Secret

雨の夢は、なかなか来てはくれなかった。

あの「告白」という言葉が出てきた夜から数日経った。毎日あの喫茶店に行きたいとは思っていたが、こういうときに限って仕事が忙しく、残業を終えてヘトヘトで部屋に帰って少し食べてすぐに眠りにつき夢も見ることなく気づいたら朝、という日々の繰り返しだった。

奏音さんのことは、ずっと考えていた。仕事中もずっとあの「告白を待っている」という言葉が頭を駆け巡り、いつも以上に仕事に集中できず進まなかった。なので残業も必然的に増えた。

「お前さぁ、さっきからまったく進んでないんだけど。パソコンの画面見つめてるだけじゃ文字打てないっていうのわかってる?超能力者じゃないんだしさぁ、いくら書類作るの遅いからって念力でやろうなんて無理だから。お前が遅いのみんなわかってるから。とりあえず手を動かせ!手を!」

あまりにもボーっとしているので、ハゲ課長に怒鳴られる回数ももちろん増えた。その度に周りに失笑された。そして一日一回はウザいことに合コン先輩が冷やかしにやってきた。

「なに、いつのまにか念力使えるようになったの?すげぇなー。今度俺にも教えてくれよ。あぁ俺も早くこの書類地獄から抜け出したいよなぁ。今夜もデートの予約入ってんのよねー。お前みたいに毎日残業できるほど暇じゃないんよ。うん。そこでな、念力が使える菊池君に手伝ってもらおうと思ってさー。ちょっとだけだよ、ほら、こんだけ。ほんのちょっとだから。な?頼むわ。今度飯奢ってやるから、じゃ、よろしくー。」

とか言って押し付けにくるので、仕事は増える一方だった。

「こっちだって暇じゃねぇわ!」と言い返したいとこだが、先輩にブチ切れるわけにもいかないのでそこは我慢して泣く泣く引き受けるしかなかった。

そんなこんなで、なんとか書類作成から抜け出し、サボりも兼ねて車でブラブラと営業周りをしていたときだった。駅前の繁華街からちょっと離れた住宅街で道の真ん中をゆっくりゆっくりと歩く上から下まで紫色の人影を見つけた。もしやと思い車で近づいてみると、案の定、紫婆さんだった。

「道のど真ん中歩いてると危ないっすよ、神谷内さん。」

窓を開けて声をかけると、紫婆さんはこっちを向いて、三秒ほどしてからニヤッと笑って言った。

「おや、あんたかい。えーと、龍彦だっかかい。仕事中かい?忙しそうだねぇ。」

「いや、ちょっと会社にいるの疲れたんで抜け出してきたところです。どこか行かれるんですか?なんなら車で送りますよ?」

「そうかいそうかい。息抜きも必要だからねぇ。ちょうど用事を終えて家に帰るとこだったんだよ。送ってくれるのかい?悪いねぇ。」

そう言い終えると、助手席のドアを開けてゆっくりと車に乗ってきた。

「すぐそこなんだけどねぇ、なんせババアになると歩くのも辛くてしゃあない。若いっていいねぇ。」

紫婆さんは吸っていいとも言わないうちに、笑いながら煙草に火をつけはじめた。

「…ちょっ、この車禁煙なんですけ…まぁいいっすわ。道案内してくれます?」

そう言うと、紫婆さんは右斜め前を指さして言った。

「ほれ、あそこにボロボロの小さい家が見えるだろ。そこだ、そこ。あぁ心配いらん。車は家の前に置いとけ。」

本当にすぐそこだった。車に乗せてから五百メートルもなかった。しかも紫婆さんの頭の中ではすでに自分が家に寄る段取りになっていた。まぁどうせ会社に急いで戻ったところで書類地獄なので、ちょっとだけ上がらせてもらうことにした。

 車を降りて家の前に立つと、異様な雰囲気を感じた。そこそこ新しい洋風の家が立ち並ぶ住宅街で一軒だけ和風、しかも屋根の瓦が今にも崩れ落ちそうで庭は雑草だらけ、そして何より家自体が若干斜めに傾いていた。

紫婆さんは車から降りると笑って言った。

「どうじゃ、すごい家だろ。もう六十年ぐらいはここに立っとるんだよ。」

もう庭に入るのも恐ろしかったが、今更断れるわけもなく恐る恐る中に入った。

玄関から中は紫一色といっても言い過ぎではないぐらい紫色に統一されていた。

壁は薄紫、床には紫色の絨毯が敷いてあり、靴ベラも壁にかかったよくわからない絵の額縁も花も活けてないのに置いてある花瓶も、もう視界に写るほぼすべてが紫だった。なんだか頭がおかしくなりそうだった。

恐る恐る聞いてみた。

「あの…なんで全部紫色なんですか?」

紫婆さんはこっちを見ずにゆっくり歩きながら言った。

「…いつの頃だったかねぇ。まるでなにかに憑りつかれたように紫の物に執着するようになってな。なんだろうねぇ。不思議なもんだねぇ。」

顔は見えなかったがなんだか悲しそうだった。奏音さんが言っていたように好きで

紫色に囲まれているのではなさそうに思えた。

傍から見たら全身紫色の変な婆さんだが、実は逃れられないだけなのかもしれない。紫に憑りつかれて、いつのまにか支配されて、逃げようにも逃れられない。紫色から離れたら不安になってしまう。宗教指導者のマインドコントロールみたいなものだろうか。

