姉たる千隼と鬼憑きの姉妹

第2走 お姉さまと沢山の妹たち

　その朝、私立（しりつ）鈴鹿女学院（すずかじょがくいん）はひどい騒ぎだった。

　八月九日の事である。

　仮にも地元では『山の上のお嬢様学校』と呼ばれている中高一貫校だ。マンガのようなとは言わないまでも、どの生徒もそれなりに『お淑やかなお嬢様』を演じている。挨拶は「ごきげんよう」で、親しい上級生の事は「お姉様」と呼ぶし、「あらあら、うふふ」と笑う時にだって口元を隠す。

　そんな絵に描いたようなお嬢様達は今、恥も外聞も捨てて校舎を走り回っていた。

　膝より長い丈のスカートを振り乱し、我先にと駆けていく。

　皆、目的地は同じようだった。

「一体何の騒ぎなんですか？」

　一人の女生徒が上級生へ問う。

　女生徒は四月に高等部へ編入してきたばかりだった。こんな有様を見るのは初めてである。一体、何が起ころうとしているのか。

「千隼（ちはや）お姉様が来てるのよ」

　問われた上級生は、うっとりと瞳を細めて答えた。

　その視線はどこか遠くへ据えられ、頬は朱に染まり、恋する乙女を絵に描いたようだと女生徒は思った。

　少し悔しさを覚えながら、女生徒は確認する。

「千隼（ちはや）お姉様って――――、あの、三月に卒業した？」

「そうよ。あなたも噂くらいは聞いたことがあるでしょう」

　女生徒は「ええ」と答えながら、この四ヶ月あまりで聞いた噂を思い出す。

　曰く、学院に侵入し刃物を振り回していた男を、一撃で仕留めた。

　曰く、屋上から飛び降りた女生徒を、追いかけるように飛び降りて助けた。

　曰く、借金のカタに売られかけた女生徒の為に、ヤクザと話をつけた。

　他者を寄せ付けぬ孤高の立ち姿。顔立ちは彫ったような仏頂面の鉄面皮。

　しかし、その下には熱く優しい心が燃えている。

　鈴鹿女学院における王子様であり――全生徒のお姉様だった人。

　正直な所、女生徒からすると眉唾ものの噂ばかり。尾ヒレどころか翼まで生えてそうだった。だが少なくとも、多くの生徒から畏敬を集めていた事だけは確かなのだろう。

「でも、それとこの騒ぎは一体どう関係が……？」

「決まってるじゃない」

　上級生は女生徒の方を向くと、優しく口を開いた。

「みんな、千隼（ちはや）お姉様に恋してるの」

　千隼（ちはや）が駐輪場にバイクを停めた時には、既に周囲は女生徒達で一杯だった。

　夏休み中ではあるが、帰省せずに寮に残っている生徒も多いからだろう。中等部から高等部までの制服がゾロゾロと集まった光景は、在学中にはよく見たもの。

　しかし、だからと言って慣れているわけではない。

　歓喜に満ちあふれた女生徒達に気圧されながら、千隼（ちはや）は蒼い単車を降りた。義足用に改造されたスズキ《隼（ハヤブサ）》から鍵を抜く。そこでようやくフルフェイスのヘルメットを脱ぎ、軽く頭を振って、折り畳んでいたポニーテールを解放する。それだけで、周囲からため息が漏れた。

　しかしそれも無理からぬこと。

　千隼（ちはや）の外見には、それだけ華があるのだ。

　１８０センチの長身。ボーダーのシャツに薄手のジャケットを羽織り、長い脚を踝丈（くるぶしたけ）のパンツで包んでいる。裾の下から銀色の義足が覗いているが、痛々しさなど微塵も感じられない。その芯のある立ち振る舞いは、舞台で踊る男形のよう。

　千隼（ちはや）はトランクから取り出した杖でコン、と地面を突く。

「久しぶり」

　仏頂面のまま、千隼（ちはや）はそれだけを口にした。元々、千隼（ちはや）は表情の変化に乏しい人間だが、注目される事が苦手である為、輪を掛けて表情が硬い。

　にもかかわらず、女生徒たちからあがったのは歓声だった。

　千隼（ちはや）の仏頂面を「凛々しさ」として捉えたらしい。感情に突き動かされるように女子生徒達は千隼（ちはや）へと詰め寄る。「千隼（ちはや）お姉様、今日はいつまでいらっしゃるの？」「私服がとてもステキです、お姉様」「お姉様、今日は茶道部が中庭で野点（のだて）を開きますの。来て下さいますよね？」「ちょっと、下級生は出しゃばらないでくださる？」「いえ、お姉様。今日ばかりは譲れません」思い思いの言葉をぶつける女生徒達。

「すまないが通してくれ。今日は――」

　そう言いかけた千隼（ちはや）の言葉は女生徒達の声に掻き消される。自身の言葉を千隼（ちはや）に伝える事に必死で、女生徒達は肝心の千隼（ちはや）の言葉が耳に入っていない様子だった。

　そこへ、

「ちょっと、貴女達！　いい加減にしなさい！」

　一喝したのは、壮年の女教師。

　神経質そうな足音を響かせて、千隼（ちはや）と女生徒たちの間に割って入る。

「水無瀬（みなせ）さんが困っていらっしゃるでしょう？　あまり酷いと、来月からもう外出許可出しませんよ」

　よく通る声に、女生徒達もようやく我を取り戻したようだ。「すみません」と言って、千隼（ちはや）から離れていく。それでも遠巻きに千隼（ちはや）を見守っていたが、女教師がひと睨みすると蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

「ありがとうございます、先生」

「いえ、いいのよ。千隼（ちはや）さん」

　そう答える助教師の顔に先ほどまでの厳しい表情はない。晴れ晴れとした笑顔。

　だが、すぐにその表情は崩れ、やがて涙を堪えながら――

「千隼（ちはや）さん――――ど、どうして私を置いて卒業しちゃったのおっ!?」

　言って、女教師は千隼（ちはや）に抱きついた。

　小さくため息をつきつつ、千隼（ちはや）はその頭を撫でる。

「先生の指導の下で、留年なんかするわけにいかないじゃないですか」

「留年しても良かったのよ……。そうしたら二人きりでまた補習が出来るもの」

「いや、それは――」

「成績わざと低くつけたのに、どうして単位落とさなかったのよお……」

「先生、それは懲戒免職ものです」

　まあ、知ってましたが。と千隼（ちはや）は心の中で付け足す。それがバレないように、後から色々と工作したのも千隼（ちはや）だった。

「それで、千隼（ちはや）さん。今日はどうして学院に？」

　頭を撫でられ満足したのか、落ち着いた女教師が涙を拭いて千隼（ちはや）に問う。

　ようやく本題に入れる。そう思いながら千隼（ちはや）は答えた。

「妹を迎えに来ました」