第7走 お姉ちゃんはMの気があります
ダイニングの時計は午前八時を指している。
千隼と飛鳥は、それぞれダイニングテーブルの斜向かいに座り、朝食が仕上がるのを待っていた。飛鳥は寝間着からノースリーブのブラウスとデニムショートパンツに着替えている。可愛い。小さな肩幅、うっすらと浮いている三角筋のライン。ブラウスの角張った襟と、柔らかなラインを描く、うなじとの対比が艶めかしい。
ああ、頭をグリグリとこすりつけたい。
ふと飛鳥と視線が合った。――が、すぐに逸らされてしまう。
飛鳥は不機嫌なままだった。普段なら隣に座る程度は許してくれるのだが、今朝は千隼が隣に座ろうとした途端に席を移動してしまった。
何が悪かったのだろうか。千隼は首をひねる。私の服の趣味が悪いのか。千隼はポロシャツとアンクルパンツに異常が無いか確かめる。しいて言えば、歩行用の義足が《舌の鬼憑き》に壊された為に、競技用の義足で代用しているのが問題かもしれない。
と、
「それにしても、朝から元気で安心したわ」
言いながら、キッチンからエプロン姿の幸が現れる。手には塩鯖や卵焼き等を乗せた盆が抱えられていた。スーツの上のエプロンは、朝食を用意していた為だったらしい。
「あれが、『元気』の一言で済むものかネぇ……」
少し離れた場所から
そこでふと、千隼はテーブルの上に椛の分の椀が並んでいない事に気づく。
「
「もう食った」
「そうか。……すまない、くつろぎ過ぎたかな」
警官の勤務形態には詳しくないが朝は早そうだ。そう考えての千隼の言葉だったが、ご飯をよそっていた幸が「ああ、そうじゃないの」と慌てて否定。
「別に千隼ちゃん達が遅かったわけじゃないの。わたしもこれから朝ご飯だし」
「では、鬼無里だけ夜勤だったとか?」
「それも違うけど……。まあ、とにかく椛ちゃんは他の人と同じ物は食べられないってだけなの。気にしないでね」
これ以上は訊かないで欲しい、という笑顔を幸は浮かべる。《鬼憑き》である椛には何かしらの事情があるのだろう。
例えば『人肉しか受け付けない』とか。
千隼としても朝からそんな話を飛鳥に聞かせたくはない。
幸は「はい」と白米が山盛りによそわれた茶碗を飛鳥へと渡す。「どうもです」と当然のように受け取る飛鳥。千隼も朝からしっかり食べる方だが、飛鳥はそれにもまして健啖家だ。私のことも食べてくれないだろうか。
「さあ、冷めちゃうから食べて食べて」
幸の言葉に促され、千隼と飛鳥は「いただきます」と箸を取る。
用意されたのは純和風の朝食だった。ご飯に味噌汁、焼き塩鯖に出汁巻き卵。他にも大根と鶏の煮物や豆と蒟蒻のゴマ和え、椎茸の旨煮、漬け物類と小鉢も豊富。ちょっとした旅館のソレだ。これだけの品数を朝から用意するには、作り慣れているというだけでは足りない。昨晩の時点で既に仕込んでいたか、普段から作り置きがあるのか。幸の「余りものばかりだけど」という言葉から察するに、恐らく後者だろう。
しかも、この朝食は数だけではない。
「ん、おいひい! ほうなってんの、ほれ?」
口に食べ物を入れたまま飛鳥が喜びを露わにする。
しかし食べているのは、普段なら飛鳥が苦手とするものばかりだ。飛鳥は基本的に肉食で、野菜は煮ようが焼こうがあまり食べないのだが今日は違う。だが、それも当然かもしれない。旨煮などは噛む度に、じゅわりと汁が口の中に広がって脳を直接刺激してくるし、大根にも味が染み込んで、特有の水っぽさなど欠片もない。これはむしろ作り置きしていたからこその味なのだろう。味噌汁にしても手抜きせずダシから取っている事が判るし、こんな柔らかい卵焼きは初めて食べた。深山幸という女性のきめ細かい性格が滲むようだった。
「あれ。お姉、七味は? 持ってこなかったの?」
美味い料理を食べて機嫌が直ったらしい飛鳥が、千隼の手元を見て言った。
現金だなと思いつつ、千隼も仏頂面を少し綻ばせて答える。
「いや、持ってきてるよ。だが、この料理に手を加えるのは失礼だろう」
「なんだか恥ずかしいわ。でも、喜んで貰えて良かった」
千隼の隣で幸が恥ずかしそうに笑う。
「千隼ちゃん、いつもは七味かけるの?」
「ええ、まあ」
「お姉は何にでも七味とか、辛子とかつけて食べんの。嫌になるくらいかけんだから」