「私に執着しなさい。そうすれば幸せになれる。」

紫色に、そう言われ続けているのだろうか。

家の中は本当に狭かった。玄関から続く狭い廊下を進むと、奥に八畳ぐらいの狭い部屋と狭い台所があり、あとはその奥に洗面所と風呂があるだけのようだった。

部屋の中は説明するまでもなく紫色だった。小さなタンスと小さなテレビと仏壇があるぐらいで、あとは元・占い師らしいといえばらしく、小さな机の上に水晶玉が置いてあった。

「まぁ座りなさいよ。」

そう言って古びた座布団を持ってきてくれた。

「でさ、急であれだけどさ、あんたに聞きたいことがあるんだよ。」

「…聞きたいこと?」

紫婆さんは座布団に座るなり煙草に火をつけて言った。

「あぁ。あんた、あの娘のことどう思う?どこまで知ってるんだい?」

あの娘とは奏音さんのことだろうということはすぐにわかったが、どう思うと聞かれてどう答えればよいか迷った。

「どう思うって…えっと…奏音さんのことは気にはなってますが…。知ってることといえば、苗字がないってことですかねぇ…。」

照れながらそう言うと紫婆さんは煙草の煙を吐きながら大笑いした。

「かぁー!まったくこれだから若者はっ!あんたが奏音ちゃんのこと気になってんのはこの前すぐにわかったよ。違うよ!そうじゃない!何か変じゃないかってことだよ。苗字がないとかも含めて。」

変かと問われれば、たしかに変だとは思ってはいた。苗字の件もそうだが、夢の中に出てこれることもそうだし、一週間友達と旅行に行っていたというあれも。何か隠しているようだった。

自分は正直に答えた。

「そう言われればなんか変な気はしてます。実は奏音さんは俺と現実で会う前から夢の中で俺と会ってたみたいなんです。なんでも、他人の夢に出現できるって…この前も一週間お店開いてなくて、友達と旅行に行ってたらしいんですが、けどそれもちょっと詳しく聞いてみたら答えてくれなかったし、ちょっと怪しいかなって。神谷内さんは何か知ってるんですか?」

紫婆さんはゆっくりと立ち上がって台所に歩いて行き、しばらくして熱いお茶を持ってきてくれた。そして真剣な表情で話し始めた。

「私ゃね、今までいろんな人を見てきた。今にも自殺しそうな人、ありあまるほどのお金持ち、小さい子供からお年寄りまで。どんな人にも必ず先が見えたし、なんとかいい方向に向かってほしいといろんなアドバイスをしてきた。けどあの娘だけは、唯一あの娘だけは先がまったく見えないんだ。これは私の力不足なのかもしれないとは思ったよ。あの店にはもう何回も通っているがね、本当に見えないんだ。だから私ゃ思ってるんだよ、奏音ちゃんは人じゃないんじゃないかって。」

人、じゃない?人じゃなかったら何なんだ?幽霊?妖怪?狐?もしかして宇宙人とか?頭の中が一瞬真っ白になった。奏音さんが、自分の恋した者が人じゃなかったとしたら。

何も喋れずにいると紫婆さんは続けて話始めた。

「奏音ちゃんが好きなように夢に出てこれるのは私も聞いたよ。苗字がない理由は断固として教えてくれないけどね。まぁもしだよ、もし人じゃなかったとしても、私ゃあの娘が好きだがね。初めてあの店に入ったときもそうだった。あの通りを歩いていたら、ふとあの店の中から呼ばれた気がしてね。何回も歩いた道だったけど、まさかあそこに喫茶店があるなんてね、まったくわからなかったよ。こんな紫色のババアをいつでも優しく迎えてくれて。奏音ちゃんのあの笑顔が私ゃ大好きだよ。」

紫婆さんに言われて、はっとした。まさにその通りだと思った。

奏音さんのあの笑顔が好きなのは変わらない。人じゃなくても、たとえ宇宙人であっても。ちゃんと奏音さんに自分の気持ちを伝えたいと、強く、強く思った。

熱いお茶を一口飲んで、言った。

「奏音さんに導かれたんですかね。俺も、神谷内さんも。」

紫婆さんは煙草に火をつけて言った。

「だろうね。なんでこの二人なんだか、さっぱりわからんがね。」


会社に戻ると、課長に馬鹿みたいに説教された。

書類が終わってないのに何時間ブラブラしてんだ、という内容にプラスして普段の愚痴などを長々と聞かされた。

しかし心はイライラもなく、なぜか晴れた気分だった。

「早く奏音さんに会わなければ。」

そのことしか考えてなかった。

説教が終わると残った書類作成にすぐにとりかかった。その様子を見て先輩がすかさず寄ってきた。

「お、おい。どうした。頭ぶつけたか。お前らしくないぞ。そんなテキパキできる奴じゃなかっただろ。何があったんだよ、おい。」

とりあえず嘘をついて言った。

「仕事に目覚めました。」

と。

そう言った途端、社内が一瞬シーンとなった。そしてちょっとざわざわしはじめた。

課長が早足で歩いてきた。

「菊池、お前…そうか、やっとか。俺の日々の説教がついに実ったか。よし、社長にも報告しといてやるからな。」

大袈裟にも、課長は今にも涙をこぼしそうだった。


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