Fragility

仕事がやっとのことで落ち着き定時に帰れることになったので、久々に喫茶店TaPiRslAndに行くことにした。

奏音さんに会えるのは何日ぶりだろうか。そう考えると店へと歩く足取りもいつもより早くなった。

特に変な感じはなかった。今日も仕事が終わったな、やっと奏音さんに会えるんだな、まず夢の話をしなくては、あ、今日は月が綺麗に見えるな、ちょっと風が冷たいな。いつものごくごく普通の街だったし、普通の平日の夜だった。

何も感じない、というのは嫌なものだ。それまではいい気分で過ごしてきたのに、その一瞬で気持ちが天国から地獄行きだ。事前に何かを察知できればよかったのにと、何回も思った。

仕事終わりでヘトヘトで家路に向かうサラリーマン達を追い抜かし、早足過ぎたのかちょっと息を切らしながら店の前に着いた。いつものようにドアを開けようとして気づいた。ドアの中央にまだ新しい小さい一枚の紙が半分に折り曲げて貼ってあった。

「ごめんなさい」

ごめんなさい?何が?と考えられたのはほんの一瞬だったろうか。次の瞬間には落胆と不安な気持ちで頭の中が埋め尽くされた。

嘘だ。嘘であってほしい。これこそ夢であってほしい。何があったのか。奏音さんは、どうしてしまったのだろうか。

一応ドアノブを回してみた。もちろん鍵がかかっていた。

前みたいに風邪で寝込んでいるのならまだいい。友達と旅行に行ってるならまだいい。最悪、男ができてどこかに遊びに行ってたとしても、それはそれで受け止めがたいけど、そのほうがまだマシだと思った。このたった一言の貼り紙は凄く重要な意味だということはわかった。もう店は開かない。そう考えたくはないけど、頭の中はネガティブな考えしか回らなかった。

もう、奏音さんに一生会えない。そんな気しかしなかった。

部屋に帰り、風呂にも入らず酒を煽った。

「告白を待っている」とは何だったのか。このまま一生会えず自分の気持ちを伝えられず終わるのか。なんで急に奏音さんは。なんで急に…。

仕事が忙しかったとはいえ、店に行けなかった自分を恨んだ。課長に怒鳴られてでも、周りにどう思われても、残業なんてせずに奏音さんに会いに行けばよかった。

今更後悔してもどうにもならないのだが、悔しくて悔しくて、いつのまにか涙がこぼれてきた。奏音さんのあの笑顔をもう見れないのかと思うと、本当に辛くてどうしようもなかった。

しばらく泣いて、涙がコップに入っても構わず、そのままちょっとしょっぱい酒を飲みに飲んだ。そしてまたいつのまにか眠ってしまっていた。


 そこは雨の中だった。甘い雨。雲ひとつない快晴の空。ずぶ濡れの自分。

そして、雨が止んだ。なんとなく数歩歩いたらどこからともなく女の人が話しかけてきた。「奏音」というらしい。とても笑顔が素敵な人だった。

ここまでが早送りみたいに流れた。まるで過去のハイライト映像のように、要所だけが鮮明に。

「じゃあ次降ってきたら一緒に濡れよっ?ねっ?」

奏音さんがそう言ったところで通常になった。

自分は言った。

「ところで、これからどうしようか?とりあえず前に歩いてく?」

奏音さんは答えた。

「そうだねー、止まってても何も起こらないし、とりあえず進もっか。レッツゴー!」

この人はなんでこんなに楽しそうなんだろうか。一緒にいるだけで自分もとても楽しい気分になってきた。

しかし、ずっと歩いても歩いても何の気配もないし、住宅街が終わらなかった。同じような造りの家ばかりでまるで同じ道を繰り返し歩いているような感覚だった。

二人でトボトボ歩きながらたわいもない話をした。好きな食べ物のこと。好きな本のこと。趣味のこと。奏音さんはいつでも笑顔だった。けど苗字を聞いたときだけちょっと困った顔をして、結局教えてはくれなかった。

