二章 願いは人を喰らう鬼

第6走 お姉ちゃんの夜はつづく

 千隼ちはやが帰宅した時には既に、日付が変わろうとしていた。


 ギィィ、と軋むアパートの扉。その音に、小さな蜘蛛が逃げていく。

 築二十年のドアは、いくら油を注しても自己主張が強い。千隼は諦めと共にドアを閉じ、左足と右義足の靴を脱ぐ――と、立て掛けてあった杖が倒れかけたソレを慌ててキャッチ。

 一息ついてから、ようやくシューズラックを開いた。


 姉妹の靴のみが並ぶラックの隅へと、ランニングシューズをしまう。


 狭い2DKの部屋は、キッチンの小窓から射し込む街灯の明かりで青白く浮かび上がっていた。

 千隼は電気を点けずに板張りの床を進む。忍び足。しかし右脚の義足が刻む「コツ、コツ、」という音までは消せなかった。千隼は恨ましげに自身の義足へと視線を落とす。やはり義足用のスリッパが必要か。


 ふと人影が目に入り、慌てて千隼は視線を上げた。

 が、すぐに緊張を解く。

 千隼の目の前には、リボンが巻かれた姿見。

 人影は、鏡に映る千隼自身だった。

 長方形の窓の中には黒いジャージの女。背中にはナップザック。右脚の義足は反転して左脚に。長い黒髪は、飾り気のない白い布でポニーテールにしている。

 この姿見は、衣服に気を遣わない千隼を心配した飛鳥あすかが用意してくれたものだった。貰った当時は嬉しくて喜ばしくて可愛がらなくてはと思い、姿見用の布カバーを作ってリボンを巻き、夜は抱いて寝ていたのだが「鏡を飾りつけんな、自分を飾れクソお姉」と飛鳥に怒られてしまった。以来、姿見はダイニングに鎮座している。


「おやすみ、シルヴィア」


 千隼は姿見にキスをして、自室へと向かう。


 ――が、千隼は再び足を止めた。


 足音が聞こえたのだ。

 自身の義足とは明らかに違う。

 音は千隼の部屋の隣、飛鳥の部屋から聞こえた。


 もしや飛鳥を起こしてしまったかと思い、千隼の背中に冷たい汗が流れる。

 疲れて寝ている妹を起こしてしまうなど、姉として言語道断。生きている価値すらない。


 飛鳥は日中、再建された国立競技場で行われた《慰霊大会》と銘打たれた陸上競技会に参加していた。短距離走でぶっちぎりの優勝をかました後は、「流石は五輪候補」とはやし立てるTV局の取材に軽く答え、陸上部主催の打ち上げでは後輩達から涙を誘うスピーチまで完璧にこなして帰宅。よほど疲れたのだろう。部屋に入った途端、泥のように眠ってしまっていた。陸上部は翌朝から練習があるため、変な時間に起こすわけにはいかない。


 千隼はじっと息を殺して耳をすませる――と、再び物音。

 今度は、板張りの床に誰かが立つ音がハッキリと聞こえた。


 しかし千隼は不審に思う。

 聞き慣れない床の軋み方だ。飛鳥が立つ時はもっと軽やかなリズムを刻む。それに飛鳥の可愛らしい足の裏は「ぺたり」と板張りの床に吸いつくはずだ。あれで踏まれると極上の快感なのだが、今の音はタワシでも床に擦りつけたような音だった。


「飛鳥? 起きてるのか?」


 千隼はドアの手前から囁くように問いかける。

 返事は、ない。


 少し考えた千隼は、一度玄関へと戻りチタン製の杖を手に取った。万が一という事もあり得る。武術の心得は無いので、可能な限り間合いの取れる武器を選んだ。

 千隼は左手で杖を構えたまま「飛鳥、入るぞ」と声をかけ、ドアを開ける。しかしすぐには入らない。ドアの陰に隠れ、怪しい気配がないか千隼は耳を澄ませた。


 だが、聞こえたのは飛鳥の息遣いだけだ。


 そっと、部屋を覗きこむ。

 開け放たれたままのカーテン。

 射し込む月明かりに浮かぶ人影があった。


 どこか呆けた様子の飛鳥が、窓を右にして佇んでいる。身にまとっているのはスポーツブラと、ひと山幾いくらの綿ショーツのみ。おかげで均整の取れた小柄なたいと、極限まで絞り込み、鍛え抜かれた筋肉がよく見て取れた。特にふくちょくきんふくしゃきんが創り出す脇腹からそけい部にかけての芸術的なラインは千隼お気に入りの部位の一つだ。大好きだ。


