第二十六話 恢復(Mental recovery)

 事件から二ヶ月以上が経過した。

 十二月初旬。街は冷え込み、クリスマスに向けてせわしくなりつつあった。


 立河知鶴は東京都内に来ていた。今日は講習会も勉強会も学会もない、久方ぶりのプライベートな休日であった。もちろん多くの講習会、勉強会、学会は都内で行われるので、知鶴が休診日に東京都内に赴くことはまったく珍しいことではない。ただ、いつもと異なるのはフォーマルではなくカジュアルな格好であることであった。

 ちなみに、勤務先の院長は今日は学会だと言っていたか。相変わらず勉強熱心なところは、尊敬に値する。


 オフ会に参加したことによって、勤務先のデンタルクリニックには多大なる迷惑をかけた。かなりの日数を欠勤せざるを得なかった。担当歯科衛生士制度を導入している知鶴のデンタルクリニックでは、患者を歯科医師や他の歯科衛生士が代わりにることもあった。しかし知鶴を希望する者も多く、そのような患者については予約の移動を余儀なくされた。仕事に復帰できても、知鶴は非常に疲労が蓄積していた。肉体的にも精神的にも参っていた。普段ではやらないようなケアレスミスをやらかしてしまったりした。幸い、患者に危害を加えるような重大な失態は犯していないが、その変化を見抜かれた患者からは心配されたこともあった。


 吊り橋の破壊によって隔絶されたものの、知鶴自身の推理によって当初の予定どおり二泊三日でオフ会自体は終わった。しかし、枡谷一期、後藤輝市、相馬直里、黒岩彩峰の四名が殺害されるという犯罪史に名をとどろかす事件が発生した。それが鎌形恩という、妙齢の女性一人によって為されたのだが、さらにそれを巡って銀鏡泰オーナーが事件を攪乱した上に丸森桑麻を襲撃、牛窪美穂は主犯人に教唆されて主犯人に対して殺人未遂(ただし殺意はない)を犯すという奇妙な現象が起こっている。さらに事件の真相が明かされるに当たり、我を失った川幡蒼依が丸森を襲撃。結局横にいた実父である荒金英恭によって阻止されたが、彼女もまた殺人未遂を犯してしまった。

 また真相解明によって明るみになった、枡谷、後藤、丸森の非行。銀鏡恵深を自殺に至らしめた行為であり、唯一生存した丸森も警察の厄介となった。もちろん知鶴はオフ会中に丸森に性的暴行を受けたことを証言した。

 そして、事件を解明した知鶴はもちろん、その場にいた訓覇利壱、『ワカバヤシ』こと本名、わかばやしじゅんも当然ながら事情聴取を受けることになる。一連の事件においてまったく加害者にも被害者にもならなかったのは、荒金と訓覇と若林くらいだろうか。オーナーを含めて十三名がそこにいながら、程度の差こそあれ十名が加害者もしくは被害者、あるいはその両方になっている大事件なのだ。正直仕事どころではない。オフ会が終わっても、なお長野県警から連日の事情聴取だ。しかも、この複雑難解な事件とその背景、さらにはトリックまで説明するはめになった。


 『ストロベリー』=枡谷一期。転落死した一人目の被害者。

 『ラズベリー』=後藤輝市。アナフィラキシーによって窒息死を誘発された二人目の被害者。

 『シルバーベリー/ヒマラヤンブラックベリー』=鎌形恩。溺死の未遂の被害者と思われたが、実体は『カウベリー』こと牛窪に働きかけ、自らを殺人未遂に巻き込ませた真犯人。四人を殺害し牛窪を教唆した。吊り橋も破壊。