「へえ、辛いものが好き? 味付け、もっと濃くした方が良かった?」
「いえ、そういうわけでは。ただ私には少し『
何故か一瞬だけ、千隼以外の全員の動きが止まった。
すぐに茶碗や箸の奏でる朝餉の音が再開されるが、幸の笑顔も少し困っているようなものに変わっている。リビングのソファからも、椛の呆れたような空気が流れてきていた。
「えと、ええと――」
悩むように眉をひそめていた幸がようやく口を開く。
「《えむ》って何かしら? 若者言葉?」
再び、沈黙が流れる。
幸は自分が何かマズイことを口にしたのかと思ったらしく、慌てて口を開き、
「あ、あれよね――味つけの頭文字よね? でも辛いは『hot』か『spicy』だから、『H』か『S』じゃないかと思うんだけど、あれ? 違う?」
「……
飛鳥がバッサリ斬り捨て、幸も「そ、そお?」と仕方なく引き下がる。
なぜ教えてあげないのかよく分らない。だが飛鳥の判断なら間違いないだろう、と千隼は納得する。
そんな千隼を飛鳥は完全に無視して、三杯目のご飯をよそいはじめていた。
このペースだと五杯はいくだろう。やけ食いでなければ良いが。
「少なかったかしら? オカズは足りる?」
そう心配する幸に、飛鳥は「大丈夫です」と笑顔を返す。
「でも深山さん、こんな沢山作るの大変じゃないですか?」
「ううん、そんな事ない。誰かの為に料理をするなんて久しぶりで、楽しいの」
幸は微笑みながら「明日からは余り物じゃなく、ちゃんと作るね」と付け加える。
ふと、千隼は飛鳥の笑顔がどこか不自然なことに気づく。
繰り返すが、飛鳥は感情を隠すのが下手くそだ。
普段から笑顔の多い飛鳥だが、あれは本心からのもの。だからこそ先輩にも同級生にも後輩にも教師にも好かれるのだ。
その飛鳥が今、いかにも『申し訳なさそう』な笑顔を――作っている。
「でも、あんまお世話になるのも悪いし……」
「ううん、全然気にしないで」
「いやいや、そんな悪いですよ」
そこで一度、飛鳥は言葉を切って千隼へと視線を送る。千隼の直感では『お姉、合わせて』という合図だ。よしきた任せろ嬉しいぞ大好きだ愛してる頭グリグリしたい。
そして飛鳥は告げる。
「……なので、あたしもお姉も、来週までには家に帰ります」
「それは無理じゃナ」
相槌を打とうとした千隼を
何故、と椛へ問いかけようとした所へ、幸が「わたしもそう思う」と続く。
「《左脚の鬼憑き》が逮捕されるか――この近くにいないと確定するまでは無理なの」
幸の説明によれば、この護衛期間は最低でも二週間と既に決まっているらしい。決めたのは《特例疾患犯罪対策室》の室長。つまり《SCT》のトップ。幸や椛にそれを覆す権限は無い。
勿論、二週間より早く《左脚の鬼憑き》が逮捕されれば話は別だ。
だが、そう上手く事は運ばないだろう、と。
「詳しくは話せないけれど……《鬼憑き》は長くても二週間おきには人を襲うの。だから《左脚の鬼憑き》が近くにいないかどうか判るのは、最短でも昨日から数えて二週間後になるわけ」
「……そんな、二週間も」
飛鳥の顔にはもう作り笑いは残っていない。打ちひしがれた悲壮な表情が広がっている。
「早く……早く、合宿に戻らないと――あたしの脚が、走らなきゃ――」
「そして合宿に戻った途端、陸上部の人間が喰われるわけだのぉ。君と、お姉さんを狙う《鬼憑き》に」
ポツリと、だがハッキリと聞こえるように口にされた椛の言葉。
飛鳥が反射的にキッとリビングの椛を睨みつけるが、椛は動じない。ソファでくつろいだままリモコンを取り、TVの音量を上げた。
ワイドショーのリポーターは告げる。
『――《822事件》から五年。国立競技場が再建される等、目に見える傷痕は癒えつつあります。……ですが、六千人近くの死傷者と行方不明者を出したこの事件。あの夏の日に、被害者や遺族が心に負った目に見えない傷は、決して癒えることはありません』
報道されているのは《822事件》について。一昨日行われた《慰霊大会》に合わせての特集らしい。一瞬だけ、決勝戦で走る飛鳥の姿が映る。だが、すぐに映像が切り替わり《突発性欠落部位再生症候群》――つまり《鬼憑き》とは何かという話題へ移る。
