一章 お姉さまと徹甲弾と六角ボルト

第1走 お姉ちゃんと《鬼憑き》

 おに―つき《鬼憑き/鬼付き》

【1】鬼の霊がとり憑いたとされる精神異常のこと。また、その人物。

【2】『突発性とっぱつせい欠落部位けつらくぶい再生さいせい症候群しょうこうぐん』のこと。また、その患者を指す俗称。

         二〇一二年四月 K書店発行『新版 実用国語辞典』より




 ――あの森から二週間前。




 日付が変わって、すでに二時間ほど過ぎていた。

 裏通りの雑居ビルには人の気配はない。闇を払拭しようと健気な抵抗を続ける街灯には『ゴミは朝に出しましょう』という貼り紙。その下には山と積まれたゴミ袋がある。


 そのゴミ山の陰で、水無瀬みなせ千隼ちはやは息を潜めていた。


 後頭部で一つに纏めた長い黒髪と、凛々しい仏頂面が特徴的な女性である。

 濃紺のジャージ姿の彼女は両膝を抱え込むようにして、アスファルトに腰をおろしている。長身の千隼ちはやが小さく縮こまる光景は、見る者がいれば随分とシュールに感じただろう。ゴミ山に寄り添ったことでジャージは汚れ、髪にまでゴミの臭いが移りそうだった。実際、臭いはともかく、ゴミ山に紛れていた小さな蜘蛛が千隼ちはやの肩へ登ってきている。花の女子大生である彼女としては、由々しき自体。

 だが、女子大生の美意識程度の犠牲で済めば安いものだ。

 千隼ちはやはゴミ山の隙間から、その向こうの惨劇を覗き見る。


「――ッ、――ん、ごぷ――」


 一つ先の街灯の下。

 声にならぬ悲鳴と共に、女性が《何か》に丸呑みにされようとしていた。


 人が、喰われていた。


 女性を丸呑みにしようとしているのは大蛇のような《何か》だ。

 大蛇の表面は黒と黄色のまだらようをしており、それが女性の全身に絡みつき締め上げている。聞こえてくる割り箸をまとめて折るような音は、彼女の骨が折られていく音だろう。音の度に女性の身体がビクリと震え、くぐもった悲鳴が千隼ちはやの耳に届く。絶叫がほとんど聞こえないのは、既に女性の頭が《何か》の口の中に収まっているからだった。


 やがて、その小さな悲鳴すら聞こえなくなった時、女性は《何か》に丸呑みにされた。


 ズゾリ、とまだらようの《何か》がアスファルトを滑る。

 途端、スルスルと《何か》はどこかへ吸い込まれていった。

 千隼ちはやは《何か》の動きを目で追う。

 まず目に入ったのは地面に広がる黒髪。《何か》はその上を通り過ぎ、女物のスニーカーにチノパン、カットソー。それらの上を滑って――《何か》は何者かの口へと消えていった。


 それを見て『アレは《舌》だったんだ』と千隼ちはやは納得した。

 普通、《舌》は何かを丸呑みにはしない。それは口の役目だ。ミミズのような口を持ち自ら人間を捕食するものが《舌》だとは思わなかったのだ。


 そして《舌》と言うからには持ち主がいる。

 それは、主婦の格好をした鬼だった。

 少なくとも千隼ちはやにはそうとしか表現出来ない。


 地面に広がるほど長い髪だけなら、まあ探せばいるだろう。顔の半分を隠す前髪から透けている瞳が金色なのも、カラーコンタクトかもしれない。

 だが、額の両端を割って生えている白いツノはあり得ない。

 いや、ひねくれた考えをすれば、それすらも特殊メイクかもしれない。だが、あの《舌》だけはどうやっても言い訳できない。成人女性の腰回りほど太く、十メートル以上の長さがある上に先端に口がある《舌》を人間は持っていないからだ。ましてや、その《舌》を口の中に収めることなど不可能。


 つまりあの主婦は《おにき》なのだろう。そう、千隼ちはやは結論する。


 五年前の《822事件》以来、全国各地に出没するようになった存在。正式には《突発性とっぱつせい欠落部位けつらくぶい再生さいせい症候群しょうこうぐん》の患者とされているが、そんな話は誰も信じていない。