どこまで歩いてもキリがなさそうなので立ち止まって休憩することにした。

「お腹すいたねー。コンビニもなんにもないね。」

奏音さんは民家の屋根下に座って言った。

「いつまで続くんだろうね、この住宅街。てかほんとに俺ら二人しか存在してないんじゃね?」

奏音さんはにやけて言った。

「…だとしたらー?もし二人しかいないとしたらー?龍彦君やらしいこと考えてるんじゃないのかなー?男の人ってほんとあれだよねー。」

そういう考えで言ったわけじゃなかったので焦って答えた。

「ち、違うから!そんな意味じゃなくて!えっと…あれだよ!本当に二人だけだと不安だから誰かと出会わないかなぁって。」

奏音さんはまた笑って言った。

「ほんとにー?疑わしいなー。まぁあれだね、なんか男と女、二人だけって、アダムとイヴみたいだね。人類の始まりみたいな。あれってリンゴを齧るんだっけ?あーなんか余計にお腹空いてきたなー。」

その直後だった。また急に青空から雨粒が落ち始めてきた。

「あ、雨だよ。甘い雨。」

自分がそう言うと奏音さんは立ち上がった。

「ほんとだ。雨だ。この雨甘いんでしょ?美味しそう。龍彦君、濡れようよ!一緒に!」

そう言って奏音さんは自分の手を引っ張って立ち上がらせて、二人で道の真ん中に飛び出た。雨は徐々に強くなってきた。

「ほんとだ!甘い!何この雨。甘いし、気持ちいい。」

奏音さんはとても楽しそうだった。まるで水たまりではしゃぐ女の子みたいだった。

やがて雨が弱くなってきた。

奏音さんのほうに目をやって、咄嗟に違う方向を見た。ずぶ濡れなのは当たり前だが、Tシャツが透けて下着が丸見えだった。

自分の焦りを見て奏音さんも気づいたらしかった。

恥ずかしそうに笑って言った。

「あ、そうか。雨に濡れるとそうだよね。透けるよね。恥ずかしいけど…まぁいっか。龍彦君だけしかいないしね。」

その言葉で急に緊張し始めた。自分しかいない?自分には見せてもいい?のか?

やがて雨は止んだ。相変わらず奏音さんを直視できないでいると、いつのまにかすぐ隣に奏音さんがいた。

そして笑わずに言った。

「さっきの話の続き。二人だけなら?もし本当に二人しか存在してないとしたら?龍彦君ならどうする?ねぇ、ちゃんとこっち向いて。」

奏音さんのほうに向き直って言った。

「二人しかいないのなら…もし二人じゃなくても、俺は奏音さんを選ぶ。出会ってまだ間もないのにこんなこと言うのは変だけど、俺は奏音さんの笑顔に惚れました。」

奏音さんは笑顔になって言った。

「私、も。二人じゃなくても龍彦君を選ぶかな。理由はよくわからない。なんかそうするべき気がするんだ。上手く説明できないけど、どこかでもう一人の自分がそう言ってる。この人と恋したらいい、って。」

自分は言った。

「ありがと。そう言ってくれて嬉しいです。」

奏音さんは笑って言った。

「なんで敬語?緊張しすぎだよー。まぁ私も緊張してたけども。下着も丸見えだしね。これからどうなるかわからないけど、よろしくね!」

二人は自然と濡れた身体を抱きしめあった。そして、そのまま自然と軽い接吻をした。


気がつくと、部屋の汚れた机と口づけしていた。そして、頭がガンガンに痛かった。

なんとか重たい二日酔いの身体を起こし、時計を見た。なんとすでに午前十時になろうとしていた。時計を見た瞬間、一気に目が覚めて頭が痛いのなんか忘れてしまったほどだったが、慌ててシワだらけのシャツを着替えてネクタイを探し出したところで、今日の出社を諦めた。コップ一杯の水を飲み干し一端気持ちを落ち着かせて、昨日どこかに放り投げた携帯をベッドの下から探し出して見てみると、案の定、会社から十件近い数の不在着信があった。今更会社に電話するのも嫌だったが、このまま掛け直さないと翌日の出社がもっと嫌になるので、恐る恐る会社に電話した。二、三コールですぐに繋がった。出た相手は最悪なことにハゲ課長だった。

「…もしもし菊池ですけども…。」

と、言いかけたところで遮られた。

「おい、どうした菊池!何回かけても出ないから心配したぞ!たまに遅刻してくるお前のことだから今日もそのうち平気な顔で出社してくるかと思ってたらなかなか来ねぇし、部屋でぶっ倒れてるのかと思ったぞ。今日はどうした?風邪か?」

