二〇三九年八月七日 十一時三十五分
東京都世田谷区 成城キャベッジモール
2−1
キャベッジモールは総敷地面積が東京ドームよりも大きいという、とんでもなく広大なショッピングモールだった。
何しろ南入り口は小田急線の成城学園前駅に接続され、北入り口は京王線の仙川駅に接続されているのだ。中に
アメリカにはかつての自動車の製造ラインを丸ごと利用した、一周六キロなどというふざけたショッピングモールもあったが、この狭い東京の中においてキャベッジモールは群を抜いて大きかった。
ひょっとすると敷地面積だけで考えれば都内最大容積を誇る新宿のカリヨンテラスよりも大きいかも知れない。
吹き抜け構造になっているぶん、余計に大きさが実感できる。
「ふわー、大きいなあ」
思わずため息が漏れる。
とりあえずショップリストをチェック。
どうやら地下にはそれぞれの食材に特化したスーパーマーケットと巨大なフードコートが軒を並べ、一階は雑貨店、ファッション系のお店はテラス状になった二階と三階に集中しているようだ。四階と五階にはレストラン街があったが、どうせ高いだろうとここはチェックしないことにする。
見てもよだれが出るだけだ。
鈴香の給料でとても払いきれるとは思えない。
ふと顔を上げると、見知った顔が目の前を澄まして通り過ぎていくことに鈴香は気がついた。
水色のワンピースに高級そうな茶色い革のトートバッグ。太いベルトを腰のアクセントにしている。
「あれ? マレスちゃん?」
思わず驚きが口を伝う。
すかさずマレスが右手をトートバッグに突っ込み、一瞬目を怒らせる。
だが、手を振りながらピョンピョン跳ねる鈴香の姿を認めると表情を緩め、トートバッグから右手を抜いた。
鈴香もマレスのトートバッグが銃のホルスターを兼ねていることは知っていた。中には厳ついマシンピストルのほかに予備マガジン、小ぶりのコンバットナイフにスタングレネードまで入っている事も。
さすが特務作戦群。変なタイミングで声をかけると殺されてしまいそうだ。
そういえば雨さんが言ってたっけ。
『あのな鈴香、街で大尉殿と例の嬢ちゃんを見かけたらとりあえず逃げな。連中がいるところは絶対に危ないぞ』
だが今日は日曜日。さすがに事案でここを歩いているってことはないだろうと思い直す。
それに事案で来ているんだったら必ず沢渡一尉が一緒にいるはずだ。
「あら、鈴香ちゃん、こんなところでどうしたの?」
上品にマレスが走ってくる。
鈴香の前で、今度はマレスがピョンピョン跳ねる。
二人で跳ねていたらバカみたいだ。
「あのね、お買い物に来たの。マレスちゃんも?」
両手をマレスの両手に合わせて跳ねるのを二人でやめる。
「うん。この前一着ダメにしちゃったから、探してるの。でもいいのがなかなか見つからなくって」
「そうなの? ここならきっといいのが見つかるよ」
話しながら、鈴香は周囲を覗った。
大丈夫。沢渡一尉がそばにいない。これは事案じゃない。ただのマレスのお買い物だ。
でも鈴香は一応、念のためにマレスに尋ねた。
「ところで、沢渡一尉は?」
マレスと和彦は二人でワンセットだと地区ではみな認識していた。いつも一緒に行動しているし、婚約しているという噂さえある。なにしろおうちが一緒なのだ。何もないと思う方がどうかしている。
二人がセットになるととても危ない。でも、マレスだけなら多分大丈夫だろう。
「んー、誘おうと思って声かけてみたんだけど、すごい機嫌が悪かったから置いてきちゃった」
マレスが苦笑して答える。
「背中越しに模型のグライダーが見えたから、邪魔されたくないんじゃないかな? なんかね、今難しいところ作ってるらしいの」
「ふーん、そうなんだ」
沢渡一尉がグライダーを作ってるなんて初めて聞いた。面白い趣味だな。
鈴香は得心すると、話題を服に戻した。
「でもどんなの探してるの?」
「お仕事で使える服、かなあ。ダメにしちゃったのはシャネルだったから、今度はディオールでも見てみようかなって。新宿にも行ってみたんだけど、良いのなかったの」
ディオール? さすが富豪の孫は言う事が違う。ディオールを仕事着に使うんだ。しかもあんな荒れ仕事なのに。