 世間ではもっぱら《おにき》と呼ばれている。


 理由の一つはこの外見。

 そして『《おにき》は人を喰う』という噂だった。

 それが今、自分の目の前にいる。


「――ぐ、おぇ」


 唐突に《おにき》はえずくようにして、何かを吐き出した。

 べちゃり、と柔らかい何かがアスファルトに落ちる。

 それは、人間の舌だった。

 ――誰のものかは、あまり考えたくない。


おにき》は舌を拾い、ポケットから出したコンビニ袋へ放り込む。その頃には《おにき》の髪はセミロングほどにまで縮み、瞳は黒くなり、額からツノも消えていた。

 そこに立っていたのは、どこにでもいそうなごく普通の主婦だった。


 主婦が道に迷ったような素振りで、周囲を見回す。

 目撃者がいないか警戒しているのかもしれない。


 今のところ千隼ちはやは、あの《おにき》の主婦に気づかれずに済んでいる。数分前、千隼ちはやが初めてあの主婦と出くわした時、その背後に位置していた事が幸いした。主婦は千隼ちはやに気づくことなくその姿を《おにき》のものへとへんぼうさせ、それを見た千隼ちはやとっにゴミ山の陰に身を隠すことができたのだ。


 でなければ、喰われていたのは私の方だったかもしれない、と千隼ちはやは安堵する。喰われた女性には申し訳ないが、私はただの大学生に過ぎないのだ。

 そうでなくても私にはハンデがある。


 やがて《おにき》は、そのまま何事も無かったかのように歩き始め、脇道へと曲がる。ほどなくしてその足音も、夜の帳に染み込むように消えた。


 危機は、去った。


 耳を澄ませていた千隼ちはやは仏頂面のままポケットからスマートフォンを取り出すと、手慣れた操作でアプリを起動し画面を確認。それから小さくため息を吐いた。


 もし、それを聞く者がいれば不思議に思ったかもしれない。

 何故ならそのため息には《おにき》の脅威から逃れた『安堵』ではなく『落胆』が込められていたからだ。

 だが今、薄汚い裏通りにはそれをとがめる者はいない。


 千隼ちはやは肩にはりついていた小さな蜘蛛を逃がし、それから緊張で固まった筋肉を無理矢理動かして立ち上がって、


 ――途端、ゴミ山が崩れた。


 千隼ちはやは慌てて支えようとしたが、遅い。

袋の縛り方が甘かったのか、ゴミ袋から一升瓶いっしょうびんが転がり落ちる。静寂に包まれた裏通りに、甲高い音はよく響いた。


 唾を飲み込み、千隼ちはやは耳を澄ませる。

 大丈夫。《おにき》は遠くへ行ってしまったはず。

 千隼ちはやは自身を落ち着かせる為、零れた瓶を拾い、ゴミ袋へと戻


「のぞきは良くないと思うの」


 ――振り返りざまに、瓶で背後を殴りつける。

 確認などしない。何がいるかなどわかりきっている。


 だが、不意打ちにも《おにき》は動じなかった。

 瓶はこともなげにまだらようの《舌》で防がれた。《舌》を叩いた一升瓶がなかばから割れる。千隼ちはやは諦めず、割れてしまった瓶を《舌》へ突き出し――途端、手首に痛みが走った。

 まるで鋼鉄。

 しなやかにぜんどうする《舌》は、見た目に反した強靱さを持っていた。こんなもの、生半可な刃物では逆に折れてしまうだろう。


「健気ね」


《舌》の先端にある口から声が聞こえた。

 千隼ちはやはニヤニヤと笑う《おにき》の瞳めがけて瓶を投げつけ、背後へ跳躍する。

 だが《おにき》はこれにも動じない。

 割れた瓶が頬を切り裂こうとも一顧だにせず《おにき》は、千隼ちはやが着地する瞬間を狙って、《舌》を千隼ちはやみぎあしへと伸ばす。

 足首を《舌》が掴むと、一気に千隼ちはやを吊り上げ、


「あら?」


 ――が、吊り上がったのは右脚だけだった。


 驚く《おにき》にかまわず、千隼ちはやは左脚だけでステップを踏んで距離を取る。

だが、出来たのはそこまで。

バランスを崩した千隼ちはやには、雑居ビルの壁へ寄りかかるだけで精一杯。それを見た《おにき》は怪訝そうに眉をひそめる。

 そして、絡め取った千隼ちはやの右脚――義足を掲げた。


「そう。……貴女は《おにき》にならずに済んだのね」


 バキリと音を立て、千隼ちはやが愛用していた義足は砕き折られた。

 ハンデはより、致命的になった。

 千隼ちはやは歯を食いしばり《おにき》を睨む。

 あの義足は走る事には向いていなかったが、あると無いとでは大違いだ。背負ったナップザックの中には競技用の義足も入っている。だが、装着するまでこの《おにき》が待ってくれるとは思えない。こんな事ならずっと競技用義足を着けていれば良かったと、千隼ちはやは後悔した。


