第4話 その名は山原条之介信正



 その日、町は一つの話題でもちきりだった。


「聞いたか、山原様が」

「ああ、もちろんだ。侍大将に出世されたって話だろ?」

 よくて番頭――小隊の頭――紛いが関の山だった山原が、侍大将に出世した。

しかもこの町を所領として与えられたというから、当の人々はえらい騒ぎである。


「よかったねぇ。これで少しは年貢が安くなるかねぇ?」

「そういうわけにはいかないでしょ。年貢は大殿様に納められるんだから、山原様の一存で決められないって」

 つい1ヶ月ほど前まで貧乏に喘ぐどん底侍。それが急激に出世するのは、彼と会話を交わした事のある者にとっては我が事のように喜ばしい事だ。しかし中には素直に喜べない者もいる。


「(…山原様、もう町にはいらっしゃらなくなるのでしょうか?)」

「どうした、おみず? えれぇ暗いじゃねぇか。せっかくの可愛い顔が台無しだぜ」

 言いながら男は彼女の肩に手をかけようとする。が、彼女――お瑞は、触れられる前に歩きはじめ、男の手は空を切った。


「ちっ、なんでぇ。つれねぇなぁ」

「ばっかだな、お瑞ちゃんは山原様が好きなんだよ。出世されて嬉しい半分、遠い存在になられるのが寂しいのさ。お前なんざ眼中にねーんだから察しろよ」






「では改めて、山原やまはら 条之介じょうのすけ 信正のぶまさ よ。汝のこれからの働きに期待しておるぞ」

「は、ありがたき幸せ。この山原、殿に粉骨砕身尽くす所存」

 うむと頷く大殿は、覇気こそ感じないが綺麗な良い目の輝きをもった好感のもてる雰囲気を醸していた。

 やや不健康そうな細身な体躯は武士としては心もとない。だがそれがまた、家臣達にお支えせねばと思わせる魅力となっているのかもしれない。




「(名をもらったわけだが…さて)」

 元々が武家の出ではない山原にはこれから一つの課題が待ち受けている。それは家臣内での出身差別だ。

 大殿の側に控えている家臣達の、自分を見る目は一様に侮蔑的。完全にこちらを見下しているのがわかる。

 殿に名をいただくなど身の程知らずが―――そんな嫉妬に満ちた敵意すら感じた。


「(本物の山原ならば萎縮してしまっていたかもしれんが)」

 己の使命を遂行する事が全ての彼には、家臣達が自分をなんと思おうが関係ない。しかし、表向きは山原として彼らとも接していかねばならない以上、今後人間関係上のいらぬ気苦労が待ち構えているというのはなんとも億劫だ。


 殿の御前より下がり、廊下を歩きながら考え込んでいたその時―――




「そこの! これ、そこの者! わらわが呼んでおるのが聞こえぬのかっ」

 自分を呼び止めていると思われる愛らしい声。


「(庭の方からのようだが……)」

 声のする方に視線を向けた山原は、思わずギョッとした。





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