 『ハックルベリー』=訓覇利壱。電気ショックの被害者に見立てられたが、睡眠薬を飲まされただけで被害には遭っていない。医者らしい。

 『グーズベリー』=相馬直里。『マルベリー』と誤認され撲殺された、実にかわいそうな三人目の被害者。

 『ブラックベリー』=黒岩彩峰。自殺に見立てられて絞殺された四人目の被害者。

 『カウベリー』=牛窪美穂。『ヒマラヤンブラックベリー』に教唆され、その正体が鎌形だと知らずに、鎌形を時限装置で溺れさそうとするが、意図的に未遂に終わらせる。

 『マルベリー』=丸森桑麻。過去に枡谷と後藤と共謀し、銀鏡恵深にストーカー行為をした上に怪我を負わせて輪姦。今回は相馬さんを真犯人の当て馬にして自分は生き逃れる。オフ会中、私を手込めにしようとした卑劣な野郎。

 『ジューンベリー』=若林純奈。

 『ブルーベリー』=川幡蒼依。銀鏡恵深の父親違いの妹らしい。

 『ゴールデンベリー』=荒金英恭。川幡さんの実父らしい。

 『タイベリー』=銀鏡泰。ベリー農園兼ペンションのオーナー。四年前に自殺した銀鏡恵深の実父らしい。鎌形を擁護し事件を攪乱。

 『クランベリー』=立河知鶴(私)。『マルベリー』こと丸森に手込めにされそうだった。

 このようにメモを書いて、警察官に見せながら話した。正直、たかだか二泊三日のオフ会で、初対面の人間が十二名もいれば、当事者の知鶴でもだんだん頭の中で整理しきれなくなる。事件現場にいなかった警察はなおさらだ。また時間とともに記憶は風化していく。よって、忘れないうちにこのように書き留めたものをいつでも携帯しておいた。本当ならすぐに捨てて燃やしてしまいたいくらいだ。なお、メモの一部に知鶴の感情が押さえきれずに表出してしまっている箇所もあるが、それは大目に見てもらいたいところだ。


 この事件は本名になぞらえたベリー類のハンドルネームを持ちながら、誰が誰なのか分からないまま進んでいくというのが、最大の特徴でありギミックでもあるともいえる。果実を現場に置くことで、ハンドルネームでの自己紹介を防いだのだ。それを提案したのは真犯人の『メグ』こと鎌形である。彼女はハンドルネームを悟られない程度の本名で呼び合うことを提案したのだ。

 ハンドルネームが明かされないメリットとは何か。もし参加者全員のハンドルネームが明かされていたら、次の犠牲者となるべく標的が分かるわけだから、それを阻止しようとする動きが具体的になっていたかもしれない。それは犯人にとっては不都合だ。特に、美穂に『殺人未遂』を委託する計画なのだ。『「メグ」を守る』という衆人環視の状況で襲わせるのは、緻密に計画を立てた鎌形本人ならまだしも、気の弱そうな美穂には不可能だろう。絶対ミスを犯すか、『殺人未遂』自体がに終わる可能性も高い。

 鎌形はハンドルネームを公開させないことに重点を置いたのだろう。それを大胆にも、鎌形の発言で成し遂げた。全員初対面であるという大前提のもとで動いていたので、被害者の果実に添えられたもう一つの果実が『次なる犠牲者』を示していた場合、この中にいるかもしれない犯人がその果実に該当するハンドルネームの人物を特定させないように、ハンドルネームの公開を控えようと言ったのだ。

 非常に用意周到な計画で、その狡猾こうかつな発想には犯罪者ながら脱帽ものである。ひょっとしたら、初日の宴会までハンドルネームを明らかにしないようにしようという提言は鎌形のアイディアなのかもしれない。

 考えてみれば、鎌形本人は参加者のハンドルネームを知る必要がなかった。なぜなら、鎌形は標的である枡谷、後藤、丸森の本名を、銀鏡恵深の日記からフルネームで把握していたのだから。強いて言えば最初の被害者『ストロベリー』こと枡谷の正体は参加者の顔や動きを見て推定するしかなかったと思うが、という特性上、しっかり観察すればその動きは誰がそれなのかは分かった。そして予定どおり『ストロベリー』を殺害。あとは、ハンドルネームを公開しないかわりに、それを悟られないような本名で呼び合おうという提案がなされた。その術中にはまった後藤は鎌形に殺された。しかし、『ソウマ』が偶然にももう一人いるという奇跡的な状況をうまく利用した丸森は難を逃れた。代わりに相馬は人違いによってあやめられるという悲惨極まりない末路を遂げる。