 対して《おにき》は、嗜虐的しぎゃくてきな笑みを瞳に浮かべて《舌》を蠕動ぜんどうさせる。

 鎌首をもたげた《舌》が千隼ちはやに狙いをつけ、


「左脚も義足だったら困るから、頭から食べましょうか」


 その時、千隼ちはやは反応すらできなかった。

 無論、諦めてなどいない。

 すんでの所で避け、ビルの壁に《舌》が刺さった隙に逃げようと考えていた。

 ――浅はかだった。

 それは『銃弾を見て避ける』と言っているようなもの。仮に見えたとしても、十メートル程度の距離では避ける事など出来ない。人間が反応出来る速度ではないのだ。


 だから、

 千隼ちはやを救ったのは『人』ではなかった。


「痛っ――」


おにき》の悲鳴が裏通りに響く。

 見れば、鋼鉄の如き硬さを持つ《舌》の一部が、アイスクリームのようにえぐり取られ、煙を上げていた。


 ――助かった、のか?


 未だ何が起こったのか把握出来ずにいる千隼ちはやは、ようやく目の前にうずくまる何者かに気づく。


 何者かは、ゆったりとした動作で立ち上がった。

おにき》が、千隼ちはやの前に立ち塞がった影を睨む。

 影は、下着姿の女性。

 慎ましい胸をスポーツブラで包み、ひと山いくらの綿パンツを穿いている。痴女にしては少しばかり色気が足りない。だが、それよりも気になる特徴がある。

 地面に広がる長い髪と、金色の双眸。そして二本の白いツノ。

 ――《おにき》だった。


 前髪で顔が半分隠れているのも同じ。

異なるのは、新しく現れた《おにき》は黒と黄のまだらようをした《左脚ひだりあし》を持っていることだ。《左脚ひだりあしおにき》とでも言えばいいだろうか。そいつが《舌》を蹴りとばし、その一部を抉りとったらしい。


《舌》と《左脚ひだりあし》――二体のおにきは無言で睨み合う。


 片や《舌》を、片や《左脚ひだりあし》を掲げて相手を威嚇。見れば、数秒前まで煙をあげていた《舌》は、いつの間にか元通りになっていた。先ほど千隼ちはやの瓶が切り裂いたはずの頬も傷一つない。


「他の《おにき》を見るのは初めてね。どうも初めまして、自己紹介でもします?」


《舌のおにき》が微笑む。

 対して《左脚ひだりあしおにき》は言葉を発しない。その必要を認めていないのか、それとも口を開く事ができないのか。やがて《舌のおにき》も、相手が会話を望んでいないと判断したのか「ふん」と鼻を鳴らし、勝手に話を進める。

「どういうつもり? 別にその娘を食べたいというのなら譲るけど。私はもうノルマは果たしたところだし。だから『同病』の邪魔をするつもりはないわ。目撃者を消せれば何だっていいから。でも――」


 ユラユラと《舌》が揺れ、《左脚ひだりあしおにき》の背後を覗きこむ。

 その度に《左脚ひだりあしおにき》は脚を構える向きを変えた。

 まるで、千隼ちはやを守ろうとでも言うかのように。


「――――――そう」


 全てを悟ったかのように《舌のおにき》は呟いた。

《舌》が、口の中へと引き戻されていく。

 だが先端は《左脚ひだりあしおにき》を指向したままだ。まるで、ギリギリと引き絞られる弓矢のように千隼ちはやには思えた。放たれるのは、弓矢より速く飛翔する大蛇。大砲の一撃にも等しい威力を内包する《舌》である。

 しかし、その《舌》が放たれる事はなかった。


「――?」


 一瞬、視界で銀光がひらめいた。


 直後、

 ボトリ、と。


《舌のおにき》の頭が首から転げ落ちた。


 ゴロゴロと、アスファルトを転がる顔が、不思議そうな表情を千隼ちはやへ向けて止まる。遅れて、切断された首から血が噴水のように溢れ出した。立ち尽くしていた《おにき》の胴体も、糸の切れた操り人形のように倒れ伏す。


 その背後から一人の男が現れた。

 全身黒ずくめの男だ。


 その姿を見て、千隼ちはやは特殊部隊が出てくる戦争映画を思い出した。男の姿は昔、母と妹達と観た映画の主人公と、双眼鏡のような暗視ゴーグルまで同じだった。だが、男の手に構えられているのは自動小銃ではない。