 しかし、もう一つのお気に入りの部位。

 だいたいとうきんからたいさんとうきんのラインに、おかしなものがある。


 蜘蛛のあしだ――と、千隼は思った。

 飛鳥の左脚は、黒と黄色の斑模様をした外骨格状の何かに変貌していたのだ。表面はうっすらと短毛に覆われ、ひざくるぶしの関節は節足動物のソレ。人のままである右脚とのバランスが取れておらず、飛鳥は左脚だけで直立していた。


「あ、すか――?」


 千隼の口から声が漏れた。

 すると、飛鳥はゆっくりと千隼の方へ顔を向ける。

 飛鳥らしくない、感情の抜け落ちた顔。

 しかし、それはさしたる問題ではない。

 注目すべきは、よいやみの中でらんらんと輝く金色のそうぼうと、額の両端から生える白いツノだ。


 そして千隼が見ている前で、飛鳥の髪がみるみる伸びていく。

 ショートボブの髪がロングを通り越して腰まで届く。それでも止まらず、やがて黒髪は床に広がった。絵画で見る平安貴族のような長さだ。


「どうしたんだ飛鳥、海外の危ない増毛剤でも使ったのか?」


 声が届いていないと薄々気づきながらも、千隼は冗談を言わずにはいられなかった。「クソお姉、何言ってんの?」と鼻で笑って欲しかった。飛鳥はこんな死んだような顔をする娘ではないのだ。こんな顔、もう二度と見たくないと思っていたのに。


 これではまるで、あの時の――


 千隼は暫く返答を待ったが、飛鳥は口を開こうともしなかった。

 それどころか千隼に興味を無くしたように、飛鳥はスッと視線を外し、窓の外へ身体を向けてカラカラと窓を開ける。流れ込む生温い夜風が、飛鳥の長く伸びた髪を泳がせた。

 窓枠に、蜘蛛の左脚がかかる。


 千隼はとっに飛鳥へ駆け寄った。――が、遅い。

 砲弾でも発射されたような爆音と共に、飛鳥は窓枠を蹴って夜空へと跳躍した。

 千隼は追いすがり、破壊された窓枠から身を乗り出す。

 見上げれば、飛鳥の姿は既に月と同じ場所にあった。

 千隼は空に手を伸ばす。


「飛鳥あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」


 姉の声に、ついぞ妹が応える事はなかった。






「ぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああッ!!」


 千隼は自身の叫び声を聞いて目を覚ました。

 左手は、夢の中と同じく空へ伸ばされている。が、その先に見慣れた板張りの天井は無い。代わりにあるのは白い壁紙と、無機質なシーリングライト。千隼は記憶を探り、ここが何処であるか理解する。


 そこは《SCT》が用意した隠れ家だった。


 昨日、千隼と飛鳥は、幸と椛に連れられて八王子市内にあるこの官舎へと連れてこられたのだ。警視庁が所有する五階建てマンション。しかも普通の官舎とは違い、どうやら特例疾患犯罪対策室――《SCT》専用の官舎であるらしい。


 最悪だ。

 千隼からすれば、敵の胃袋におさまっているようなものだった。


 千隼は伸ばしたままだった左手を額に落とし、軽く目を閉じる。

 夢の内容は一昨日の再現だった。突如として《おにき》となった飛鳥を追いかけた千隼は《舌の鬼憑き》に遭遇。そこを《ひだりあしおにき》である飛鳥に助けられた。


 ――そこまでは良い。

 問題は《左脚の鬼憑き》を《SCT》が目撃してしまった事。

 そして何を勘違いしたのか、千隼と飛鳥を《左脚の鬼憑き》から守ると言い出した事だ。


 これでは、飛鳥が《左脚の鬼憑き》だと、いつバレてもおかしくない。そうなれば最後だ。周囲を《鬼憑き》の専門家が囲み、しかも内一人は《鬼憑き》であると言う。あの晩は飛鳥が《SCT》を圧倒していたように見えたが、相手もプロなのだから次もそうだとは限らない。次、飛鳥を逃がす為には何らかの手が必要だろう。千隼はため息を漏らす。

 しかし――当の飛鳥は落ち着いたものだった。

 昨日もこの官舎に着いた途端、トレーニングウェアに着替え「午後の練習が出来ない分、筋トレする」と言い出す始末。気を利かせた幸が、他の《SCT》隊員からトレーニング機材を借りてきた事で興が乗ったのだろう。飛鳥に割り当てられた部屋からは夕食までずっと筋トレのカウントが聞こえてきていた。