 一方で、犯人に仕立て上げられて殺された『ブラックベリー』こと彩峰は、チャット上でも見られた軽薄な発言と、そこから醸し出される容姿が一致したため、容易に正体を見抜かれた。しかも最終的には自分で本名を白状してしまっている。それも計算済みで計画しているのなら、大胆にして非常にせいな犯行と言わざるを得ない。

 とにもかくにも、このようにしてハンドルネームが伏せられたオフ会は、自分の身を守るべく正体を悟られないようにすること、そして他の参加者のハンドルネームを予測することとともに同時に犯人の正体について推理するという、心理戦、頭脳戦を強いられたオフ会だった。結果的に知鶴は犯人につことができたわけだが、もっとそれに早く気付いていれば、もっと被害者が出てしまう前に事件を終わらせることが出来たのかもしれないと考えると、とても悔やまれる。

 犯人の計画した殺人(一件は誤認殺人となってしまったが)が一応完遂されてしまうという無念の結果である。自らも殺害対象になりうるかもしれないという恐怖と緊張と闘いながらという状況であり、探偵でも刑事でもない知鶴にそのような使命はないのだが、それでもどこかで未然に防げたのではないかという、罪悪感ではない罪悪感に嘖まれた。


 そしてようやく立ち直りかけた二ヶ月という月日だ。酸鼻な事件の記憶でうなされる日々が続いた。これが、心的外傷後ストレス障害(PTSD)というものだろうか。それでも時間はにちぐすりとなって徐々に癒しを取り戻しつつあった。まだまだ完全ではないが、事件直後に比べればかなり楽になったと思われる。

 ある意味で、仕事は事件を忘れさせる特効薬となった。しばらくは診療中も随所で記憶が蘇ったが、患者に励まされるかのように少しずつ知鶴は元気を取り戻した。

 もう一つ、知鶴を立ち直らせた人物がいた。その人物とは、矛盾しているように思われるだろうが事件の当事者である。つまりは『ミックスベリー』のメンバーの一人だ。


 チャット上では、もともと仲良しこよしのグループだったのだ。オフ会に至ったのは、仲が良かったから実現されたことであり、凄惨な事件が起こらなければきっと疑心暗鬼な関係になることもなかっただろう。

 また四年前の銀鏡恵深にまつわる人物を除けば、プライベートでも仲良くしたい人物もいるのだ。事件の記憶によって精神的に滅入めいっていても、その残された良識あるメンバーには励まされたりした。同じく事件の恐怖を体験した者どうし、真に傷を癒せるのもまたそのメンバーだけなのかもしれなかった。

 今日、プライベートで東京都に赴いたのは他でもない、その人物に会うためであった。全国各地ばらばらの場所から参加しているはずのオフ会だったが、そのメンバーは有り難いことに東京ディズニーリゾートで有名な千葉県の浦安うらやす在住ということだ。二人とも東京からのアクセスは良い。今ではすっかりかんどりと化してしまった『ミックスベリー』のチャット画面で会う約束を交わした。若者で賑わう渋谷区の某所で待ち合わせたのだ。そう、奇しくもここは鎌形恩と生前の銀鏡恵深がパートナーシップ証明書の交付を申請しようと思っていた場所なのだ。ほんの少しだけ遅れてその人物はやってきた。

「お待たせっ! 知鶴さん!」

 もうハンドルネームでも『タチカワ』さんでもない。真の友達のように、その人物は下の名前で呼んでくれた。手を振りながら快闊かいかつに声をかけてくれたのは『ジューンベリー』こと若林純奈であった。

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