を感じ取っていた。

 飛鳥の今の行動には意思が感じられる。夢遊病状態には違いないが、今の飛鳥には何らかの目的意識があった。

 つまりそれは《鬼肢》との契約――『願い』に関することではないのか。飛鳥が人を喰っていないと――飛鳥が人を喰わない《鬼憑き》だと、証明する何かではないのか。


「なるほど、」


 その『何か』に、先に気づいたのは椛だった。

 椛はそばに転がるベンチを拾い上げる。

 そして自身の身の丈よりも長いそれを肩に担ぐと、千隼へ向かって一直線に駆け出した。

飛鳥には及ばないまでも、椛は人間を超えた動きで千隼へと迫る。

 ――まるで千隼を、そのベンチで殴り殺そうとでもいうかのように。

 途端、100メートルトラックにいた飛鳥は飛び上がって千隼へと駆け出した。だが先ほどまでの弾丸のような速さはない。両脚の《鬼肢》は徐々に本来の姿へ戻りつつあるが、まだ人間の形を保っている。確かに速いが、人間の速さだった。

 ギリギリ、椛の方が千隼へ先に辿りつく。

 呆然とする千隼に向かって、椛はベンチを振りかぶる。


 わけがわからなかった。

 しかし、諦めるつもりは微塵もなかった。

《鬼肢》を纏った椛の攻撃を避けられるかははなはだ疑問だったが、それでもやらねばならない。私が死ねば、次は飛鳥だ。《鬼憑き》となった飛鳥を守れるのは私しかいない。千隼は椛の攻撃に備えて身構える。

 だが、ベンチは振り下ろされない。

 代わりに椛はベンチを投げ捨て、額に残されたもう一本の六角ボルトを引き抜く。そして額に空いた穴から、二本目の白いツノが生えると同時に、椛は背後へと振り返った。

 そこには椛へ向け突進する飛鳥。

 いつだったか《舌の鬼憑き》に襲われた千隼を守るように現れた時のように、飛鳥は椛へと一直線に駆けている。

 つまり――椛の狙いは、千隼を襲うようにみせかけて、飛鳥から攻撃させることか。


「さァ、来い!」


 椛は両腕を左右に広げて『やれるもんならやってみろ』と飛鳥を待ち受ける。両脚を広げ重心を落としていた。そこには飛鳥の蹴りを避けようという意思が感じられない。だが、どう考えても自殺行為だ。椛の《鬼肢》の皮膚では飛鳥の蹴りを防げない。それは未だ煙をあげる椛の《鬼肢》からも明白だ。なのに、何故。


 飛鳥が蹴りを放つべく、《左脚》を地面に突き立てた。

 まだ椛は避けようとしない。


 飛鳥の身体が旋回し、《右脚》を振り抜くための力を溜める。

 椛は動かない。


 遂に、鉄塊のごとき《鬼肢》の蹴りが放た


「――――――――は?」


 情けない声をあげたのは、椛だった。

 椛の身体に傷はない。《鬼肢》の皮膚も無傷だ。

 ただ先ほどと違うのは、椛が情けなく地面に尻餅をついていることだけ。

 だが、飛鳥の蹴りが空振りしたわけではない。その《右脚》は確かに脇腹の皮膚を引き裂き、肋骨を砕き、はらわたを食い破った。強いて言うならば、たかが背骨で《右脚》の勢いが止まった事が不思議だった。

 何故なら、飛鳥の蹴りを受け止めたのは《鬼憑き》の皮膚ではなく、ただの人間の身体。


 つまり、

 ――――水無瀬千隼の身体だったからだ。


「ちは、――や」


 椛が唖然としたまま言葉を漏らす。

 黒い兜の隙間から金色の瞳が見えた。その眼が「何故」と問いかけている。

 何故、自分を突き飛ばしたのか。何故、身代わりになったのか、と。

 だから答えてやった。


「お姉ちゃんだからな……」


 ごぷり、と口の中に血が溢れる。


「妹を、人殺しに、はできない……だろ? もう殺して、るかもしれないけどさ。それは隠し通せるかもしれな、いし。いざ、となったら私が殺し、てさ。飛鳥に死体を喰わして、いけば――」


 思考がまとまらない。

 言って良いことと、悪いことの区別がついていない。

 前にもこんな事があったと、千隼は思い出す。そう、あの日。あの八月二十二日の全中大会決勝だ。あの時も、こんな風に私は馬鹿になっていた。という事は血が足りないのだろうか。止血。止血方法。ああでも、こんな太い《鬼肢》が突き刺さってちゃあ、止血できないや。こんな事を想定して、準備しとけば良かったな。


 もう二度と、家族を失いたくなかった。

 だから飛鳥を失わない為に、できる限りの準備をしてきた。

 ああでもそうか。

 自分を失わない準備はしてこなかった。飛鳥を助けられるのは私一人だというのに、私が死んだらもう守る者はいないというのに。

 もう妹を守れない。

 お姉ちゃん、失格だ。


「千隼姉――」


 ああ、妹の声が聞こえる気がする。

 その思考を最後に、千隼の意識は暗闇へと落ちていった。

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