 日本刀、だった。


 男は刀をひと振りして血を払う。それでも《舌のおにき》の血は残り、街灯の光を受けて刀身をなまめかしく濡らしていた。

 ふと気配を感じる。

 千隼ちはやが周囲を見回すと、いつの間にか男と同じ格好をした者達が千隼ちはやと《左脚ひだりあしおにき》を取り囲んでいた。全員が白銀の刀を構え、顔をゴーグルで隠している。


 千隼ちはやは迷う。

 一体、何に巻き込まれたのか理解が及ばない。

 男達には助けられた形だが、問答無用で人間の首を落とす連中を信用出来るのか。そもそも脅威が去ったにも関わらず、男達の緊張は解かれていない。そして、彼らの視線は千隼ちはやと《左脚ひだりあしおにき》に注がれている。彼らにとっての敵は《おにき》か、私か。

 それとも、両方か。

 なら私は――


「オイッ!」


 大声が、千隼ちはやの思考をさえぎる。

 反射的に声の方向へ視線を向けた途端、千隼ちはやの視界が白く染まった。

 それが投光器によるものと気づく前に、千隼ちはやは小柄な何者かの肩に担ぎ上げられる。白い世界に浮かぶのは、逆さまの黒い服。

 男達の一人。

 千隼ちはやがそう考えると同時に、千隼ちはやを担ぎ上げた小柄な男が走り出した。


 だがそれを、まだらようの《左脚ひだりあし》が許さない。


 投光器は《左脚ひだりあしおにき》に対する目くらましだったのだろう。実際、暗い場所に慣れていた千隼ちはやの眼はなかばつぶれてしまった。けれども《おにき》には通じなかったようだ。

左脚ひだりあしおにき》は正確に男の頭部を蹴り飛ばした。


 ヘルメットが宙を舞った。

 ――が、中身は空だ。


 あろうことか、男は千隼ちはやを担いだまま《おにき》の蹴りを紙一重で避けてみせたのだ。

 そして千隼ちはやは自身の勘違いを知る。

 ヘルメットから溢れだしたのは、絹糸を思わせる真っ白な髪だった。そして幼さの残る口元と朱の混じる頬。目元は白い前髪で隠れているし、額の両端にはあり得ない異物が見えた気がしたが、それを除けば間違いない。

 千隼ちはやを担いでいるのは、小柄な少女だった。


「対象、保護しタッ!」


 若くしわがれた奇妙な声。

 千隼ちはやを担いで裏通りを走り抜けた少女が叫んだらしい。

 それよりも『対象』とは私のことか。


 まさか、


 咄嗟に、千隼ちはやは担がれたまま視線をあげた。

 視線の先にあったのは、一斉に《左脚ひだりあしおにき》へ斬りかかる男たち。

 完全に虚を衝いた襲撃だ。しかも男は三人。刀も三振り。三つの方向から迫る白刃。

 決着は一瞬。

 全ての刀が《左脚ひだりあし》一本に叩き折られていた。


「ッ!? 散れ!」


 斬りかかった内の一人が叫ぶ。その顔には暗視ゴーグルはなく、驚愕の色がよく見えた。

 死を覚悟したていかんも。


 しかし男達が覚悟したであろう死は、いつまで経っても訪れなかった。

 折られた刀身がアスファルトに落ち甲高い音を響かせても、《左脚ひだりあしおにき》は動かない。《左脚ひだりあし》を構えるように持ち上げているが、男達には目もくれていなかった。

左脚ひだりあしおにき》は金色の双眸で、じいっと千隼ちはやを見つめていた。

 千隼ちはやも白髪の少女に担がれたまま見つめ返す。


 ふと千隼ちはやは《おにき》の脇腹に走る一筋の朱色に気づく。流石に無理があったのだろう、避けきれなかった一刀があったらしい。

 千隼ちはやは思わず手を伸ばしかけ、しかし、ぐっと堪える。


 やがて、唐突に《左脚ひだりあしおにき》は軽く膝を曲げ、跳躍した。その場にいた誰もが身構えたが、行く先は千隼ちはやでも男達でもなく、雑居ビルの屋上。いとも容易く十階建てのビルの屋上へ舞い下りた《左脚ひだりあしおにき》は、もう一度だけ千隼ちはやを見下ろした後、ビル群の向こうへと姿を消した。

 その方角を、千隼ちはやは白髪の少女に担がれたまま見つめ続ける。

 千隼ちはやの顔には、安堵も落胆もなかった。




 そして日が昇る頃、切り落とされた女性の左脚ひだりあしが発見された。

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