物凄く怒鳴られるかと思いきや逆に心配されて拍子抜けしてしまった。これも残業をサボらずに頑張って早く終わらせた影響だろうか。しかしここで正直に二日酔いですとは、さすがに言う度胸はなかった。

「えっと…はい、ちょっと高熱で…寝込んでしまってました。すいません。」

いかにも風邪をひいたかのように怠そうに演じるのは久々だった。

「そうか。最近会社でも風邪はやってたからなぁ。誰かにうつされたかもな。まぁ今日はゆっくり休め。それから、風邪を完治させてから出社してこい。誰かにうつしても困るしな。」

そう言って電話は切れた。

「完治させてからでいいのなら明日も休もう。」

と、電話が切れた瞬間にそう決めた。

 二日酔いの薬を飲んで部屋でボーっとくだらないワイドショーを見ながら、今朝の夢のことを思い出していた。

一緒に雨に濡れたこと。雨上がりに奏音さんに告白したこと。そして、抱き合って、キスしたこと。

とても嬉しかった。けどこれは夢の中の出来事であって現実ではないという事実。現実では奏音さんにもう会えないかもしれないという事実。それが嬉しさを半減、いや大幅に減少させた。

夢のことを何回も何回も思い出すたび、奏音さんへの気持ちが強くなっていく一方だった。

「会いたい。奏音さんに、会いたい。」

もう気持ちを、衝動を抑えることができなかった。二日酔いの身体で部屋を飛び出した。車に飛び乗り仮病で休んだ会社の前を通り過ぎ迷わず駅前のコインパーキングに

駐車した。そしてすぐに車を降りて早足で店へと向かった。

店へ行っても奏音さんに会える可能性は低いだろうとは思った。けど今できることはこれしかなかった。奏音さんの住んでる場所も知らなかったし、まして電話番号すら知らなかったことに気付いて悔やんだ。

店の前に着くと、昨日見たドアの貼り紙がなかった。もしや、と思いドアノブを回してみた。鍵がかかっていなかった。

ドアノブを握る手が微かに震えていた。どこからともなく体中変な汗が出てきた。

もう後には引けない。夢の中じゃなくて現実で、現実の世界で現実の自分の口で奏音さんに告白するんだ。

勢いよくドアを開けた。しかしいつもの「カラン」という鈴の音は聴こえなかった。その鈴の音が聴こえなかったこともどうでもよくなった。

ドアの向こう側は、コンクリートの壁と汚れた床と少し錆びた二階へと続く鉄製の階段だった。

何がどうなったのかわからなくなって、すぐにドアを閉めた。入り口を間違えただけだ。そう言い聞かせ辺りを見回した。けどたしかにこの場所でたしかにこのドアだった。喫茶店TaPiRslAndは、たしかにこのドアの向こう側に存在していたはずだった。

一度深呼吸をしてもう一度ドアを開けた。しかしそこには薄暗いコンクリートの部屋と錆びた階段があるだけだった。

一体何がどうなってしまったのか。自分が通っていた喫茶店は何だったのか。これも夢なのか。奏音さんはどこに居るのか。いろんなことが頭を巡りに巡って、二日酔いの頭が一層痛くなってきた。

ドアを閉めてそのまま座り込んで人目もはばからず号泣した。もう奏音さんには会えない。その現実が本当に本当に辛かった。いくら夢の中で告白したって、抱き合ったって意味がない。現実世界で告白したかった。奏音さんを、抱きしめたかった。もうその願いが叶わないことは明確だった。

通りゆく人達が何事かと集まってきたが、それでも立ち上がることができずにいた。

そこに聞いたことのある声が耳に入ってきた。

「人が集まってるから何かと思えば…。なーにやってるんだい。大の男がみっともない。ほら、どいたどいた。あんたら去りな。こいつは大丈夫だから。ほれ、さっさと立ち上がりなっ!」

そう言われて、腕を引っ張られた。泣き腫らした顔を上げると、そこに紫婆さんが立っていた。涙がやっと止まったのに紫婆さんの姿を見たら、また涙が溢れてきた。

「いつまで泣いてるんだい、あんたは。とりあえず立ちな。ほれ、行くよ!」

やっとのことで立ち上がれたが、涙は止まらなかった。そのまま紫婆さんに腕を引っぱられるがままに歩き出した。腰の曲がった全身紫色の婆さんに腕を引っ張られて涙をボロボロ零しながら歩く青年、傍から見たら異様な光景だったことは間違いない。