普通の人が口にしたら嫌味に聞こえそうなセリフも、マレスがしれっと口にすると気にならない。
マレスはある日突然鈴香の前に現れた。特務作戦群に配属になったとかで、沢渡一尉が紹介してくれたのだ。
知人と会うとは思わなかった市ヶ谷地区内で見知った顔に再開して、鈴香は大いに驚いた。だが、マレスはどうやら鈴香の事を覚えていなかったようだ。
『初めまして。これからよろしくお願いします』
と他人行儀にぺこりと頭を下げるだけだった。
そう、鈴香はマレスを知っていた。
それは鈴香が高校一年生の時。
マレスと鈴香は同じクラス、要するに同級生だった。
だが、当時のマレスは世間離れしていて、どこか人を寄せ付けないオーラを帯びていた。
お人形のように整った顔立ち、白い肌、大きな碧い瞳に栗色の長い髪。しかも床体操や新体操が得意だと言う。そうかと思えば、ときおりマレスが発する言葉はどれもどこか『ズレ』ていた。
クラスの男子は大騒ぎしていたが、それでもマレスのバリアを突き破るだけの勇気を持ち合わせている強者はいなかった。
入部した体操部でもメキメキと実力を表し、インターハイ出場も確実と思われていた時、マレスの家族が突然航空機テロで全員死亡した。その後イタリアの祖父に引き取られて日本を離れたと聞いていたのだが、そんなマレスが急に特務作戦群の准尉として帰ってきた時は本当にびっくりした。
3年間の間に何があったのかは知らないが、帰ってきたマレスは以前よりもずっと大人に、しかも凶暴になっていた。いつのまにかに顎の下には細い傷が出来ていたし、どうやら身体も傷だらけのようだ。
一度マレスが半袖の服を着ているときに、左袖の中の上腕に醜い銃創が走っているのを見てしまったことがある。
(しっかし、准尉様とはねえ)
富豪云々を置いておいてもこれは大きなギャップだ。
何しろ鈴香はやっと士長に昇進したばっかりだ。これでもとんでもない抜擢なのだが、准尉となると話は違う。士長と准尉の間にはまだ五階級もの開きがある。三等、二等、一等陸曹、曹長(これは車両開発部ではグループ長だ)を経てやっと次が准尉だ。准尉ともなれば百人以上の部隊を指揮できる幹部隊員の一歩手前だ。
日本史上最凶の特務作戦群は単独行動が多いから、ぞろぞろと大部隊を引き連れて移動することはないだろうが、それでもこの階級差は鈴香にとっては大きなギャップだった。
それなのに、マレスちゃんは何故かわたしに普通に接してくれる。
(なんでなんだろう?)
何度か考えてみたが、答えは出なかった。
敬語を使おうとする鈴香に、マレスちゃんは『敬語は禁止』と命令した。上官の命令は絶対だ。訳の分からない命令だったが、従わないわけにはいかない。念のために典礼規則も調べてみたが、上官に敬語を禁止された際にどうしたら良いかという事については書かれていなかった。
どちらかというと、そういう無茶を発令したマレスが懲罰の対象になりそうな気さえする。
マレスちゃんは『特務作戦群に階級なんて関係ないわ』って笑っていたけど、それだけなのかしら?
ひょっとしたらわたしのことを覚えてるんじゃないかしら。つい鈴香は勘ぐってしまう。
「でもマレスちゃん、ディオールってなんかおばさんっぽくない? わたしがもっといいの見立ててあげる。お店、探そ?」
どうせヒマだし。一人でうろうろするよりはマレスと親睦を深めた方が楽しそうだ。
「でも、いいの? 鈴香ちゃんもお買い物でしょう?」
マレスが少し遠慮した表情を見せる。
「んーん、一緒に行こ? その方が楽しいし」
マレスと話していると、つい、自分の立場を忘れてしまう。
気が付くと、鈴香は高校の同級生と話しているような気分になっていた。
「ありがと、じゃあ、教えて? ……でも、ディオールっておばさんっぽいんだ」
「そりゃそうだよー、ディオールなんてうちら買えないもん」
「じゃあ、どういうお店に行ったらいいのかしら?」
マレスが小首をかしげる。
「んーっとね、」
二人は肩を並べて再びショップ・ディレクトリを覗き込み始めた。
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