ニオイワチチタケ(Lactarius subzonarius)

ワインを飲む際の楽しみは、ただ単に味だけではない。ワインはまず目で楽しみ、鼻で楽しみ、その後に舌で楽しみ、最後には喉ごしを楽しむ、そしてお酒なので、その後の酔いを楽しむというのもあるかもしれない。つまりグラスに注いだ時の色を見て、グラスの中で少し開かせてから香ってみて、口に含んで味わって、ゴクリと飲んで、酔っ払う。嗚呼しあわせ、というわけである。


つい最近ふと思ったのだが、これはきのこに関しても言えることではないのだろうか。きのこはもちろん目で楽しむし、実は様々な種類の香りを持っているので香りも楽しめる。もちろん、その後の味だってあるし、食感や喉ごしだってある。そして最後に、幻覚性の毒キノコに関して言えば、ちょっと意味は違うが酔いだって訪れるかもしれないし・・・、おっと、それは危ないけれど。


ちなみに、ワインを楽しむ段階の中で言うと、香りという部分は実はとても奥が深く、かつ重要な部分である。ソムリエがテイスティングの際に、「このワインは雨に濡れた子犬のような、非常に濃厚な香りを持っています。」などという、良いんだか悪いんだかまったくわけの分からない喩えを使って香りを表現する場合があるというが、あれはドラマや漫画だけでの話ではなく、実際にそういうややこしい、いや失敬、高等な表現を駆使する人がいるのである。なぜ知っているかと言えば、ぼくはかつてちょっと隠れた名店的なワインショップで働いていたことがあり、同僚のソムリエが「これは東北あたりの山奥の川原の石のような香りだなあ。」と言っていたのを聞いたことがあるからなのだが、話がそれてしまうので、そのことに関してはまた別の機会に譲ろうと思う。


さて、ワインと同様に、きのこの種類を判断する際の基準としても、香りはなかなか重要なポイントとなってくるわけで、きのこの香りも様々なものに喩えられて表現されることがある。というわけで今回は、独特な香りを持つ「ニオイワチチタケ」の話である。


ベニタケ科チチタケ属のきのこで、学名を「Lactarius subzonarius」、漢字で書くと「臭輪乳茸」である。傘の径はだいたい2cmから5cmほど、茶色の傘に不明瞭な同心円状の斑紋があるのが特徴で、和名の中にある「輪」とはこの斑紋のことである。ちなみにこの日は周辺にもいくつか同種のきのこが生えていたが、同心円状の斑紋がほとんど見えないようなものも存在した。チチタケ属のきのこはその特徴として、傘や柄に様々な色の乳液を含んでいるのだが、このニオイワチチタケの乳液は白濁した半透明の水のような乳液となっている。残念ながら今回発見した個体はあまり鮮度が良くなかったらしく、乾燥してしまっていて乳液はほとんど含まれていなかった。


そして肝心の香りについて、このニオイワチチタケ、新鮮な状態ではさほど香りを持たないようなのだが、乾燥するとなんとカレー粉のような独特の強い香りを放つのである。前述のとおり発見した個体は半ば乾燥状態だったため、ひとつもぎ取って香ってみると、きのこらしからぬ何かエスニックな不思議な香りを漂わせていたが、カレー粉かどうかはちょっと・・・定かではない。あるいはきちんと乾燥させれば、よりカレー粉らしい香りを放つのかもしれないが、とにかく独特の強い香りではあった。この段階ではお世辞にもあまり美味しそうな香りだとは言えなかったけれど。


ちなみに食毒については不明、乾燥させると香りはカレー粉になるそうだが、おそらく肉や野菜と一緒に煮てもカレー粉の代用は出来ないであろうゆえ、食用には適さないかもしれない。例えば、もしこのニオイワチチタケの香りが、あえて乾燥させずとも生えている状態のままで、カレー粉を通り越してまさにカレーそのものの香りであったならば、どんなにか驚きと感動に溢れることだろうかと想像してみる。しかもカレーの中でも、幼いころの思い出にある夕暮れ時のカレーの香り、台所の方から漂ってくるあの昭和のカレーライスのカレーの香りだったなら。そんなくだらないことをうっかり想像していたら、ずいぶんと腹が減ってきてしまった。


というわけで、みなさんもニオイワチチタケを発見したら、持って帰って乾燥させて、カレー粉の香りを堪能してみるのも一興かと思う。


ぼくも本当はそれをやってみたかったのであるが、今回は持って帰ってはこなかった。なぜならきのこを割ってみたら、中身がキノコバエの幼虫だらけだったからであることは言うまでもないが、お食事中の方もおられるかもしれないので、それは秘密にしておく。そんなもの見たら、もうカレーもクソもあったもんじゃないよ、という状態だったのである。まあ、カレーもクソも場合によっては見た目が似ているけれどね、などという下品なジョークを飛ばすのも忘れて、ゾッとしてきのこを投げ捨てて帰路についたわけである。

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