 ようやく涙が止まり顔を上げて周りを見ると、そこは喫茶店TaPiRslAndがあった場所から数百メートルほど進んだ駅前の賑やかな通りだった。昼近くということもあって、駅前は昼休憩の人達で賑わっていた。

「はぁ…ようやく落ち着いたかい。まったく、足の悪い年寄りに腕引っ張らせるんじゃないよ。私ゃ疲れた。そこにあるカフェにでも入るとするかい。」

紫婆さんの提案で、駅前にあるのだがあまり人気のないカフェに入ることにした。以前にも入ったことはあったのだが、客は自分一人だった。

今回も客は自分達二人だけらしかった。客のいない店内なのに暖房がガンガンに効いていて暑いぐらいだった。

適当に窓際の席に座って待っていると経営者らしきおっさんが注文をとりにきた。本当はコーヒーも飲みたい気分ではなかったが、紫婆さんが催促してきた。注文は紫婆さんに任すことにした。

「あんたは何でもいいのかい?じゃあホットコーヒー二つね。」

久々に客が来たからだろうか、経営者のおっさんは小さな声で返事をして面倒くさそうに注文をとって歩いていった。

「…まったく、あんなやる気のない経営者いるかい?客が入らないのは当たり前だね。変な店入っちゃったよ。奏音ちゃんのほうが…あ、そうだったね。言わないほうがいいね。」

暫く沈黙が続いてから紫婆さんは言った。

「…店、なくなってたろ?私もさすがに驚いたよ。いつものようにドア開けたら薄暗い部屋と階段だからね。まったく…なーんにも言わずにどっか行っちまうんだから。困ったもんだよ。しかしまぁ、結局私ら二人はどこに通ってて何者と会話してたんだい?あんたどう思うんだい?」

紫婆さんが話終えたところでちょうどコーヒーがきた。「早く帰ってくれ」とも言わんばかりにテーブルに雑にカップを置いておっさんは去って行った。

熱い淹れたてのコーヒーを一口含んで答えた。

「まったくわからないです。店がなくなってたことも、奏音さんが何者なのかも。まったく理解できません。ただ…俺はそんなことって言ったら変ですけど、そんなことよりもう一度奏音さんに会いたかったです。奏音さんが何者でもいい。宇宙人でも化け物でも。俺は奏音さんを好きになってしまった。だから、自分の気持ちを直接伝えたかったんです。ただそれだけが心残りで…。」

紫婆さんはいつものように煙草に火をつけて言った。

「そうだね。私もどうだっていいや。もう一度会いたいねぇ、奏音ちゃんに。あの笑顔がみたいしあのコーヒーが飲みたい。こんなまずいコーヒーじゃなくてね。本当に不思議な娘だった。自分でも自分のことを摩訶不思議な人物だと思っているがね、それ以上がいるもんだねぇ。冥途の土産というか、いい経験ができたよ。それと、あんたに出会えたこともね。チャンスを逃さず頑張りな。そうすればいい人生送れるよ。奏音ちゃんとは残念だったけど、まぁ夢の中でうまくいったじゃないか。それだけでもよかったと考えな。」

そう話し終えると、煙草の火を消して立ち上がった。

「長居はしたくなくてね。コーヒー代は二人分だしとくよ。それじゃ。」

ゆっくり歩き出した紫婆さんを見て、何か頭に引っかかることに気付いた。

夢の中でうまくいった?奏音さんと?紫婆さんに夢の中の話したっけ?

はっとして、慌てて呼び止めた。

「えっ、いやてかなんで夢の中のこと知ってるんですか!?俺まだ話してないですよね?夢の中の告白のこと。」

紫婆さんはニヤッと笑って言った。

「雨の夢はね、幸運の暗示だよ。」

どこかで聞いた言葉だった。

「あぁ、この人もよくわからない人だ。」頭がおかしくなりそうだったので、それ以上考えるのはやめた。全身紫色の腰の曲がったお婆さんはゆっくり歩きながらドアの外へと消えていった。













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