 やはり飛鳥には《鬼憑き》という自覚がないのでは。

 筋トレに励む飛鳥の様子を見て、千隼はそう考えるようになっていた。


 なにしろ飛鳥は常に仏頂面の千隼とは違って、感情が顔に出るタイプだ。椛と幸が言うように人を殺したのならば、あそこまで平然としていられない。だからと言って《SCT》の刑事達が《鬼憑き》による殺人を見誤ることもないだろう。恐らく《左脚の鬼憑き》が人を喰ったのは事実。


 ならば――飛鳥は、自覚のないままに人を喰らったのかもしれない。

 それが、千隼の仮説だ。


 そもそも一昨日の晩からしておかしかった。あの生気のない死んだような顔と、目的の感じられない動きは夢遊病を思わせる。つまり睡眠中、意識のないままに《鬼憑き》となり殺人を犯したということも考えられるのではないか。

 

そうであれば、と千隼は思考を巡らした。

 ――そして、今後の方針を決定する。


 まず、私は《特例疾患犯罪対策室》の目を欺こう。

 そして、飛鳥の食事となる人間を供給し続けよう。飛鳥本人にも気づかれる事なく。

 そうすれば、飛鳥はこれまで通りの生活を送ることができる。

 飛鳥は幸せに過ごせる。

 それが、私の望み。 

 ふと、そこまで考えて気づく。


「……そういえば、飛鳥は?」

「お呼びでしょうか? クソお姉」


 声は、千隼の胸元から聞こえた。

 視線を下へ向けると、千隼の右腕に抱かれた飛鳥の姿があった。下着姿の千隼の胸に、ムリヤリ顔をうずめさせられている状況だ。普段は飛鳥も下着だけで寝ているのだが、昨晩は他人の家という事で気を遣ったらしく上下スウェット姿だ。

 その飛鳥は千隼に対し、不自然なほど満面の笑みを浮かべている。


「お姉? 何してるの?」

「何って――」


 抱きしめている。

 理由は簡単だ。飛鳥に《鬼憑き》としての自覚が無いのだとしたら、いつ一昨日のように《鬼憑き》へと変貌してもおかしくない。その時にせめて自分が側に居れば何か出来るかもしれない。そう考えて、千隼は飛鳥のベッドへ潜り込んだのだった。抱きしめているのは肉体の変化にいち早く気づく為。下着以外を脱ぎ捨てたのは単なる習慣。何もやましい所はない。

 だが、それを素直に飛鳥へ言うわけにはいかないだろう。


「――飛鳥の抱き心地は最高だからな」

「あたしは抱き枕かッ!!」


 叫び声と共に放たれた蹴り。

 千隼の体はベッドから砲弾のように弾け飛ぶ。そのまま3メートルほど水平に飛んでドアへと衝突。ちょうつがいが衝撃に耐えかね破壊されると、そのままドアは向こう側へと倒れこみ、千隼は下着姿のまま廊下へと放り出された。


「早く自分の巣に戻れ! こぉぉんの、クソお姉!」


 廊下で大の字になったまま、千隼は顎に手をあてて考える。

 ひとまず安心だ。

 飛鳥の蹴りの威力は《鬼憑き》に変貌する前と変わらない。千隼の鍛え抜かれた腹直筋がなければ内臓が破裂するほどの衝撃ではあったが、鋼鉄の如き《舌》を抉ったり、三振りの刀を一瞬の内に折るような人外の力ではなかった。少なくとも、今の飛鳥は《鬼憑き》ではない。そう千隼は安堵する。

 安堵したついでに、千隼の脳内にひらめくものがあった。

 飛鳥の――抱き枕。


「……アリだな。……すごく、アリだ」

 と、

「ナニがアリなのかノ?」


 ドアが破壊される音に慌ててやってきたもみじさちが、千隼を見下ろしていた。何故かパンツスーツにエプロン姿の幸は、拳銃を構え周囲を警戒。椛は昨日とは違うえんいろの振り袖を着ている。朝から振り袖とは面倒そうだが、他人の趣味にケチをつける習慣を千隼は持っていない。

 特にそこには触れず、椛の質問に答える。


「朝の日課だ」

「……日課?」

「飛鳥の蹴りを貰わないと目が覚めないんだ」


 そう言って千隼が微笑むと、椛は「さ、左様デ……」と頬を引きつらせた。白い前髪で目元は見えないが、何か理解出来ないものを見るような視線だけは感じる事ができた。


「ふ、服を着てないのは?」

「飛鳥と出来るだけ密着したくてな」


 そうすれば即座に肉体の変化に気づく事が出来る、という言葉は飲み込んだ。

 椛はじいっと千隼を見下ろして、額の六角ボルトをコツコツと指で叩きながら呟く。


「《鬼憑き》よりも先に、君を逮捕すべきかもしれんナ……」

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