が、その内容はあまり要領を得ないものだった。失った肉体の一部が突如として再生。精神的に不安定になり、破壊衝動に襲われ、他人を襲い、そして喰らう。いまだ原因は不明。免疫や新陳代謝異常、新種のガン、未知のウィルスによる感染症。あらゆる可能性が検証されているが、解明の糸口すら見つからない。女性のみ発症する不治の病。
やがて映像は《822事件》時に死んだ女性の遺族へのインタビューへと移る。
『――母は、あたしの応援に来てくれてたんです。陸上の、高跳びで、貴女が一番高く跳べるって、元気づけてくれて……。でも《鬼憑き》の人が作った爆弾で死んじゃいました。あの日、国立競技場になんか、行かなきゃ良かった。《鬼憑き》が、爆弾なんか――』
遺族の少女が泣き崩れるのを見てから、椛はTVのスイッチを切った。
そして、飛鳥へと向き直る。
「なァ、飛鳥クン。……君の学校で、同じ事を起こすつもりか?」
飛鳥は何も答えられなかった。
見守る千隼も、口にすべき言葉が見つからない。「そんな事、滅多に起こるもんじゃない」の一言も口に出来なかった。千隼と飛鳥に、それを口に出来るわけがなかった。
椛は、白い前髪の向こうに表情を隠して続ける。
「それに現実の《鬼憑き》ハ、世間で言うほど生易しくない。君のお姉さんに訊いてみるとイイ。爆弾なんぞ使わなくとも、《鬼憑き》は君タチの学校を跡形も無く消せるゾ。そうなれば何人死ぬか。何人喰わレるか――」
「椛ちゃん……それくらいにしてあげて」
更に言葉を紡ごうとした椛を、幸が『もう十分でしょう』と言う意味を込めて止める。
確かに、飛鳥の打ちひしがれようは酷いものだった。
自身が陸上に賭ける想いを抑えつけたからではない。自覚していなかった身勝手さに気づいたからこそ、何も言葉に出来ないのだろう。自分が、友人達を危険に晒しても構わないと口にした事が、ショックだったのだ。
やはり、飛鳥は人殺しなど出来る人間ではない。
「飛鳥、」
千隼は妹の名を呼ぶ。
私が何とかしなくてはならない。
千隼はそう感じていた。責任の一端は私にもある。
いきなりだったとはいえ《鬼憑き》となった飛鳥を逃がしてしまったこと。《舌の鬼憑き》と遭遇してしまったこと。《SCT》に助けられてしまったこと。
どれにしても、私が不測の事態に備えていれば何とかなったかもしれない。
姉として、あるまじき失態。
だから、
「すまない。――お姉ちゃんが、何とかするから」
そう千隼は口にした。
が、途端に飛鳥の顔に怒りの表情が浮かんだ。「ごちそうさまでした!」と叫ぶように言い放ち、ダイニングをドタドタと飛び出して行く――が、すぐに何かを思い出したようにダイニングへ引き返してくると、空になった食器をシンクへと運び水へと浸けてから、再び廊下へと姿を消した。
千隼はその様子を、呆気に取られたまま見守るしかなかった。
「ふむ」
椛が呟きながら、立ち上がる。
「お姉ちゃんに何とかされるのが嫌なのカ……それとモ、」
チラリと千隼へ視線を流してから、椛も廊下へと姿を消した。
パタン、と静かにドアが閉ざされ、ダイニングには千隼と幸だけが取り残される。
何が悪かったのだろう。千隼は必死に会話の流れを思い返すが、何も判らない。至らない点はすぐに直さなくては。せめて顔を合わせれば、何か分かるかもしれない。
「千隼ちゃん」
立ち上がろうとした千隼を、幸の手が止めた。
何を、と言いかけた千隼に幸は「今は一人にしてあげましょう」と告げる。
「感情を整理する時間も必要だと思うわ」
「そう、でしょうか」
「そうよ。椛ちゃんには、わたしからキツく注意しておくわ。だから千隼ちゃんも、少し落ち着きましょう?」
そう言われて、千隼はようやく自身も気が動転していた事を知った。表情には出ていないだろうが、額には汗が滲んでいるのが分かる。――当時を思い出したからだろうか。
「もうすぐ、わたしの交代が来るわ。
唐突に、幸はそんな事を言い出した。
千隼の太ももに置かれていた幸の手が、千隼の右手を取る。
そのまま両手で包み込むと、千隼の顔を覗きこむようにして幸は微笑んだ。
「だから千隼ちゃん。――わたしとデートしましょ」
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